コミュニティビオトープ
先日の養蚕家の方とのお話の中で、ひらめきがありましたので、チラシ裏メモ程度に書き残します。
自然環境に敏感な共同体の特徴
自然環境の変化が、共同体やその構成員(村と村民というとわかりやすいかも)の生活に直結して影響を及ぼしていたであろう時代と現代との違いについて思いつくままに…
結論から言うと、ヒトの生活が自然環境から隔絶されるほど、共同体内の互恵機能や共同関係が形骸化する。生きて行くのに既存社会一択になってるのが課題。と言ってみたいのです。
評価基準の時間的有効範囲
※時代の区別は、仮に超ざっくりと「昔」と「今」と表現します。
昔は自然環境の変化に自分たちの生活の質が左右される上に、どう変化するか予測できないので、自分たちや共同体の「生産」「安全」「保存」「なりわい」などについて「中長期的」(例えば孫世代や子孫だけでなく「共同体」を恒久的な保持を期待する期間)に検討しうる評価基準を持っていたと考えられないでしょうか。そして、その動機は誰しもが普遍的に抱く心理(そんなものあるのか?)に関連していたことでしょう。
いまだに台風ひとつ止められない私たちが、例えば災害から暮らしを守るには、単純に当然ながら「人手(人数)」が必要であったと思われます。利己を担保したければ、利他的でなくてはならず、つまり、利己と利他が共同体の中で循環する「互恵機能」があったと思われます。
互恵機能(利己と利他)
今は、大雨が降ろうとスーパーへ行けばほぼ年中同じ野菜がほぼ買えるし、みんな中央に稼ぎに出て賃金をもらうので、自然の脅威に昔ほど恐ることなく暮らせています。とても良いことだと思います。しかし、昔よりは自然環境から人々が離れたが故に、共同体を恒久的に保持しようとする動機も薄れ、互恵的である必要がないので、当然ながら人と人の接触は減って、付き合いだけが残るのではないでしょうか。
じゃあどうするの?
既存の共同体を外的な力でもって解体するのではなく、それとは別に目標や目的を共有する共同体を意図的につくり、既存の共同体にも利得がある活動をし、既存の共同体とも行き来できるようにする。目的を共有すると、利他と利己の互恵的な循環が起こるのではないでしょうか。で、そんな共同体が点在すればいい。蚕都Grantsはその一つのキッカケになれたらなと思ってもいます。
そういう発想をしたのは、『メディア・ビオトープ』を読んだ約15年前でした。
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