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豊田城(茨城県常総市)

豊田城に拠ったのは豊田氏。豊田氏は平将門を討伐した平繁盛の子孫。前九年の役で功を上げた平政幹が豊田氏を名乗る。戦国期には小田氏と関係を持ち、多賀谷氏南侵を防いでいたが、多賀谷氏に内通した家臣により暗殺、一族滅亡と常総市地域交流センター資料展示室図録。

豊田城の碑が建つのは小貝川堤防上。

明治迅速測図の時代には、碑の近くには城跡マークだけでなく合戦場らしきマークがある。


ネットで見られる旧石下町史によると、城域は北の豊田と南の本豊田と区分。本豊田は武士、商・職人の地域であり、豊田は宗教的地域と小字から推定されている。豊田城の中核は中城。端っこすぎるのが妙だが、舌状台地の先端のような立地と考えると良いのかもしれない。旧石下町史では、城域の北側の豊田に宗教的地域がつくられた理由は、城の鎮護を祈念した現われと推定。北の下妻から攻めてくる多賀谷氏を意識している構造と考えているようだ。


中世豊田城の城域を常総市地域交流センター(バブル期の豊田城)の展望階から眺めると実に広大。


小貝川堤防から戦国期豊田城の本豊田地区を眺める。手前の畑は低地で集落が自然堤防上の微高地。わずかな比高は防御にはならなそうだが、中世の低地は泥田だったろうか。集落の向こうにはバブル期の豊田城が見える(矢印)。


戦国期豊田城域の本豊田を歩く。明治迅速測図での小貝川西岸の堤防上の道と一致する道。もしかすると、中世以来の集落の端の残像ではないかと想像を膨らます。


龍心寺という寺院の吸い込まれる。


本豊田の龍心寺。日本歴史地名体系によると、開基は豊田政幹。前九年の役の時代に活躍した豊田氏の祖。とすると平安時代に遡る歴史があることになる。


日本歴史地名体系によると、開基の頃の龍心寺は若宮戸にあったという。それ以後は豊田氏の帰依を受け、豊田城築城の際に現在地へ。前九年の役で功を上げた豊田氏の初期の本拠と安部宗任信仰がある宗道が近いのは興味深い。天正年間に豊田氏が多賀谷氏に滅ぼされた後は、豊田城主となった多賀谷三経により下妻の多宝院の僧が招かれ新たに開山。


本豊田の龍心寺を経て、中城の字名が存在し、豊田城の中核だったと推定される地域に足を踏み入れる。集落内でもわずかに高い位置にあり、路傍には歴史を感じる巨樹の切り株が残る。

豊田城の中核、本豊田字中城には豊田城の歴史伝承が記されている土地改良の碑。多賀谷氏重臣白井全洞が豊田城を攻めるも難攻。豊田氏家臣飯見氏と内通し、豊田治親を謀殺。豊田城は落城。飯見氏は豊田氏遺臣に引き渡され無残に処刑。壮絶な伝承である。

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