常陸太田城(常陸太田市) 2023年3月
常陸太田の歴史ある市街がある鯨ヶ丘と呼ばれる台地。中世には台地全体が舞鶴城(太田城)で佐竹氏の居城。主郭部の南北にも城下町が広がり、北は馬場八幡から南は梅照院まで数kmに及ぶ巨大な城だったと「図説茨城の城郭」。
太田城の歴史
佐竹氏の本貫地は太田城の南西にある佐竹郷。そこで名乗りを上げた佐竹氏は当初、馬坂城に拠る。太田城を築城したのは藤原秀郷流小野崎氏。佐竹氏は小野崎氏を圧迫し、太田城を手に入れたと「図説茨城の城郭」。佐竹隆義の頃なので平安末期の出来事か。佐竹氏が太田城に拠って以降、源頼朝による討伐、南北朝動乱、山入の乱と太田城を捨てるレベルの度重なる大ピンチ。それらを乗り越え水戸城に移るまでの460年間、佐竹氏の本拠地だった。戦国末期には北条氏と関東の覇権を争うのだから城の巨大さも納得。
太田城主郭部をめぐる
太田小学校内で関係者以外は近づけない舞鶴城(太田城)の碑から、太田城めぐり開始。一帯は東西に分かれる本郭の西郭と「図説茨城の城郭」。
主郭部北部の現在は太田第一高校。その西側の道は高校敷地より低いが、縄張り図に照らすと北郭の堀に相当するらしい。縄張り図は茨城の中世城館131674_6_茨城県の中世城館.pdf。
太田小学校の西側の崖下をぐるっと回る。このあたりは城郭があった時代の雰囲気に近いだろうか?
主郭部の南西には若宮八幡宮が鎮座。日本歴史地名体系によると、太田城の守護神として応永元年(1394年)に創建。
若宮八幡宮を創建したのは佐竹義仁と日本歴史地名体系。社殿屋根の神紋には佐竹氏の五本骨扇に月丸。佐竹義仁は佐竹義人ともいうらしい。国史大辞典によると、佐竹義人の存在が佐竹氏に波乱を呼ぶ。先代に後継ぎがいなかったため関東管領・山内上杉氏から佐竹氏に養子に入った義人。佐竹一族内から反発されつつも、足利持氏の力添えもあり、佐竹氏当主を継ぐ。しかし、その後の鎌倉公方に関わる混乱に巻き込まれ、佐竹氏庶流の山入氏も反抗。100年近く続いた山入の乱の原因になってしまったようだ。
主郭部東端、中城という名前の交差点からは、里川の低地に広がる街に向かって道が下る。西側と違って結構比高が大きく見える。
里川の低地に広がる街が急激に発展したのは平成に入って以降くらいだろうか。今昔マップで眺める。
馬場八幡宮
中世の太田城の城下町の北端だったとされる馬場八幡宮を訪ねる。
常陸太田市のページによると、前九年の役の際の1056年,源頼義が奥州に向かう途中で,石清水八幡宮のを分祀したとの伝承があるようだ。その後も源氏の流れをくむ佐竹氏の守護神に。1580年に佐竹義重により再建されたという社殿が現存。
日本歴史地名体系によると、佐竹氏が水戸に移った際に馬場八幡宮から勧請されたのが水戸八幡神社、そして秋田転封になった際にもさらに勧請されたという。秋田城内の八幡神社と想像されるが、秋田周辺には八幡神社が多い。
馬場八幡宮は中世太田城の城下町の北端だったという。馬場八幡宮から南にのびる参道を眺める。
梅照院
中世太田城の北端に続いて訪ねた南端。常陸太田駅前ロータリーから眺める梅照院。
梅照院は、元々、梅龍院という額田(茨城県那珂市)にあった寺院で、1461年に太田に、その後、江戸時代に現在地へと移ったと現地解説板。太田城があった時代には出丸が台地先端のこの地にあったと「図説茨城の城郭」。
梅照院の本尊は阿弥陀如来坐像。明治時代に迎えられた仏像だが、1514年に東金砂高津山の本尊として佐竹義舜が寄進した銘文が刻されていると現地解説板。梅照院の本尊である阿弥陀如来坐像は佐竹義舜の寄進。山入の乱で太田城を奪われ、東金砂山に籠っていた義舜。太田城を取り戻したのが1504年。義舜が東金砂山への感謝を込めて寄進した像と推定されているようだ。