三条院城(茨城県つくばみらい市) 2021年5月
三条院城の歴史
「図説 伊奈のあゆみ」によると、三条院城には室町時代に三条卿なる公家が住んだという伝承があるが歴史は不明。遺構からは戦国期につくられた城と推定。舟入と考えられる遺構も残る。領国経営というよりも軍事に特化した構造から、板橋城攻めを行った多賀谷氏の陣城との推測も可能。板橋城は目と鼻の先。
鎌田集落
三条院城があるのは鎌田集落。「図説 伊奈のあゆみ」によると、鎌倉時代の弘安二年(1279年)の土地台帳である常陸国大田文に記されている鎌田。鎌田では、奈良~平安時代の地域の役所の機能が想像される大規模な遺跡も発掘され、当時から単なる集落ではないとの推定。
三条院城
下妻城からの多賀谷氏南侵に思いを馳せるカシミール地形図。陣城にもかかわらず三条院城に舟入をつくったとする意図は何だろうか?岡見氏方板橋城と足高城の連携を台地上だけでなく、衣川低地側からも遮断することで、多賀谷氏は板橋城を落としたのかもしれない。多賀谷氏は板橋城を落とした後に、泊崎城で牛久城と足高城を遮断し、足高城まで落城させる。泊崎城への侵入は台地上のルートが重要だろうが、舟入がある三条院城の陣城を拠点として衣川低地~牛久沼の支配も奪ったのかもしれないと妄想を膨らます。
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