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品川湊(東京都品川区)
歴史
「品川区史2014 」によると中世の品川に拠った大井氏は、12世紀に役人として京都から派遣されたらしい。京武者と呼ばれる武士だ。「「京武者」の東国進出とその本拠地について : 大井・品川氏と北条氏を中心に」によると、中世の品川に拠った大井氏は、京都とや伊勢との関係が深い紀氏の一族。実直の時代に品川湊を掌握。江戸湾沿岸に勢力を広げ、実直の子たちが各地を本貫地とする。品川湊は、武蔵の国衙(東京都府中市)と品川道で結ばれ、国衙の外港「国府津」の機能を担っていたくらいの重要港湾だったようだ。品川湊を本貫地としたのは、大井実直の子から始まる品川氏。
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「品川区史2014」によると1424年に品川氏は没落。足利氏の庇護のもと、品川湊は商人の街として以後発展。ここで登場してくるのが、熊野権現の神職の流れをくむ鈴木氏・榎本氏・宇井氏。「海にひらかれたまち 中世都市・品川 」によると、鈴木・榎本・宇井氏は熊野権現に鮫を奉納し、家紋に鮫の牙を用いていた氏族だったという。品川にある海晏寺には鮫の腹から観音像が出たとの創建伝承があり、鮫洲の地名の由来にもなっているが、鮫との関りはこの三氏の存在が鍵になるようだ。
戦国時代の動きは調べ切れていないが、「品川区の歴史」によると、高輪原の戦いで北条氏綱が上杉朝興を破り、江戸にまで進出。その後の品川湊は北条氏配下の宇田川氏と鳥海氏が支配。宇田川氏は品川神社の神職も務めた。
品川湊を歩く
品川湊探訪に行く。風景の変化が激しい都会のど真ん中。どこまで品川湊を実感することができるかと思いながらの探訪。
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品川駅東口(東京都港区)。現在、インターシティと呼ばれる地域が操車場だった風景を実際見ているくらいの世代なので、今の街並みを歩いた時には、その変わりっぷりに驚く。明治迅速測図を見ると、このあたりはまだ海。
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品川東口駅前の道を南に行き、突きあたると船宿が並ぶ品川浦舟だまりにたどり着く。江戸っぽいのだが、このあたりは明治時代は海の上。
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品川浦舟だまりにかかる天王洲橋を渡り、右折して道をまっすぐゆくと、やがて妙な角度で道が曲がる(今昔マップの青矢印の位置)。これは御殿山下台場(東京都品川区)の角に対応するようだ。
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御殿山下台場の角を曲がってまっすぐ行くと、品川浦舟だまりに掛かる北品川橋(東京都品川区)。明治迅速測図では目黒川が品川浦へと流れ出る位置。
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昔の目黒川は砂嘴に阻まれ、大きく湾曲し、現在の北品川橋あたりで海へと流れ出ていた。その様子は明治迅速測図で味わえる。砂嘴の先端部に造られたのが御殿山下台場。
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八つ山通りの歩道橋から品川浦船だまり方向を眺める。明治迅速測図と現在の地図を比較すると、八つ山通りの分も加えた幅を旧目黒川は持っていたのではないだろうか。品川湊は旧目黒川河口の地形を利用した良港だったと想像される。
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貴重な風景画像を発見。1965年に撮影された「品海橋より見た旧目黒川」。やはり幅が広そうだ。