東林寺城(茨城県牛久市) 2022年1月 4 産鉄族 2023年4月14日 23:28 東林寺城の歴史東林寺城は牛久城と同様に岡見氏の城。戦国末期には佐竹 vs 小田原北条氏の戦いの最前線で、佐竹方の多賀谷氏と北条方の岡見氏の間で衝突。多賀谷氏が泊崎城を目と鼻の先に築いた緊迫の状態。東林寺城の広大な特徴は、佐竹氏・多賀谷氏の南侵に備えた牛久在番衆やさらに大規模な北条方の援軍が駐屯するためと牛久市史では推定。撮影地点クリックで撮影地点を示すTwitter投稿が別ウィンドウで開きます。東林寺城の遺構牛久城から東林寺城へは稲荷川を渡る。まずは、東林寺城が築かれた半島状台地の先端へ行ってみる。台地の先端が東林寺城のI郭だったようだが現在は削平されて消滅。今昔マップの過去空撮画像で遡ってみると、1970年代までは残っていたようだ。土塁上の樹木がI郭を際立たせている。I郭があった台地先端は削平。その後できた斜面には道がついている。I郭があった台地先端の道を登ると東林寺城の標柱と解説板に至る。東林寺城の標柱と解説板が立つ台地の南端は牛久沼の好展望地。牛久城外郭部と泊崎城も併せて眺められる緊張感ある風景。かつて存在したI郭の土塁を地点Aで立体写真。土塁はなんとか残った。藪が濃いが地点Aから少し北西に進んだI郭北東の角の土塁を立体写真。手前には浅い空堀。現地説明板によると、一帯の「新地」という地名は牛久城との新旧を示唆すると考えるようだ。地点BからII郭の平坦面を眺める。地点CでII郭とIII郭間の土塁を立体写真。土塁で道は屈曲し空堀に掛かる土橋へと続く。 地点CでII郭とIII郭間の迫力ある土塁と空堀を立体写真。地点CでII郭とIII郭間の空堀にかかる土橋を立体写真。III郭は実に広大。III郭を北上すると地点Dでまた土塁がそびえる。立体写真。III郭の北端にそびえる土塁に設けられている虎口を立体写真。III郭の北端にそびえる土塁の虎口を立体写真。虎口の先にはIV郭へとうつる土橋。その土橋の先には馬出があったと牛久市史。 III郭の北端にそびえる土塁に登り、虎口からIV郭へと移る土橋を立体写真。 III郭の北端にそびえる土塁に登り、III郭とIV郭の間の空堀を立体写真。 地点EのIII郭とIVの郭の間にかかる土橋の上から西の空堀を立体写真。奥で左手のIII郭縁の土塁が右に張り出していて横矢がかけられている。地点EのIII郭とIVの郭の間にかかる土橋の上から東の空堀を立体写真。IV郭を抜け、IV郭北端の低い土塁と浅い空堀を地点Fで #立体写真 。IV郭を抜け、地点Fを過ぎると、城の台地の東側の稲荷川の低地に下る道がある。台地下には新地の集落。台地下の集落から、III郭とIV郭の間の空堀に入る道があった。地点Gの迫力の堀底道で立体写真。地点Hには東林寺。東林寺は15世紀後半に岡見氏により開基と日本歴史地名体系。岡見氏の滅亡とともに衰退し、その後、牛久に入った由良氏により金龍寺として再興。江戸時代に入ると牛久藩主山口氏によって旧名の東林寺に改められたらしい。東林寺の本堂裏には歴史を感じさせる五輪塔。元々は東林寺城のI郭にあったようだが、削平工事の際に東林寺へと移設されたと解説板。室町時代作と推定。花崗岩製なので、小田氏が拠っていた筑波山からの石材だろうか?岡見氏は小田氏庶流。 東林寺(茨城県牛久市)の前を流れる稲荷川の低地から筑波山を望む。東林寺(茨城県牛久市)の前を流れる稲荷川の低地から筑波山を望むクローズアップ。 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #北条氏 #牛久市 #立体視 #中世城郭 #小田原北条氏 #立体写真 #多賀谷氏 #岡見氏 #牛久城 #東林寺城 4