多古城(千葉県多古町)
多古城がある台地を南方の志摩城あたりから眺める。台地の手前は多古町市街。
多古城の解説板によると、千葉氏嫡流の千葉胤直は1455年、叔父の馬加康胤と重臣の原胤房に攻められる。子の胤宣、弟の胤賢とともに千葉から多古に逃れ、多古城と志摩城に籠る。しかし馬加・原勢の攻撃で次々自刃。胤直は東禅寺まで落ちのびるも包囲され自刃。千葉氏嫡流はこの地で滅亡。
低地に突き出した舌状台地上にある多古城をカシミールスーパー地形で眺める。低地よりやや標高の高い台地下の領域に多古の市街地が広がっている。それにしても台地上の開発で削剥が激しい。
台地上の多古城には妙光寺から上がる。原氏の本貫地である染井の原、小井戸の滝付近にあったとされる寺院。一説には戦国末期に牛尾氏によって現在の地に移転されたという。牛尾氏は原氏の分流で戦国末期は多古城城主。千葉氏嫡流滅亡の時代よりだいぶ後の歴史。
台地にあがりしばらくして現れる道しるべを頼りに歩くと多古城の空堀にたどり着く。
空堀を立体視。説明板によると、畝堀も発掘され、小田原北条氏の影響も推定できるらしい。
多古城の東には天神社が鎮座する孤立台地。「多古町ぶらり散歩」によると、元は岬状の地形で多古城の一角をなしていたようだ。江戸時代に台地の開削が行われ孤立台地に。たこらぼがある土地も台地の削平でできた土地。昭和初期の発掘の際には付近から銅銭約490kgが出土。
開削された地域は低地よりはやや高い標高を保ち、切通という地名となっていた。明治迅速測図で眺めると、多古市街とは別に賑わいがあった地域らしい。
多古城の東の孤立台地。参道階段を登ると天神社が鎮座。
多古城の東の孤立台地は物見櫓のようなものが残っていてもよさそうな立地と妄想しながら、天神社横の高まりを立体視してみる。
多古城の東の孤立台地から志摩城があった島方向を眺める。
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