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板橋城(茨城県つくばみらい市)

「図説 伊奈のあゆみ」で知る中世。板橋城は足高岡見氏家臣の月岡氏の城。多賀谷氏による攻撃の際には三条院城という陣城を直近に築かれ、1586年に落城。台地の狭窄部に土塁(青点)を設け、不動院や門前町を守る外郭を持つ城郭と推定。現在でも土塁が断片的残っているらしい。不動院は9世紀に開かれた古刹で月岡氏はその守護者。

日本歴史地名体系によると、9世紀の大同年間に遡る創建伝承を持つ。1443年に兵火にあった後、月岡氏により再建されるも、天正年間(1573-92年)に再び炎上。文禄年間(1592-96年)に再建。この時に再建された本堂と楼門が残るというからスゴイ。

戦国期の炎上は下妻城に拠った多賀谷氏による1586年の攻撃の時と想像。下妻城の多賀谷氏南侵に思いを馳せるカシミールスーパー地形図。

板橋不動尊の駐車場のそばでは何やら発掘中。

これは何が出土したのだろか?発掘情報いばらき(発掘当時の情報)によると集落跡を発掘しているらしい。発掘後には野田牛久バイパスになる土地。 

板橋不動尊をも囲む外郭だった土塁が残るという鹿島神社裏。それらしきものを見つけて立体視。

外郭だった土塁のすぐ脇を通る道を西に行くと谷へと下る道がある。「図説 伊那のあゆみ」によると、外郭の土塁と組み合わされていた堀の跡だという。

板橋城があった台地の西の低地に降りると谷津の向こうに小張城の台地。かなり近接している。

明治迅速測図に見る板橋の街路はなかなか複雑。もしかすると板橋城があった中世の残像なのかもしれないと歩いてみる。板橋城の主郭があったのは内宿(現在の内町か)の南端。それとは別に古宿という集落も発達。

板橋不動尊の前を通る県道は、角っと曲がるので古いかと思っていたら、明治迅速測図の時代には存在しないようだ。

板橋不動尊前の県道と交差する細い道が明治迅速測図の時代にもある道。板橋不動尊の前から内宿へと至る道。

内宿の風景。道の両脇に旧家が並ぶ。梅の咲く季節。

板橋の内宿には主郭を分ける堀があったと「図説 伊奈町のあゆみ」。それを意識して歩いたものの、痕跡を見つけることなく台地の下へと下る。

板橋城の台地を下ると目の前には小貝川の低地。中世は衣川(鬼怒川)が流れていた低地。

板橋城の台地崖下沿いを台通用水が流れる。

板橋城の台地崖下沿いを流れる台通用水の視線の先には三条院城。「図説 伊奈のあゆみ」では、戦国末期の板橋城落城の際の多賀谷氏の陣城と推定されている城。

再び台地へと上がり、旧家が並ぶ古宿の道を歩いて、板橋不動尊へと戻る。

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