深大寺城(東京都調布市)
立地と歴史
深大寺城は、深大寺のある谷の南の舌状台地の先端を占めている。さらに南を中央自動車道がかすめている。うまく外してくれたのか、自動車道建設で消滅しなくてよかった。カシミールスーパー地形で味わう深大寺城。
深大寺城の歴史。北条氏綱に奪われた江戸城を奪還すべく上杉朝定が難波田弾正を派遣して深大寺城を改築。しかし江戸城を出陣後の氏綱は深大寺城をスルーして川越城を攻撃し、朝定を蹴散らしてしまった。以後、深大寺城は廃城に。北条の小沢城も近く、当時の国境地帯の城。
年号を調べたところ、以下の通り。
1524年 北条氏綱により上杉朝興の江戸城落城。
1530年 小沢原の戦い。上杉朝興は深大寺城に、北条氏康は小沢城に布陣。
1537年 上杉朝定が難波田弾正に命じて深大寺城を増築。
1537年 北条氏綱により上杉朝定の川越城落城。
深大寺城は神代植物公園水生植物園内にあり。国指定史跡。
現地解説板による深大寺城の縄張り図。
撮影地点
城域を巡る
深大寺城への現在の登城路を登るとそこにはそば畑(地点A)。小学生も参加している地域活動らしい。今昔マップ・明治迅速測図を見ると、現在は公園となっている城址は先端部以外は畑だったようだ。こんな感じのそば畑が広がっていたのだろうか。
第二郭と第一郭をつなぐ土橋とその手前の土塁を地点Bから立体視。
第二郭と第一郭をつなぐ土橋上の地点Cから空堀を覗く立体視。西股さんの解説によると薬研堀が発掘された場所はこの一帯らしい。第二郭の縁の土塁を調子にのって勢いよく越えて、ハマってしまうと怖い薬研堀。
第二郭と第一郭をつなぐ土橋上の地点Cから虎口の向こうの第一郭を覗く立体視。いよいよ第一郭に足を踏み入れる。
第二郭からの土橋を渡り、虎口を抜け、第一郭に入ってすぐに城址の碑と縄張り図解説板(地点D)。その裏手には、櫓台とされる土塁の高まりがある。
第一郭の縁をとる土塁がわかりやすい。地点Eより立体視。
第一郭の真ん中に半島状に突き出た土塁を地点Fから立体視。郭の中でどんな役割があったのだろうか?
第一郭で見つかる円礫。城をつくった際に使われた円礫か?あるいは公園工事で持ち込まれたのだろうか?調布市の資料によると10mくらいの厚さのローム層の下に武蔵野礫層。湧水の帯水層になっている地層らしいので谷に下りれば露出しているか。
第一郭の西にある腰郭(地点G)に下りる道があった。腰郭は休憩所になっている。カシミールスーパー地形でもくっきり現れる腰郭。
第二郭内には、発掘で明らかになった戦国時代の建物跡が石柱で示されている。
第二郭の南の端の虎口を地点Hから立体視。虎口の向こうには土橋を経て腰郭があったらしいが、フェンスがあり、確認せず。
第二郭と第三郭の間の空堀と土塁を地点Iあたりから立体視。迫力ある土塁がよくぞ残ったと思ったが、「戦国の城の歩き方(西股総生著)」によると、このあたりの土塁は公園化の際の復元とのこと。
台地上の郭の東にある谷底は湿地帯。地理院地図では深大寺湿地とある。崖下には湧水があるようだ。戦国時代も堀を兼ねた湿地帯か、あるいは谷津田になっていただろうか?