海老ヶ島城(茨城県筑西市)
立地
明治迅速測図で賑やかな感じの海老ヶ島の街並みは日本歴史地名大系によると、真壁―下妻街道筋の宿場町としての繁栄を表しているようだ。中世の海老ヶ島城はこの宿場町とは川を挟んだ台地上、湾曲した川の内側の部分に相当するらしい。
そもそもなぜ海老かと疑問に思ったが、カシミールスーパー地形でそれっぽい色にすると確かに海老だった。これが本当に地名の由来なら(本当なわけもないが)、中世の人はどこから眺めてこの海老を認識したのだろうか?
中世でも筑波山山頂からは眺められただろう海老ヶ島。以前、男体山山頂からとった風景にぎりぎり海老ヶ島が入っていた。確認したものの、海老には見えず。
海老ヶ島城周辺の地形を広域に調べてみる。国土地理院土地条件図による地形区分をカシミールスーパー地形に記す。海老ケ島のあたりは低地のように見えるが協和台地という区分。現在の桜川の流路にかつて流れ込んでいた鬼怒川の流れがつくった地形面と想像。
歴史
日本歴史地名体系によると、応仁の時代に結城成朝の嫡男・輝朝が海老ヶ島城に入城し、海老原氏の祖となったとある。海老ヶ島城の歴史がすさまじい。天文年間(1532―55)に小田方に奪われ平塚氏が城主となって以降→結城→小田→結城→小田を経て、1569年(永禄十二年)には佐竹方の宍戸氏が拠る城に。海老原氏は16世紀の半ばごろにはこの地を追われて、下総へと流れていただろうか。1569年(永禄十二年)の佐竹方が小田方を攻めた海老ヶ島の合戦は「佐竹義重(近衛龍春著)」に図解入りで描写。治水地形図に基づき低地と各陣の位置を勝手に変更するとこんな感じの図解。湿地に守られた城は夜討ちされ平塚氏は降伏と描かれている。
日本歴史地名体系によると佐竹方の城となった後は宍戸氏が配置され、海老ヶ嶋氏を名乗ったようだ。海老ヶ嶋氏が討死の後、文禄期(1592―96)に宍戸義長が入城し城下町を整備と伝わる。江戸時代に入ると佐竹氏秋田移封の際に宍戸氏も同行し、海老ヶ島城は破却。
城域を巡る
海老ヶ島城の中にいよいよ入る。GoogleMapが示す城の位置には新善光寺。海老原氏にゆかりがある寺院かと思いきや、宍戸氏が入った際に友部から移転してきた寺院らしい。
新善光寺の山門のそばには堀があると「図説 茨城の城郭」。石塔の裏のへこみがそうだろか?
海老ヶ島城がある松原の集落。旧家が並ぶ。
「図説 茨城の城郭」に示されている集落内に走る堀はこれだろうか。
「図説 茨城の城郭」によると旧家の間を抜ける道が低地に出る場所に土塁があるらしいがよくわからない。
「図説 茨城の城郭」によると集落と水田の間の水路は外堀の名残だという。
「図説 茨城の城郭」によると堀の向こうに土塁のはず。確かにへこんでいて、その向こうの竹藪の中に土塁があるのだろう。