小張城(茨城県つくばみらい市)
「図説 伊奈のあゆみ」によると、小張城は足高岡見氏家臣の只越氏の城。1586年に多賀谷氏の攻撃によって落城。江戸時代には小張藩が成立し、松下氏が拠った近世城郭としての歴史もあり。小学校あたりが主郭と推定されるが遺構は無し。鹿島・愛宕神社に土塁が残るという。
小張城の土塁が残るという鹿島神社。
「図説 伊奈のあゆみ」が示す土塁の位置を眺めているつもりだが、はっきりした構造がわからない。土塁が存在した場所は削平されてしまったかもしれないと想像しつつ立体視。
鹿島神社の北には谷津が入り、その向こうに愛宕神社が鎮座。そこにも土塁が残ると「図説 伊奈のあゆみ」。中世を感じているこの風景の中には、TXみらい平駅前の巨大マンションも目に入ってくる。現在、開発で激変している地域。
小張城の土塁が残るという愛宕神社。
日本歴史地名体系によると、戦国期の城主・只越氏による愛宕神社への崇敬も厚かったという。
小張城の土塁というのは社殿の横のこちらと信じて立体視。
愛宕神社は国の重要無形民俗文化財指定の小張松下流綱火が行われる神社。小張松下流綱火の動画。結構、激しい。
愛宕神社横のまっすぐな道。明治迅速測図にも残る歴史ある道。
愛宕神社横のまっすぐな道は谷津を南に渡って、小張城の主郭があった台地へと続き、小張集落の中心をまっすぐに貫く。道沿いには旧家が並ぶ。日本歴史地名体系によると、道は谷田部街道といい、小張集落は谷田部街道の街村という成り立ちのようだ。
小張集落を貫く谷田部街道。明治迅速測図を北にたどってみると確かに谷田部へと通じる。南にたどると青木の渡しを経て守谷へ。谷田部も守谷も、そして小張も近世に城や陣屋が存在した城下町・陣屋町。江戸時代には重要な街道だったのだろう。
小張集落の中心を通る谷田部街道を南に歩くと小張下宿というバス停。まっすぐな道は、鉤型をつくる必要もない平和な江戸時代の道と想像。旧家が並び、歴史地区のような様相で通るのが楽しい道。
谷田部街道沿いには高雲寺。小張松下流綱火とも関わる松下氏開基の寺院と碑文。日本歴史地名体系によると松下重綱の小張藩成立が1603年。1623年に松下氏が移封後は天領に。1625年には鬼怒川の瀬替えや小貝川沿いの開拓を行った伊奈忠治の陣屋が設置。1679年には松平氏により再び小張藩が立藩。1682年に廃藩。激動の歴史だ。
小貝川の低地に下り、南側から小張城のあった台地を見上げる。現在は小張小学校。台地崖下に沿って、小貝川沿いの低地の水田に水をもたらす台通用水が流れる。
小張城の南側の小貝川沿いの低地。戦国期には牛久沼が迫っていたと推定する「図説 伊奈のあゆみ」。牛久沼が迫っていたかもしれないが、瀬替え前の鬼怒川が荒れ狂い、台地をも削っていた洪水地帯だったことは小張城の台地のシャープな削られ方からも想像。
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