日本の内ゲバは鎌倉幕府から(1)
数日前(2020年8月13日)に下記のニュースが流れました。
「内ゲバ」とはまた随分古い言葉を出してきたなーっと思いました。
「内ゲバ」とは、大まかに言えば、同じ組織内部での思想の違いを暴力を使用した解決しようとした抗争になります。もっと簡単に言えば、思想の違う人間を潰す(リンチ・殺害含む)という行為です。非常に残虐な話ですが昭和時代に日本共産党系の組織でよく行われていました。
上記の報道がでた時、つくづく人間って本当に同じことを繰り返すやるもんだと思いました。それは日本の鎌倉幕府(鎌倉時代)でも同じような内ゲバが起きていたからです。いや、むしろ日本の内ゲバは鎌倉幕府からなのか?とさえ思えてしまいます。
その「日本の仁義なき戦い-鎌倉幕府編-」を綴っていきます。
そもそも鎌倉幕府とはなんぞ?
鎌倉幕府とは第56代天皇・清和天皇の曽孫・源満仲を祖とする河内源氏の一族の源頼朝によって設立された「朝廷とは切り離された東国独立政権」のことです。
源頼朝は、父・義朝が関わった平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆に流刑に処されていましたが、伊豆の豪族・北条時政と共に反平家勢力を募って旗揚げし、東国の有力武士団を束ねていきました。
そして西暦1180年(治承四年)本拠地を鎌倉に構え、頼朝に従う武士は「御家人(ごけにん)」として登録され、御家人の取締と軍役を司る「侍所(さむらいどころ)」を設置しました。これが鎌倉幕府の始まりです。
しかし、この時の頼朝の身分はまだ流人で、しかも朝廷を支配する平家に対する謀反人でした。
その後、後白河法皇の計らい(寿永二年宣旨)により、頼朝は流人になる前の官位(従五位下 右兵衛権佐)に復位し、朝廷から東国の行政権(治安維持と税の徴収権)を任されます。
1185年(元暦二年)に平家一門を壇ノ浦(山口県)に滅ぼし、その広大な所領(平家没官領)を手に入れ、さらに弟・義経、叔父・行家が反頼朝の兵をあげると、これを逮捕するための日本国内における警察権と費用徴収を目的とした守護(治安維持)・地頭(兵糧の徴収)の設置を朝廷に認めさせました。
この年、頼朝は従二位に叙されており、三位以上の公卿に認められた「政所(政務・財務の執行機関)」の設置が認められています。
1189年(文治五年)には奥州(東北地方)に巨大な独立勢力を築いていた奥州藤原氏を武力で滅ぼし、東日本の実効支配を完了しました。そして1192年(建久三年)7月、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、朝廷における強大な軍権を保持することで、自らの東国政権(鎌倉幕府)を公的に確立させたのです。
頼朝時代の内ゲバ開始は甲斐源氏の粛清
鎌倉幕府の最初の内ゲバの対象は、頼朝の肉親である源氏の一族でした。
特に武田信義を中心とする甲斐源氏は、頼朝と同じ河内源氏の庶流であり、甲斐を本拠する有力な武士団で、対義仲や対平家との戦いで多大な功績をあげていました。
しかし、自身を中心とする鎌倉幕府を理想とする頼朝にとって、甲斐源氏の存在は、そのうち自分や自分の一族を脅かす存在になる可能性を否定することはできず、謀略を使ってその勢力を減退させていきます。
最初の標的は武田信義の嫡男・一条忠頼でした。忠頼は1184年(元暦元年)6月16日、鎌倉で頼朝主催の酒宴の最中に御家人・天野遠景によって討たれています。ただ、この時の忠頼が討たれた理由は判明していません。
次の標的は武田信義の甥・秋山光朝で、1185年(元暦二年)に謀反の罪で討たれています。が、本当に謀反があったのかは定かではありません。
三番目は武田信義の弟・安田義定、義資父子です。1190年(建久元年)11月、頼朝が上洛の際、侍所別当・梶原景時が「安田義資が朝廷に使える女官に艶書(恋文/ラブレター)を届けた」と頼朝に告げ口したことが原因で、同月28日殺害。晒し首にされています。
この時、父の安田義定も連座して所領である遠江を没収され、さらに翌1194年(建久五年)、義定自身謀反の疑いをかけられて晒し首にされています。
一族の主だった武将を次々と殺害された武田信義は、その勢力を大幅に減退させ、頼朝麾下の一御家人となってしまいました。
内ゲバの対象は頼朝の肉親へ
頼朝の内ゲバは一族のものだけでなく、自分の肉親にまで及んでいました。
頼朝の異母弟・源義経は頼朝に無許可で官位を受け、さらに平家追討の第一の功労者として都の公家や民衆の評判を集めてましたが、戦目付として義経軍に従軍していた梶原景時の「あることないこと」(真偽不明)の報告が加わった結果、頼朝は義経を自らの東国政権を秩序を乱す存在であると判断し、朝廷に義経追討の院宣を奏請。1185年(元暦二年)10月、院宣が発せられます。
1187年(文治三年)2月、義経は頼朝の手を逃れて奥州に逃亡し、奥州藤原氏三代当主・藤原秀衡(陸奥守 兼 鎮守府将軍)に保護されます。頼朝は秀衡になんども義経の引き渡しを要求しますが、秀衡は拒絶し続けました。しかし、秀衡はこの年の10月に病没してしまいます。
頼朝は、翌1188年(文治三年)、朝廷に働きかけて義経追討の宣旨を出させて、秀衡の後を継いだ四代当主・藤原泰衡とその祖父・藤原基成(泰衡の母の父)に要請しました。しかし、二人をこれを巧みにかわされると、頼朝は泰衡本人の追討を朝廷に奏請しています。
朝敵になることを恐れた泰衡は、1189年(文治五年)閏4月、義経主従を討ち果たすことを決意。襲撃を受けた義経は衣川館で自害して果てました。
頼朝のもう一人の異母弟・源範頼は、1193年(建久四年)8月2日、謀反の疑いをかけられ、潔白である起請文を頼朝に提出しています。しかしそこで自らの名乗りに「源」姓を使ったことで逆に頼朝の怒りを買い、同月17日に伊豆の修善寺に幽閉され、以後生死不明となりました。
頼朝は1199年(建久十年)1月13日に死去したため、頼朝時代の内ゲバはここで終わりますが、鎌倉幕府の内ゲバは頼朝の死去後、さらに本格的な内ゲバに移行していくのです。