源仲章の悪魔的ささやきに、邪心生まるる平賀朝雅
2022年9月4日。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第34話「理想の結婚」が描かれました。
三代将軍となった源実朝(演:柿澤勇人)と北条義時(演:小栗旬)の嫁取りの話の裏でドンドンドロドロの政争のニオイが立ち込める、極めてきな臭い話になっています。
ちなみにドラマでは全く触れていませんが、1204年(建仁四年)3月、義時は従五位下 相模守に叙任されています。
源氏の門葉(一門)でもない御家人が国司(受領)に任じられたのは時政に続いて二人目のはずです。
なおかつ、義時の相模守叙任にはもう1つの大きな意味がありました。
それは鎌倉をとりまく武蔵、相模、駿河、遠江の四カ国が北条氏の実質支配する根拠地になったからです。
武蔵:平賀朝雅(武蔵守/国務代行:北条時政)
相模:北条義時(相模守/国司)
駿河:北条時政(駿河守護)
遠江:北条時政(遠江守/国司)
他の御家人がこれをどう思うのか、容易に推測できます。
それでは振り返り行きます。
武蔵国の取り扱い
1204年(建仁四年)7月18日、鎌倉幕府二代将軍・源頼家(演:金子大地)は、伊豆修善寺で暗殺されました。
この余波は決して少なくなく、7月24日には頼家のかつての家来たちが反乱を起こそうとしますが、義時の家来・金窪行親に鎮圧されています。
ドラマはそれらに全く触れず、実朝が政務に加わるところから始まります。
これは、同年7月26日の『吾妻鏡』の記述がベースです。
このあたりから北条時政(演:坂東彌十郎)の暴走が加速していきます。
すでに訴訟の当事者から献上物(賄賂)を受け取るとか、普通ならあり得ないのですが、この時政ならやりかねないと思いました。
で、その時政が畠山重忠(演:中川大志)と足立遠元(演:大野泰広)を呼び出して、こう言いました。
ここでいきなり『総検校職』という言葉が出てきました。
これは少し説明が必要だと思います。
総検校職と畠山氏
まず『総検校職』とは正しくは『武蔵国留守所総検校職』といいます。
その役目は武蔵国の留守所(政庁)における所課の徴収および諸役の執行責任と国内の軍事力の統括にありました。
この役目は桓武平氏の一門で坂東に根付いた平武基から始まる秩父平氏が世襲していました。初代の『総検校職』は秩父重綱で、この人は畠山重忠の曽祖父にあたります。
ただ、秩父平氏の家督は重綱から、長男・重弘(畠山重忠の祖父)ではなく、次男・重隆に継承され、その重隆が源義平(頼朝の異母兄)に討たれたため、重隆の孫である河越重頼が継承しました。
しかし、河越重頼は娘が源義経に嫁いだため、謀反の連座を受けて、頼朝に殺害され、『総検校職』は、秩父平氏の本来の嫡流である畠山重忠に継承されたという背景があります。
武蔵国には武蔵七党という強力な武士団がいました。
この武蔵七党の軍事力は頼朝も着目しており、武蔵国の武士である畠山、河越、葛西、江戸の諸氏に何度も参集を求めています。
それは当時の河越氏の当主・河越重頼が『総検校職』の職にあり、武蔵七党を動かせる権限を有していたからです。
それだけに『総検校職』の力は大きく、またこれを職を受け継ぐことで、武蔵守でもない畠山重忠が武蔵における実効力を行使できる存在であったと言えます。
時政は国司である「武蔵守」と引き換えに『総検校職』を返上しろと言うわけです。
しかし、これはおかしな話で、『総検校職』は朝廷から補任されているので、返上先は朝廷になります。
なおかつそれを返上させたとしても、時政が『総検校職』に補任される可能性は極めて低いと考えられます。なぜならこの職は秩父平氏の棟梁の証みたいなものですから。
だいたい畠山重忠が武蔵守に任ぜられる可能性があるのかもアヤシイです。
いくら秩父平氏の嫡流でも、曽祖父の重綱でさえ出羽権守の任官しかなく、父も無位無官の上、重忠自身は在京の経験もありません。
いくら鎌倉殿が奏請したとしても、それが可能かどうか。謎すぎますね。
いずれにしても、重忠の中に義父(時政)に対して疑念が生じたのは間違いありません。時政の言う通りにして『総検校職』を返上し、武蔵守に任ぜられなかった場合、畠山は武蔵国の実効力を失います。
悩んだ末に義時に相談した重忠は
と言い切りました。これが畠山の矜持でした。
実朝の結婚
実朝の御台所に関しては『吾妻鏡』元久元年8月4日に以下の記述があります。
これを受けて、10月14日に坊門信清の娘を迎えに、御家人が京都へ出発しました。
実朝から容姿端麗の若者ということでしたが、なぜここに宇佐美祐茂がいるのかわかりません。たぶんもう相当なおっさんだと思うのですが。
(ドラマの映像見返しましたが、一人だけ白髪混じりの人がいましたがそれですかね?)
ちなみに『愚管抄』の記述が正しければ、彼らは11月3日に京都に到着しています。約20日間というところでしょうか。
義時の結婚
実朝の結婚話が進む一方で、大江広元と二階堂行政が義時の後添えを斡旋します。相手は行政の孫娘「のえ」というそうです。
歴史上では「伊賀の方」という名前で残っている義時3人目の正室です。
父は伊賀朝光と言って、藤原氏ゆかりの蔵人出身の武士。母親は二階堂行政の娘です。
のえには兄が数人おります。
長兄である伊賀光季は、後に京都守護(鎌倉幕府京都支社)に出世し、やがて不幸な死を迎えます。それが承久の乱の発端の1つとなります。
のえが産んだ子供たち
のえは3人の男子と2人の女子を産んだとされます。
その代表的な2人を挙げます。
北条政村
義時の五男であり、伊賀の方の長男として生まれました。
三浦義村(演:山本耕史)を烏帽子親にして元服し、祖父・時政の一字をもらい「政村」を名乗ります。
政村が表舞台に出てくるのは1256年(建長八年)の北条VS三浦の戦い(宝治合戦)後に、兄・重時の後を継いで鎌倉幕府三代目連署に就任したのが最初です。
その後、鎌倉幕府六代執権・長時が亡くなると七代執権に就任。
得宗(北条家嫡流)である時宗が成人して八代執権に就任すると、政村は再び連署に還任して時宗の治世を支えました(連署経験者が執権を経て再び連署に還任したのは政村のみ)。
当時の武家としては高い教養と知識を持ち、朝廷の多くの公家から学問レベルの高さを評価されています。彼の血統は後に政村流北条氏となり、得宗、極楽寺流赤橋家に継ぐ家格を持つことになります。
北条実泰
義時の六男であり、伊賀の方の次男として生まれました。元服時に将軍実朝より一字を拝領し「実義」と名乗りますが、後に泰時から「泰」の字を与えられて「実泰」となります。
非常に有能で兄・重時が六波羅探題北方(鎌倉幕府京都北支社長)に就任した際、後任の小侍所別当に任じられています。しかし、生母に絡む事件の影響でメンタルは弱く、徐々に精神に異常をきたし、挙動不審や妄言を吐くようになりました。
1234年(天福二年)6月30日、家督を嫡男・実時(11歳)に譲って出家しました。実時は家督を譲られると当時に泰時から小侍所別当に任じられています。
この時、家督を譲られた実時は、その後、叔父である政村と共に、時頼、長時、政村、時宗の五代の執権を支え、政務引退後は六浦荘金沢に私文庫・金沢文庫を創設します。彼の血統は金沢流北条氏として、政村流に継ぐ家格を持ちました。
伊賀の方の産んだ二人の男子は共に、教養、文化素養に長けた人物であるのが特徴ですね。
源仲章の陰謀
京都では、源仲章(演:生田斗真)による鎌倉分断の工作が進められていました。
手始めは平賀朝雅(演:山中崇)の調略です。
いやー、生田斗真、悪いやつですね(そうじゃねぇwww)。
そしてこれの後ろで糸を引いているのが、後鳥羽上皇(演:尾上松也)その人ですからまぁ、恐ろしいですわね。
そしてこれが、のちの「畠山重忠の乱」そして「牧氏事件」の原因になるという演出になっているようです。
藤原兼子(卿二位局)
さて、今回は京側でも新しいキャラクラーが登場しました。
藤原兼子。のちの『卿二位局』です。
兼子は後鳥羽上皇の乳母です。
それだけならわかりやすいのですが、この人をとりまく環境はとにかくややこしいのです。少しでもわかりやすく説明しようと努力しますが、わかりにくかったらすみません。
兼子は後鳥羽上皇の乳母ですが、実は兼子の姉・範子も後鳥羽上皇の乳母でした。
この範子に源通親(土御門通親/演:関智一)が接近して妻にし、娘・在子を儲けます。
この在子が、父・通親の工作によって後鳥羽天皇(当時)の後宮に入り、1195年(建久六年)12月、為仁親王を出産。これが後の土御門天皇です。
さらに、通親は、政敵である九条兼実(演:田中直樹)の腹心であり、九条家の家司筆頭(家の執政を取り仕切る権力者)としてその手腕を存分に発揮させていた藤原宗頼に目をつけていました。
通親は「建久七年の政変」で宗頼の主人である九条兼実を失脚させた後、通親の義理の妹になっていた兼子を宗頼と結婚させて、宗頼を取り込み、さらに二人の間に生まれた娘を通親の嫡男・久我通光に嫁がせています。
この時代、朝政のほぼすべてが源通親の関係者で動いていました。しかし1202年(建仁二年)に通親が急死すると、朝政における後鳥羽上皇の発言が力を増し(土御門天皇の温厚な性格も影響)、この頃より上皇は兼子を頼りとするようになります。
兼子は今後、実朝の将軍後継問題において、大きな役割を果たすことになりますので、頭に留めておいてください。
北条政範の死
『吾妻鏡』は坊門信清の娘を迎えにいった御家人一行が京都に到着した2日後、11月5日の子の刻(深夜0時前後)北条政範が死去したと記録しています。
これまでの『吾妻鏡』なら鎌倉以外で起きたことは「いついつに手紙が届きました」という体裁になっています。しかし、これは京で起きたことなのになぜか時刻まで記載されています。非常に不思議な記述です。
11月13日、鎌倉に政範の死去を伝える伝令が京から到着したという記録が同じく『吾妻鏡』に見えます。内容は5日の記述と同じと時政夫妻の嘆きについてです。
となると、5日の記述はなんなのでしょう?しかも死因なども一切記載されていません。それゆえ、不審死という演出がドラマでもなされたと考えられます。
さらに11月20日、不穏な記述が続きます。
これがどう影響するのかは多分、次回に描かれるのだと思います。