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やっぱり波瀾万丈〜松平家の場合〜

3/22(日)放送分の「麒麟がくる」は、ほとんど松平竹千代くんの物語になっていました(このドラマの主人公は誰でしたっけ?(汗))。

この松平竹千代くんは、後に徳川家康となって、征夷大将軍になり、徳川幕府を開いて、260年間の泰平の世の中を築きます。

が、彼の実家である松平家はぶっちゃけ波乱万丈な一族でした。今日はそのことについて述べたいと思います。

松平氏とは

松平氏は松平信盛(まつだいら のぶもり)と言う人物が三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)を開拓して、その領主となったのを祖とします。

その三代後の松平信重(まつだいら のぶしげ)が、上野国新田郡新田荘得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本拠地とする得川義季(とくがわ よしすえ)の末裔と称する時宗の僧(通称:徳阿弥)を婿入りさせ、松平親氏を名乗らせたと言われますが、近年の研究でこれは俗説として否定されています。

松平氏が三河国加茂郡松平郷の土豪として、明確に史料に登場するのは、上記の松平親氏から三代後の松平信光(まつだいら のぶみつ)という人物からです。

松平信光は岩津城(愛知県岡崎市岩津町)の城主で、足利幕府政所執事(現在の大蔵大臣 兼 最高裁判所長官)である伊勢氏に仕えていました。

その一方で、西暦1465年(寛正六年)に三河国額田郡(愛知県岡崎市)で元足利幕府被官(雇われ武士)が引き起こした国人一揆(武士が徒党組んで起こす反乱を)の鎮圧に多大な功績をあげ、幕府より西三河を中心に広大な領地を与えられました。

信光はこれを自分の子供達に城を分け与え、

竹谷松平家【三河宝飯郡竹谷郷(愛知県蒲郡市竹谷町)】
形原松平家【三河宝飯郡形原郷(愛知県蒲郡市形原町)】
安祥松平家【三河碧海郡安祥郷(愛知県安城市)】
大草松平家【三河額田郡大草郷(愛知県額田郡幸田町)】
五井松平家【三河宝飯郡五井郷(愛知県蒲郡市五井町)】
能見松平家【三河額田郡能見郷(愛知県岡崎市能見町)】
長沢松平家【三河宝飯郡長沢郷(愛知県豊川市長沢町)】

上記の松平家庶流を創出しています。

信光の嫡子・松平親長は家督相続後、父同様に京都の伊勢氏に奉公し、足利幕府の記録にも名前が残っていますが、この頃、本拠地である三河では、他の国人領主たちが、急激に勢力を拡大している松平氏に敵対活動をし始めていました。

そんな中、分家をまとめて他の国人領主に対抗し、松平宗家を支えたのが上記分家の一つ・安祥松平家二代当主・松平長親です。

西暦1508年(永正五年/諸説あり)八月、駿河守護・今川氏親(今川義元の父)は、叔父の伊勢盛時(のちの宗瑞/一般的には「北条早雲」)に命じ、約一万の大軍で三河に侵攻しました。安祥松平家二代当主・松平長親は松平党の総力を結集し、わずか一千足らずの兵でこれを迎え討ち、今川の大軍を三河より駆逐することに成功します。

この一戦により、長親の武名は三河中に知れ渡りました。松平一族の中でも長親の発言権が大きくなる反面、松平宗家のカリスマは下がっていき、やがて安祥松平家が宗家の位置にのし上がります。

この安祥松平家がのちの松平竹千代くんに繋がるのです。

安祥松平家の躍進

上記の今川との戦いの後、ほどなくして長親は嫡男・信忠に家督を譲りますが、信忠は器量不足で家臣団をまとめ上げるカリスマもなかったため、

「あの方じゃダメだよ〜」

と家臣団から不満が続出。堪りかねた譜代家臣(安祥譜代か?)が長親に直訴したため、西暦1523年(大永三年)、長親は信忠を隠居させ、当時十二歳の嫡男・松平清康(まつだいら きよやす)に家督を継がせます。この清康が松平竹千代くんのおじいさんです。

清康は、家督相続の数年後に三河の有力国人である鈴木氏を滅ぼし、さらに三河守護代の家でもあった西郷氏を臣従させて、西三河に強固な勢力を確立しました。さらに岡崎城を整備拡張して松平家の本城とします。

しかし三河にはかつて三河守護の血をひき、足利一門でもある名族・吉良氏がおり、清康がいくら武力で勢力を広げようとも所詮は土豪の血統で、「吉良」と言うサラブレッド並みのブランドには叶いませんでした。

そこで清康は、源姓新田氏の庶流・世良田政親が松平郷で死去したこと、加えて世良田氏が鎌倉幕府の時代に三河守任官の事実があることを利用し、松平氏を世良田氏の末裔と称し、「世良田二郎三郎清康」と名乗ったと言われています。

これが、前述の松平氏の俗説の発端になったものと私は推察します。

これにより、清康は足利幕府の権威をもってブランド化した吉良よりも、時代が遡り鎌倉時代に三河守に任官した世良田氏のブランドを手に入れることになり、松平の支配の歴史的権威づけに成功したと言えます。

清康は西暦1529年(享禄二年)に東三河に進出。牧野、菅原、戸田、奥平などの東三河の国人領主を次々と臣従させ、たった一年で東三河を制圧し、三河国統一を成し遂げました。

ところが西暦1535年(天文四年)尾張守山城攻めの最中、家臣・阿部正豊に殺害されてしまいます。

城なし大名・松平広忠の受難

清康の死後、清康の躍進を快く思っていなかった松平家庶流・桜井松平家当主・松平信定(まつだいら のぶさだ / 五代当主・長親の三男)は岡崎城を乗っ取りました。清康亡き後、家督は嫡男・千松丸(のちの松平広忠/竹千代くんのお父さん)が相続するのが筋ですが、大叔父がそれを横領したのです。
この頃、松平家五代当主・長親がまだ生きており、信定の横領を戒めるかと思いきや

「わしには関係のないこと、勝手にせいや」

と、長親は信定の横領を黙認したため、千松丸はいきなり城なしの身分に没落したのです。長親の自暴自棄は、自分が目をかけていた孫が殺されたと言うショックもあったのかもしれません。

千松丸はこの後、家臣・阿部定吉の計らいで伊勢に逃亡。吉良氏の一族である吉良持広の庇護の元で元服して「松平広忠(まつだいら ひろただ)」となったものの、その後も紆余曲折あり、都合5年もの間流浪を経験します。

その間、岡崎城を乗っとった信定は独立を維持しようと試みますが、駿河遠江守護・今川義元が広忠を支援し、大久保氏をはじめ三河に残った譜代の家臣たちも広忠の復帰を望み、さらに広忠の叔父に当たる松平信孝(まつだいら のぶたか / 清康の弟)が後見役となる話も決まり、西暦1540年(天文九年)広忠は岡崎城主に復帰しました。

広忠が岡崎城主に復活した時には、かつて三河統一を果たした強き松平家はもうありませんでした。

まず、清康が殺害されたあと、尾張守護代・織田信友三奉行の一人、織田信秀が勢力拡大をはかり、西三河に進出してきました。

また、松平家中においても安祥松平譜代桜井松平の家臣との折り合いが悪く、内部で抗争に発展。その隙に織田信秀が、松平に臣従していた戸田氏と牧野氏をけしかけて独立させるなど、松平を支持する国人領主の切り崩しも行われています。

これらに独力で抗えるほど、広忠に力はありませんでした。

広忠は岡崎城主に復帰した後、彼は生涯をかけて、織田信秀との戦いに費やすことになりますが、西暦1547年(天文十六年)九月、ついに岡崎城が信秀に落とされると言う大事件がおきます。

広忠は信秀に降伏し、その証として嫡男・竹千代を織田信秀の元に人質として送らざる得なくなりました。

※以前は、織田の侵攻から岡崎を守るため、今川に助力を求め、その証として竹千代を駿河に送る途中、戸田康光によって尾張でへ連れ去れられたのが定説で、小説やドラマもその内容で語られることが多いのですが、近年、天文十六年に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書が発見されたため、これまでの定説が覆っております。

ここから松平竹千代くんの人質生活が始まったのです。

ちなみに広忠の死については、病死、殺害、暗殺など諸説あって、定説を見ませんが、竹千代が人質交換で駿府に送られたため、親の死に目に会えなかったのは史実のようです。

ちなみに、広忠は竹千代くんと織田信広くんとの人質交換の前に死んでいますので、ドラマではこれは少々ずれているようです。

祖父は暗殺、父は変死、その上、ひいじいちゃんは自分に無関心......松平竹千代くんの心中、いかばかりかと思います。普通なら発狂してるんじゃないかと。


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