(番外編)伊賀局と政子、そして想像上の伊賀氏の変
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のエントリーは前回の「閲覧ランキング」で終わりにするつもりでした。
ところが「閲覧ランキング」を書いている途中に、読者の方から
・伊賀局の人物評
・政子の人物評
この2つの点で見解を頂きたいとのご意見を頂いたので、私見ではありますが、この二人の人物のまとめ、そして『鎌倉殿の13人』最終回の後、もし伊賀氏の変があったとしたらを想定して、記事にまとめたいと思います。
伊賀局と伊賀氏の変
ドラマ上では北条義時三人目の正室となっていますが、史実で見ると、二人目の正室です(泰時の生母は側室と見られています)。
この人についてはほぼ記録がないので、正直、謎な方なのですが、ドラマでは北条家の家督を実子である政村に継がせて、北条家と幕府執権職をうかがう権力欲の強い女性。なおかつ血統や出自についてプライドを持っている女性として描かれていました。
実際、どうだったのかはわかりませんが、義時死後に起きた「伊賀氏の変」という企てがもし真実であったのならば、「火のないところに煙は立たない」の諺通り、権力欲の強かった女性だったのではないかと推察できます。
仮に「伊賀氏の変」がなかったとした場合、正式な家督後継者を決めずに死んだ義時の後、伊賀局の持つ「義時未亡人」というポジションは相当強かったと推察されます。それは尼将軍として幕府を掌握している政子にとっては非常に面倒な存在に映ったのではないでしょうか。
義時と伊賀局の間には以下の子供たちが存在します。
北条政村(正室長男<義時五男>※義時没時20歳)
北条実泰(正室次男<義時六男>※義時没時17歳)
北条時尚(正室三男<義時七男>※年齢不詳)
一条実雅妻(一条実雅は鎌倉殿<三寅>の大叔父)
実泰はまだ若く、烏帽子親は当時鎌倉殿だった実朝ですので、義時没時には後見役もいません。一方で政村の烏帽子親は有力御家人の一人であるあの三浦義村です。ここに伊賀局が期待するのもわからなくもありません。
ただ、この頃、北条氏による幕府支配はまだ完全ではなく、有力御家人の支持なくして幕政は成り立ちませんでした。政村の後見役が三浦義村だったとしても、当時の幕府は結城、安達などの有力御家人、二階堂行政などの文官、そして大江広元がいまだに幕府中枢に残っていました。
これは泰時を次期執権にして自らの権勢の維持に努めたい政子にとっては好都合だったと思います。
ゆえに「伊賀氏の変」がなかった場合であっても、政子にとっては伊賀氏の幕府権力掌握は是が非でも止めなくてはならなかったと考えられますね。
「伊賀氏の変」があったかどうかはともかく、義時死後、伊賀局とその兄弟である伊賀光宗(政所執事)、朝行、光重は鎌倉から追放されました。しかし政子の死後、光宗は幕政に復帰し、評定衆の一人に抜擢されています。
政子の人物評
政子が悪女という評判は、頼朝の愛人である亀の前の後妻打ち(うらなりうち)や、主命に従って木曽義高を殺した藤内光澄(堀親家の郎党)を打首にするなどのことから発せられたものと思われます。
しかしながら、政治家としては、頼朝亡き後源氏将軍家がぐらついていた時期に「幕府創設者(源頼朝)の未亡人」というポジションを最大限に活用し、その威厳を以て御家人を統率していたことは間違いないと思います。
実朝暗殺後、摂家将軍(三寅)を迎えた後、政子が存命の間に反乱的なものが東国で起きたことはなかったことがその表れではないかと思うのです。
義時、広元、政子と立て続けに亡くなり、「初代鎌倉殿」の威厳を持つ者がすべていなくなった三代執権・泰時は、京より叔父のトキューサ(時房)を呼び戻すことで、幕閣の人材補強を行います。そこから集団合議制へ移行させたのは、もはや「初代鎌倉殿の神通力」に頼ることができなかった表れかもしれません。
しかし、そんな政子も義時亡き後、伊賀氏の勢力を幕府から強行に排除し、北条氏による幕府支配の安定を試みます。これは比企能員の時とほぼ同じ構図ですね。
この時の伊賀氏の勢力の排除がなければ泰時は執権になることもできなかったので、また違った未来が生じたのかもしれません。
『鎌倉殿の13人』の世界観で「伊賀氏の変」を描く
ドラマは義時の死で終わっているので、あくまでも想像の話になりますが、あの後、伊賀氏の変が起きたならばという想定でちょっと書いてみます。
(ここから)
政子は義時の死を確認すると、すぐに実衣と大江広元に義時邸来るように使いを出した。そこで二人は義時の死を確認する。
義時は自らの執権職の後継者を公表していなかった。よって後継者の座を巡ってまた争いが起きることは広元には容易に推測ができた。
「一刻も早く、京の六波羅探題に遣いを出しましょう。太郎(泰時)殿に一刻の早く鎌倉に戻っていただきます」
と広元が政子に提案すると
「六波羅はどうするの?」
と政子。
「時房殿がおります。いずれ太郎殿の代わりは向かわせる必要はありますが、当分はお一人で頑張ってもらいましょう」
「そうね…..」
「ちょっと待って、小四郎が亡くなったこと、まず、のえさんに知らせるべきじゃないの?」
実衣が横から入ってきた。
「のえさんは確か伊賀殿の屋敷(実家)に戻られていましたね。じゃあそっちは実衣にお願い。これからやることがたくさんあるので、私の屋敷に顔を出すように」
「わかった」
実衣は政子からの要請を受け、政所執事である伊賀光宗の屋敷に向かった。そこはのえの実家である。実衣はしばらく待たされた後、のえが出てきた。
「実衣様、突然のお運び、何用でございましょう」
のえがぶっきらぼうに要件を尋ねた。
「小四郎が死にました」
実衣も直球で答えた。
「…….なんですって?」
のえは一瞬大きく目を見開いた後、すぐに普通の表情に戻り、はらはらと涙を落とした。その不自然さを実衣は見逃さなかった。
「なので、これから慌ただしくなります。あなたは尼御台の屋敷に入り、お姉様の指示に従って下さい」
実衣はそれだけ言って座をたとうとすると、途中で止まった
「そういえば、なぜ、あなたは実家に戻っているの?」
という実衣の問いに対し、のえは一瞬ビクッと体を強張らせた。
「小四郎殿の勘気を被りまして……」
と答えると、
「そう……」
とだけ言って実衣は客間を出て行った。
深くお辞儀をして送り出したのえであるが、頭を上げた後の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
のえは客間から自室に戻り、1通の書状をしたためると
「誰か」
と雑色を呼び
「これを三浦の平六殿に届けて」
と指示した。
6月18日、義時の葬儀が営まれた。泰時がまだ京都にいるため、葬儀は、朝時、重時、政村、実泰、有時ら義時の息子たちと三浦義村ら古参御家人の手で行われた。
その席上で義村が義時の子供たちの前で妙なことを口走った。
「まもなく太郎が京から戻ってくる。お前ら、気をしっかり持てよ。あいつは兄弟の中で自分一人だけ京都に送られたことを恨みに思ってる。鎌倉を追い出されたと。太郎が京都から戻って執権になったとして……お前たちの処遇はどうなるかなぁ…….まぁ、俺なら、どっかに飛ばすね」
これが自然と鎌倉内に噂として広まっていきました。
6月26日、泰時がなぜか時房も一緒に鎌倉に戻ってきた。27日、二人は時房の邸宅に入り、28日、泰時は御所で政子と面会する。そこは大江広元も同席していた。
「久しぶりね」
「尼将軍もお変わりなく」
「世辞はよして、もう十分年を取ってるから。でもまだまだ死ねないわよ。三寅が元服するまでは」
「仰せごもっとも」
政子が広元に目をやると、広元が一礼して泰時に向き直る。
「太郎殿。単刀直入に申し上げます。太郎殿に執権職をお継ぎ頂きたい。鎌倉のため、お願い申し上げます」
と広元が言う。しかし泰時はすぐには返事をしない。
訝しがった政子が
「どうしました?」
と声をかけると
「恐れながら、私より叔父上(時房)の方が適任ではないかと」
とやんわりと断った。
政子は言う。
「先の戦(承久の乱)の時、後継はあなただと小四郎は言ったはずよ」
「それはそうですが……今の鎌倉は私一人には、荷が重すぎます」
広元が口を挟む
「太郎殿、あなたはこれまで小四郎殿のやってきたこと、その判断の仕方、対処の仕方をずっとみて来られたはずです。そして小四郎殿とは考えが違いながらも小四郎殿はあなたを認めていた。だから先の戦で小四郎殿はあなたを総大将にした。誰にも文句を言わせない軍功を上げさせるために」
「ですが……!」
「それに」
広元がさらに言葉を重ねる
「それに?」
今度は泰時が訝しがる。広元は政子に目をやり、今度は政子がうなづくと
「……太郎、近こう寄りなさい」
泰時は疑問に思いながら、政子に歩み寄りました。
「実は鎌倉には今、妙な噂が出回っているのです」
「妙な噂?」
「あなたが執権になったら、弟たちを追放するとか」
「馬鹿な」
「それに、のえさんの件も」
「母上が何か?」
「四郎を執権につけようと、御家人の方々を口説いている様子」
「ああ……」
「この噂にはあまり驚かないようね」
「まぁ……あの方なら、そういうことするかなーって……」
「なので、執権職の跡目は明確にしておかないと、また血生臭い事件になってしまいます」
泰時はしばらく目を瞑って一呼吸置いて言いました。
「……わかりました。執権職の件、お受けします」
「ありがとう。礼を言います」
「但し、執権職をお受けするにあたって、尼将軍と大江殿にお願いがあります」
「なにかしら?改まって」
「叔父上に、私の後見役をお願いしたいのです」
「太郎……さっき大江殿が言ったでしょう。五郎には京の役目が……」
「それはわかっています。しかし、父上が亡くなって、いずれ尼将軍も近江殿も亡くなられた場合、私には頼れる人がいません。まだお二人が存命のうちに、執権の後見役を決めて頂いた方が、私は安心なのです」
「なにか……私たちが今日明日にでも死ぬみたいな言い方ね……」
政子と広元は苦笑した。
「言葉の選択がまずかったのなら謝ります。でも必要なのです。私が執権としての職を務めるにあたっては……」
「わかりました。大江殿、よろしいですね?」
「尼将軍の仰せのままに」
「ありがとうございます」
ここに執権・北条泰時が誕生した。
一方、三浦屋敷には政所執事・伊賀光宗の姿があった。
光宗は義村から呼びされたのです。義村も侍所所司の役目を持つ人間。政所執事を呼び出しても何の不思議もなかった。
ところが、義村が光宗を呼び出した要件は職務のこととは全く関係なかった。
義村は光宗の前に1通の書状を投げるようにして置いた。
「先日、のえさんからこんな書状をもらった」
「姉上が?」
光宗はそう言いながら書状を開いた。
「端的に言えば、四郎を執権にするように手助けしろということだ」
「まだ、そんなことを……」
「と、言うところを見ると、お主もこの話、まんざら知らない話じゃないようだな」
「姉上がお祖父様(二階堂行政)にしつこく頼んでいたのは知ってます。で、お祖父様は四郎に小四郎殿の跡目を継がせたいなら、義村殿を頼れと。あの方なら何かよい知恵を与えてくださると言っていたが、まさか本気でやるとは……」
「で、お前はどうなんだ?」
「私?」
「姉上の望みを叶えてやる気はないのか?」
「執権職を継ぐのは太郎殿です。侍所別当や六波羅探題も務めた政務実積。先の戦で総大将としての軍功。どれをとっても無位無冠の四郎殿の叶う相手じゃないでしょう」
「まぁ、そうだろうな」
「でしょ?」
「だが、それは我が三浦の後押しがない場合だ」
「え?」
「四郎になんの後ろ盾がない状態で太郎と執権職を争っても勝てないのは道理だ。が、この三浦が後押ししてもその天秤が変わらないと思っているのか?」
「それはまぁ...…」
「手はある。が、それはお前たち伊賀一族がどう考えるかだ」
「…….」
「残された時間は少ないぞ……ま、じっくり考えるんだな」
6月29日、北条時氏(泰時嫡男)と北条時盛(時房長男)が、泰時の命令で京へ向かった。時氏は泰時の後を継いで六波羅探題北方に、時盛は六波羅探題南方に就任するためだ。
これが義時の死後、泰時が行った対京政策の最初になる。
7月頭になって、伊賀光宗は再び三浦義村の屋敷を訪問した。
「腹は決まったか?」
義村は客間にでるなり、座る間もなく光宗に尋ねた。
「覚悟はできています。平六殿の策をお聞きしたい」
「いいだろう」
義村はニヤリと笑って座った。
「まず尼将軍の身柄を押さえる」
「尼将軍の?」
「この鎌倉の最高権力者は尼将軍だ。その尼将軍の命令で将軍後見職を伊予中将(一条実雅/のえの娘婿)に代行させる。そして執権職は小四郎正室の子である四郎殿に継がせるように下文を作らせるのだ」
「それで?」
「さらにこの下文に侍所所司である俺と、政所執事であるお前が署名することで、これは幕府の命令としての公的な効力を持つ。またそれに応じて、我ら三浦の者が鎌倉の要所に兵を配備し、異議ある者は容赦無く討つ」
「ふーむ…..」
「あとは俺が侍所別当。お前が政所別当となり、この鎌倉を牛耳るって流れだ」
「なるほど」
「わかっていると思うが、尼将軍の身柄を押さえて下文を書かせる役割はお前ら伊賀一族にやってもらう。俺が案をだしてやったんだ。実行するときぐらい自分達の手でやれよ」
「わかりました」
光宗は弟である朝行、光重に声をかけ、旧義時邸を隠れ家に密儀を凝らした。弟たちは「この事は心変わりすることなきよう」と決心した7月5日、この場面を泰時の屋敷の女房に見られてしまう。
女房はすぐさま泰時に言上したものの
「なんのことかわからないのだから、放っておいていい」
と取り合わなかった。
7月17日、鎌倉に御家人の兵が集まり始め、人々は変事を予感した。そしてこの頃には義村と光宗に関する噂は政子の耳にも届いていた。
政子は思い立ってお供に侍女の駿河局だけを引き連れて、単身、義村の屋敷に向かった。予告なき尼将軍の来訪は、三浦の者たちを慌てさせた。
「これはこれは……尼将軍自ら突然のご訪問。一体何事でしょうか」
客間に通された政子たちを見た義村の第一声はこうでした。
「何も告げずにやってきたことの非礼をお詫びします」
政子は頭を軽く下げました。義村も着座します。
政子は前置きもそこそこに本題に切り込みました。
「小四郎が死に、太郎が後を継いで執権になったと言うのに、鎌倉は騒がしいばかり。昨日から今日にかけて鎌倉の兵の数が増えていると思いませんか?」
「鎌倉に不穏なことがあると自然と兵が集まる。まぁ、風物詩とでも言いましょうか」
「何が起きていると言うのですか?」
「さぁ….私には……」
「最近、伊賀式部(光宗)がこの屋敷に出入りしているという話を聞きました」
「はぁ……」
「何を企んでいるのです?」
「私は侍所所司ですよ。政所執事と鎌倉のことで話し合うことがあっても問題はないでしょう」
「それであれば御所で行えば良いではありませんか」
「御所がざっくばらんに話せる環境とは思えませんが」
「……」
「そんなことで来られたのですか?」
「では正直に申し上げましょう。あなたと伊賀式部が謀議を行っていると言う噂があります。これはどういうことですか?」
「そんなこと、私は知りませんよ」
「伊賀式部はのえさんの弟、そして平六殿は四郎の烏帽子親。そこから考えられることは1つしかありません」
「私が四郎殿を担いで執権殿に対して謀反を起こすとおっしゃるのですか?執権殿は私の義理の息子ですよ?」
と義村が苦笑した瞬間
「三浦平六!よく聞きなさい!」
政子の一喝で義村一瞬ビクッとなって体が強張った。
「小四郎があれだけ手を血で染めたのはなんのためですか?すべては御家人のため、鎌倉のため、私心は一切ないと私は先の戦の時に言いました。その小四郎の意思を受けて、先の戦を勝ち抜いたのは太郎の手柄です」
「……」
義村は床に手をついて一言も声が出せなかった。
出そうとしても出なかったのだ。
「戦の後、京を安定させているのも太郎と五郎の手腕によるもの。これは誰も否定できないはず。その太郎が執権になり、五郎はその後見役になりました。これが最善だったと私は思っています。それを壊そうとする者は、たとえ小四郎の無二の友と言われた平六殿でも許しません!」
「……」
「三浦平六……尼将軍として尋ねます。何を企んでいるのか!」
「私は……何も存じません」
義村は声を絞り出すように言った。
「あなたの言い分は信じられませぬ」
政子は冷たく言い放つ。
「では……どうしろと……」
「三浦が鎌倉を牛耳る野心などない……三浦の力は、鎌倉の……いや東国の平和に尽くすためにある…..そう私に誓いなさい」
「……」
「誓えぬなら、三浦平六は四郎を担いで太郎を討つつもりであったと触れ、尼将軍の名前ですべての東国武士に三浦の追討を命ずる」
「…..」
「三浦平六、返答はいかに……?」
義村はそれまで床につけていた手をあげ、頭を上げて言った
「恐れながら……四郎殿は、執権殿に逆心はありません。しかし、式部は違います。彼ら伊賀一族は鎌倉に叛逆する考えをもってます」
「それで?」
「私がこれを止めてご覧にいれます。それが私の誓いの証です」
と義村が再度平伏した。
政子はそれをじっと見つめ
「……いいでしょう」
とだけ言って、三浦の館を退出しました。
政子の姿が見えなくなった後で義村は頭を上げて言った
「光宗、すまんな」
7月18日、義村は泰時の屋敷を訪ねました。
今度は泰時が義村の突然の訪問に驚いた。
「ど…..うされたのですか?」
うろたえる泰時を見た義村は「チッ」と舌打ちしながら
「抜き打ちで娘と婿の顔見にきちゃいかんのか?」
とニヤリと笑った。
「そういうわけでは…..」
「ま、一杯どうだ?」
と酒瓶を差し入れる。
「いただきます」
泰時は嬉しそうに盃を差し出した。
柱の影から初が義村をじっと睨みつけるが「そう怖い顔をするな」という表情で返す。
「今から11年前になるか……小四郎は、四郎を元服させたいと俺に相談してきた。そしてあいつは俺に四郎の烏帽子親になってくれと言った」
義村は泰時に酒を注ぎながら言う
「あれは和田合戦の後で、小四郎が執権になった直後だったから、小四郎としては三浦を取り込みたいと言う思いがあったからだと思った。しかし四郎の元服の後、小四郎は俺の息子・次郎(泰村)を猶子にしてくれた」
今度は泰時が義村に酒を注ぐ
「三浦は北条よりもずっと家格が高いと思っていた。しかしいつしか北条の風下に置かれ始めていた。小四郎はそれを気にして、子供の烏帽子親や次郎を猶子にしてくれたのだと思う」
義村が酒をあおる。
「そんな中、お前さんと四郎殿が執権職を巡って争っているという話を聞いた。お前さんは娘婿。四郎は烏帽子子。その間に立って、俺は悩んだ。正直、どっちにつこうかとも考えた。三浦が鎌倉の表舞台に立つチャンスが来た!と……けど、よく考えたら、小四郎の思いはどこにあるのかがもっとも重要だと考えた。となると答えは1つだよな」
これまでじっと聞いていた泰時がはじめて口を開いた
「私と四郎が争ってる?そんな話、初めて聞いたんですが……」
これを聞いた義村は、「あはははは」と大きく笑い
「そうか…….そうだったか。お前さんは何も知らないんだな」
とまた大笑いしたのだった。
閏7月3日、御所において、政子、広元、時房らが集まりました。ここで政子より伊賀一族の陰謀について会議が行われました。
神輿として担ぎ上げられた一条実雅は公卿であるので、鎌倉で罰する事はせずに京都に送還されました。伊賀光宗とその兄弟、そして伊賀局は流罪に処されました。
伊賀光宗の後の政所執事職は二階堂行盛(二階堂行政の孫)が就任しました。以後、この職は代々二階堂氏が継承していくことになります。
(ここまで)
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