後々のフラグいっぱいの「修善寺」
2022年8月28日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第33話「修善寺」が放送されました。
鎌倉幕府二代将軍・源頼家(演:金子大地)の最期を描いた回でしたが、SNS上での話題はもっぱら暗殺者・善児(演:梶原善)の最期に集約されてました。
源頼家の最期についても鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』と慈円の書いた史書『愚管抄』とで全く記述が違います。
比企能員の変に北条氏への忖度が入っていると考えれば、この頼家暗殺も北条氏としては比企能員の変の後処理みたいなものなので、『吾妻鏡』が事実関係に触れていないのは致し方ないのかもしれません。
しれませんが、かと言って『愚管抄』の記載内容が事実だとするのもどうかと。誰にどのように聞いたら『ふぐりとり』な内容になるのか。また「それを話すような人間ってどんな神経の持ち主なのよ」とほんとに首を傾げます。
なお、ドラマの中ではわかりにくいですが、頼家の修善寺幽閉(1203年9月)から、頼家の最期(1204年7月)に至るまで、およそ10ヶ月の時間が経っています。
それでは、頼家暗殺に至るまでのもろもろを追ってみましょう。
将軍実朝の元服・政所始と執権別当
ドラマは1203年(建仁三年)10月9日の「政所始」から始まってますが、『吾妻鏡』によればその前日に実朝の元服が行われています。
この当時、将軍に関する行事に役目をいただけるのは後世の子孫の誇りになったのだと思われます。なので人名や役目が細かく書かれているのではないでしょうか。
この翌日、ドラマであったように「政所始」があるのですが、ドラマの中とは少々違ったようです。
『吾妻鏡』によれば、将軍(実朝)は御簾の中にいて、事務所(広間?)には出ず、御簾越に時政が持ってきた文書を読んだと書かれています。
そして政務始めが終わった後、初めて鎧兜を身につけ、乗馬を行なっています。乗馬の指南は小山朝政と足立遠元(演:大野泰広)が行いました。さらに夜になると弓を射る儀式が行われました。儀式の主導は北条時房(演:瀬戸康史)でした。
かなり1日がかりの大きな行事だったようです。
ドラマの中でナレーション(演:長澤まさみ)は
と述べていますが、この時代「執権別当」なる職名は存在しないはずです。なぜなら執権は「機関名」ではありません。
鎌倉幕府の機構は以下の通りです。
侍所:御家人の指揮統率および鎌倉の治安維持機関(別当:和田義盛)
政所:幕府政治の執行機関(別当:大江広元)
問注所:訴訟事務および裁判期間(執事:三善康信)
執権はこの中のどれにもあたりません。なので「執権別当」なる職務はないと考えるの妥当ではないでしょうか。
しかし、この時、北条時政(演:坂東彌十郎)が政所別当職に任じられたのは間違いありません。つまりこれまで政所を司っていた大江広元(演:栗原秀雄)と同格になったということです。
そしてこの時、大江広元は朝廷の官職である大膳大夫の官職を辞しており、この3年後に政所別当も辞任しています。
つまり実朝の三代将軍就任と共に、政所の別当職も広元から時政に譲られたのがこのタイミングであり、後の北条氏の専制状況を見た場合、この段階で鎌倉幕府の最大の御家人である北条時政を初代執権とするのは道理かと思われます。
ただ、私個人は執権とは「権力を執り仕切る」意味であると捉えており、幕政におけるその意味は武力、政務両方を司ることだと考えています。
なので、本来の執権とは政所のみならず侍所の別当も北条氏が兼ねた義時から生まれたポジションであると考えています。
時政の暴走の片鱗
時政は評議の場で御家人に起請文を書かせることを命じます。これは10月19日の『吾妻鏡』に(ちょっと内容は違いますが)記載があります。上記に加えてこの記述ですね。
それに続いて(どさくさに紛れて)、時政はドラマの中でこんなことを言い出しています。
確かに比企氏の本拠は武蔵国比企郡(埼玉県比企郡、東松山市一帯)ですが、比企氏が武蔵国の国務をしていたという形跡は見当たりません。
さらに時政は「武蔵守にしてもらおう♪」と言っていますが、この時期の武蔵守は時政の娘婿で、京都守護に赴任した平賀朝雅です。
なので、これは全くの荒唐無稽な発言としか思えません。
おそらくこの話は『吾妻鏡』にある下記の記述がベースになっていると思われます。
おそらく上記については武蔵守である平賀朝雅が京都に赴任している間、時政が国務を代行するために鎌倉殿の権威を利用したのではないかと思います。
また10月24日、将軍実朝は朝廷より右兵衛佐に任じられています。
これは頼朝の先例によるものでしょうか。
後鳥羽の鎌倉不審の始まり
京都守護に赴任した平賀朝雅(演:山中 崇)は、早速、後鳥羽上皇(演:尾上松也)に実朝の御台所探しのことを伝えました。これを後鳥羽は不審がりました。
ここで後鳥羽の北条への不審が始まったと言えましょう。
後鳥羽は言いました。
この条件のもと、慈円(演:山寺宏一)が選んだのが坊門信清の娘でした。
坊門信清は、藤原北家道隆流の血統で、この時、権大納言の地位にありました。彼の姉が高倉天皇の後宮に入り、後鳥羽を産んでいるので、信清は後鳥羽の叔父にあたります。
まさに後鳥羽の血統に近い存在だったのです。
朝雅を下がらせた後鳥羽は、在京御家人の源仲章(演:生田斗真)を部屋に呼びました。
仲章は言いました。
この時点で後鳥羽が実朝を重宝していること、そのために仲章を遣わせているあたり策士感だしてますね。そして物語の主人公が諸悪の権化みたいに描かれています。
頼家からの手紙
頼家から政子と実朝に手紙が送られたことは『吾妻鏡』にも記載があります。
実際、義村はこれを受けて修善寺に向かい、5日後の11月11日に鎌倉に戻って詳細な報告をしました。それを聞いた尼御台は悲嘆にくれたそうです。
ドラマではこれを「頼家に謀反の疑いがある」という方向にもっていきました。
トキューサ、表舞台に出る
建仁三年十二月の暮れ近く、『吾妻鏡』にこういう記述があります。
これまで何回か同書に名前は出てましたが、いわゆる公務的なことは全くなかったトキューサ(時房)くんに、ようやくまともな役目が回ってきました。
ちなみに彼がやることになる将軍の身の回りの雑務は、やがて鎌倉幕府の機構に組み入れられ「小侍所」という機関となり、北条一族が世襲する幕府の役職になっていきます。
平賀朝雅の武士としての活動
このドラマでは公家成していますが、平賀朝雅は武士です。
何度も言いますが武士です!
彼の武士としての功績1つに「三日平氏の乱」の鎮圧があります。
「三日平氏の乱」はこのシリーズの過去記事でも書きましたが、1184年(元暦元年)7月から8月にかけて、伊賀、伊勢両国に潜んでいた平氏残党の蜂起事件です。
そして再び1203年(建仁三年)12月25日に、またしても前回と同じ伊賀国で平家残党の武装蜂起が勃発しているのです。
12月25日、若菜五郎盛高という平氏の残党が蜂起し、当時、伊勢守護を務めていた山内首藤経俊(演:山口馬木也)の居館を襲撃しました。
これ自体は大したことないと報告されていましたが、この後、翌年(1204年/建仁四年)2月、今度は平維基という同じく平家の残党がその子も含めて放棄しました。
これを守護職である山内首藤経俊が対応しようと向かったところ、平家残党側は有無を言わさず攻撃を開始。伊勢・伊賀は直ちに制圧され、伊勢より東に行くことが不可能なってしまったのです。
鎌倉がこれを知ったのは3月9日でした。翌10日は京都守護の平賀朝雅に出陣して対応するように命令しています。
平家残党による伊賀、伊勢制圧は朝廷にも少なからず影響を与えたようで、藤原定家の日記『明月記』によれば、後鳥羽上皇は3月21日、伊賀一国を朝雅に与えて、朝雅の軍事活動を援助しています。
また同月29日、幕府は大江広元の指示で畿内の御家人の軍事指揮権を朝雅に与えました。
翌月4月21日の『吾妻鏡』によれば、朝雅の伝令による報告が記載され、朝雅の軍事活動の状況がわかります。
この戦いの論功行賞は5月10日に行われました。
平賀朝雅はこの「続・三日平氏の乱」を見事鎮圧し、京都守護のみならず伊勢守護も兼任し、伊賀も知行国としたのです。
それにしても憐れなのは山内首藤経俊(演:山口馬木也)です。
ドラマでは大庭景親に味方して首ちょんぱされるところを、頼朝によって助命されて以後は出てきませんが、史実では源平合戦等で軍功を重ねて、この直前まで伊勢、伊賀守護までなっていました。
それがこの三日平氏の乱で守護職を失ったのですから。
しかし彼は再び歴史の表舞台に出てきます(謎)
泰時はかつての義時
ドラマでは畠山重忠(演:中川大志)、足立遠元、尼御台(演:小池栄子)、ちえ(福田愛依)の4人は修善寺を訪れます。頼家は北条の人間には会わぬといい、重忠と遠元だけ会いました。
なお、本編では触れられていませんが、遠元の娘は重忠の妻(側室)になっています。
頼家はその場で「北条時政が武蔵守を狙っている」と二人の耳に入れます。重忠と遠元は武蔵国を本拠としていました。
重忠は武蔵国を時政に問いただしますが、時政はこれをはぐらかします。
評議の最中、八田知家(演:市原隼人)が割り込み、頼家が朝廷と繋がっていたこと、なおかつ北条追討の院宣を求めていたことがわかったと報告しました。
ここで、義時は苦渋の決断(頼家の誅殺)を行います。
しかし、いまや「北条家の最後の良心」と呼べる存在になった泰時(演:坂口健太郎)がこれに完全と歯向かいます。
と言いながら席を立つ泰時、止めようとする時房に対し
この義時が言っている「かつての私」とはどこのことかなーっと思っていたのですが、第15話「足固めの儀式」ですね。
当時勃発した御家人の謀反の責任を、上総広常に負わせて殺すという源頼朝と大江広元の策謀に、義時はこの時の泰時のように「承服できませんっっ!!」と抗いましたね。
確かに「かつての私」ですね。
居酒屋「義盛」での運慶との再会
頼家を殺害しなければならない。それがいかに道理に外れたことかは義時自身がわかっていました。政治や駆け引きとはまったく関係のない間柄で酒を飲みたいという心境は、自然と義時を和田義盛(演:横田栄司)の館に向かわせました。
そこで義時はかつて伊豆の願成就院で阿弥陀如来を作っていた仏師・運慶(演:相島一之)と再会します。
ここでいう親父殿は「義時の親父殿」という意味なら時政になりますが、確かに和田義盛は1189年(文治五年)、相模の浄楽寺(神奈川県横須賀市芦名)の仏像5体(阿弥陀如来像・観音菩薩像・勢至菩薩像・毘沙門天像・不動明王像)の制作を運慶に依頼しています。
この5体は現在、国の重要文化財となっています。
義盛は巴が拾ってきた小さな木彫りの仏像の修復を運慶に頼みます。
この時は、頼家の殺害の直前であるなら、おそらく建仁三年の6月か7月頭あたりかと思われます。
そうすると、運慶は東大寺南大門の金剛力士像の制作を終え、奈良仏師としては初めての法印(僧綱の極位と言われる)に任ぜられている身分なので、まぁ、普通は「こんなこと」しませんわね(汗)。
運慶は義時に「お前、悪い顔になったな」と言います。戸惑う義時。運慶は言葉を続けます。
運慶はこの頃よりおよそ12年後の1218年(建保六年)に、義時が建立した大倉薬師堂の薬師如来像と十二神将像を義時の依頼で制作しています。
フラグいっぱい
今回は頼家暗殺がメインの回ですが、今後の布石となるフラグがいっぱいありました。
最初のフラグは時政の暴走です。
時政は武蔵国を手中におさめるため、娘婿の畠山重忠が武蔵を本拠にしているにもかかわらず、その国務を掌握しようと工作を始めています。これがのちに不幸な事件を引き起こします。
2番目のフラグは後鳥羽の鎌倉観です。
自らが名付け親になったことで妻まで斡旋するとか、どんだけ実朝可愛いんだと思ってしまいますが、その可愛さゆえに、この後の展開が後鳥羽を不幸のどん底に落とし込むことになります。
3番目のフラグは北条の限界です。
義時と泰時との言い争いで義時は「朝廷は坂東の一介の御家人に、日本全国の武士の指揮権を認めるわけがない」と言いました。
この時代、人の上に立つにはそれ相応の出自が必要でした。
例えば伊勢平氏は桓武天皇の曾孫である平 高望から始まっています。
河内源氏は清和天皇の孫である源 経基から始まっています。
奥州藤原氏も鎮守府将軍藤原秀郷の六代後裔である藤原経清の子・藤原清衡から始まっています。
このように為政者としての権力を得るにはそれ相応の出自が必要不可欠でした。これが北条氏が鎌倉将軍になれなかった最大の理由です。
仮に北条氏が将軍職を奏請したとしても、義時の言う通り、坂東の田舎武者にすぎない北条に朝廷は決して征夷大将軍宣下を出さないでしょう。それゆえ、将軍を名目だけの飾り物にし、実を取ることに腐心したのです。
さて、次はいよいよ畠山重忠の乱ですかね。。。