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緊迫する武蔵国、そして北条時政・りく夫妻VS畠山重忠

2022年9月11日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」が放送されました。

歴史事項でいう「畠山重忠の乱」のプロローグ的な回でした。
この畠山重忠の乱は、その直後に起きる「牧氏事件」と密接な関係にあります。その布石が今回の放送回になっています。

それではいきます。

のえ(伊賀の方)について

少々ネタバレになりますが、たぶんそこまでドラマでは描かれないだろうと思って書きます。

「のえ(演:菊地凛子)」こと伊賀の方は、義時の死後「伊賀氏の変」という事件を引き起こします。

それは夫である北条義時(演:小栗旬)死後、伊賀の方の兄弟である伊賀光宗が三浦義村(演:山本耕史)を引き込んで、伊賀方の子、北条政村を鎌倉幕府三代執権に就けよう画策した事件です。

事件は未然に防がれ、伊賀の方およびその実家である伊賀一族は悉く流罪となりました。ただ、この事件は本当にあったのかどうかが現在も怪しまれています。

ただ、劇中の下記一幕

のえ「満足なわけがありません!」

行政「すべてはお前次第」

のえ「必ずや男子を産んで、その子をいずれは北条の家督にしてみせます。そうでなければ、あんな辛気臭い男に嫁ぎません!」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」4:48から

これは明らかに伊賀氏の変の布石としか私に見えませんでした。

将軍実朝の御台所、鎌倉に到着

『吾妻鏡』によれば、西暦1204年(元久元年)12月10日、将軍実朝様の妻となる御台所坊門姫が、到着されました。

なお、藤原定家の日記『明月記』は、坊門姫下向の様子を以下のように著しています。

今日巳の時(午前10時頃)信清卿の娘が関東に下った。卿三位(藤原兼子/演:シルビア・グラブ)が岡前の家より出立した。

延勝寺の増圓法眼が、後鳥羽上皇(演:尾上松也)の御桟敷を法勝寺西大路鳥居西(京都市左京区岡崎法勝寺町)が作った。

馬の助(北条政範?)の大刀、去る仏師に与え、それを銭三十貫を以て買い取った。御引出物に献ずるためだという。

鎌倉より迎えにきた武士20人の中、2人(北条政範と後1人誰?)死去した。その替わり親能入道(中原親能/演:川島潤哉)の子が加わったといえども、まだ1名足りない。

前備えの侍9人、各々水干・小袴・行騰錦繍ではない。
次いで2人騎馬、直垂・小袴を着用。
さらに次いで雑仕2人が笠姿。
さらに次いで女房6人繍指貫。
その次に主人の輿。力者16人、紺と亀甲袴を着す。
その後を源仲国(仲章の兄弟)、藤原秀康が続く。その格好は侍のようだ。
次いで坊門忠清、忠清の侍10人。
そしてまた関東の侍10人(前後合せ19人)。
忠清の女房の輿6。
各々華麗の極みこと、これに喩えられるものはない。

『明月記』

これから察するに坊門姫の鎌倉下向は60名以上のものだったようです。

なお、実朝は同年12月22日、坊門姫に仕えて共に来た家来の男女数人に地頭職を与えています。

実朝、官位上昇開始

年が明けて元久二年となります。
正月には垸飯と呼ばれる将軍に馳走する行事があります。
前にも書きましたが、この垸飯の順番がそのまま御家人の序列を表していると言われます。

『吾妻鏡』によるとこの年は

正月1日 北条時政
正月2日 千葉胤正(千葉常胤の子)

となっていました。

なお、正月5日の除目で、実朝は正五位下に叙任されています。
さらに翌月2月12日には「右近衛少将 兼 加賀介」に任官されました。
このあたりから実朝の官位上昇の流れの始まりのようです。

佐々木定綱の死

元久二年4月7日、このドラマには1回しか出ませんでしたが、佐々木定綱が病気のため、出家し、その2日後に亡くなりました。

佐々木定綱(演:木全 隆浩)
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定綱は佐々木秀義(演:康すおん)の嫡男で、近江源氏佐々木氏の棟梁でした。ドラマでは1回しか出なかったので、他の活躍が全く知られていないので、ここで軽く触れておきます。

定綱は平家滅亡後、近江、長門、石見、隠岐の四か国の守護職を賜りました。

しかし1191年(建久二年)に延暦寺との間で佐々木荘の供料の納入を巡って争いが起き、次男の定重が神鏡を割ってしまったことで、守護職を没収され、薩摩に流罪となってしまいます。

2年後の1193年に後白河法皇の一周忌で赦免され、近江守護に復帰。残りの3か国の守護職も頼朝の計らいでほどなく定綱の元に戻っています。

その後は検非違使の職に就いて在京御家人として働いていました。死の前年には従五位上に叙任されており、朝廷も定綱の手腕を認めていたと思われます。

彼の嫡男である佐々木広綱は今後、このドラマに結構絡んでくると思うのですが、キャスティングされているのでしょうか?。

平賀朝雅の謀略

ドラマでは、京から戻った畠山重忠(演:中川大志)の子・重保(演:杉田雷麟)が、政範の死には平賀朝雅(演:山中崇)が関係していること、その朝雅が食膳に毒を盛ったと思われるような密談をしていて、重保が朝雅を問い詰めたことを義時に話します。

このあたりは前回の平賀朝雅と源仲章との会話から視聴者には容易に推測がついていたと思われます。

しかし、平賀朝雅の方が一枚上手でした。
「畠山重保が北条政範の膳に毒を盛った」
と、りく(演:宮沢りえ)に讒言したのです。

朝雅「政範殿のことで嫌な噂が流れているようです……」

りく「……嫌な噂?」

朝雅「あまりの突然の逝去に、毒を盛られたのではないかと」

りく「毒……誰が……」

朝雅「……畠山重保殿

りく「重保……」

朝雅「畠山一門は北条に恨みを持っております。武蔵の国務をめぐり、父親の重忠殿が、北条殿と揉めていることをご存知ですか?

りく「まさかそのせいで?」

朝雅「ひどい話です!」

りく「なんということを…..許しません!断じて」

朝雅「しかも重保殿はあろうことか、私を下手人に仕立てあげようとしているのです!」

りく「頭がくるくるする……誠ですか?」

朝雅「畠山の策略にはまってはいけません。何を言ってきても信じてはなりませぬぞ」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」11:44から

このやりとりで、平賀朝雅の陰湿ぶりが垣間見えます。

彼は畠山重保に問い詰められた時点で、やがてその疑いは、重保の父・重忠によって幕府政所の大江広元(演:栗原英雄)、北条義時に上申されることは予想していました。

であれば、その疑いを別のところに仕向けなくてはなりません。そこで利用したのが「りく」であると私は見ています。

朝雅にとって、りくは義理の母にあたります。なおかつ、りくが幕府の執権である時政をコントロールする力を持っていることはすでに承知ており、そのために朝雅は必要以上の気遣いをしていました

りくをうまく取り込んでいずれ自分に降りかかる火の粉を他に散らす。そのために着目したのが「武蔵国をめぐっての北条時政と畠山重忠の衝突」でした。

朝雅は最初は「噂」と言いながら、途中から畠山重保が政範殺害の犯人確定のような話をしており、そして重保が自分を冤罪に追い込もうとしていると言っています。これは真犯人が容疑者逃れをする常套手段です。

そして演じる山中崇さんのアヤシサが光って、まぁ、陰険ドロドロの展開となっています。

ちなみにこの「噂」ですが、『吾妻鏡』には、政範の死の前夜、平賀朝雅と畠山重保が口論をしていたと書かれています。ちょっとドラマとは違いますが、うまく脚本に入れ込んだなと思いました。

時政の暴走と義時の矛盾

りくから朝雅の話を聞いた時政は畠山重忠討伐を決め、それを義時と時房に諮ります。

もうこうなってくると、北条に逆らう奴は幕府の軍勢で攻め滅ぼすみたいになっていますね。

時政「畠山重忠を討つ!力を貸してくれ」

義時「誰であろうと、この鎌倉で、勝手に兵を挙げることはできません。たとえ執権であろうと」

時政「軍勢を動かせねぇってのか」

義時「鎌倉殿の花押を据えた下文がない限り。勝手に動くことはできませぬ」

時政「……」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」15:14から

ここで1つの矛盾が生じます。義時は鎌倉で軍勢を動かすのは鎌倉殿の下文が必要だと言います。では、比企能員の変の時に軍勢を動かせたのはなぜなのでしょう?

あの時の鎌倉殿は頼家です。しかし危篤状態でした。つまり鎌倉殿の花押付きの下文はでていません。その状態で義時は比企館を攻撃しています。
では、あの時、御家人は誰の命令で動いたのでしょうか。

考えるに、鎌倉殿不在の代行を務めた政子(演:小池栄子)なんでしょうね。

しかし、今は三代目鎌倉殿(実朝/演:柿澤勇人)がいるわけですから、比企の時のようにはいかないよ、と義時は時政を諭しているのかもしれません。

畠山討伐への動き

畠山重忠の乱の動きは『吾妻鏡』によれば以下のようになっています。

元久二年4月11日、時政、稲毛入道重成を鎌倉に招聘する。
(御家人が鎌倉が集合し騒がしくなる)
元久二年5月3日 御家人たちが鎌倉から国元に帰国する。
元久二年6月20日 稲毛入道重成が武蔵国菅谷館から畠山重保を呼び出す。
元久二年6月21日 時政、畠山討伐を決意。義時、時房に諮る。

『吾妻鏡』

通説では、時政が娘婿である稲毛重成(演:村上誠基)を呼び寄せて武蔵国の国務状態をヒヤリングした際に、重成は重忠の悪口を時政に讒言し、それを受けた時政が、重成を通じて重保を呼び出したとされています。

そして6月21日に以下の記載があります。

牧の方(りく)は、平賀朝雅の「去年、畠山重保に悪口言われた」の讒訴を受けて、鬱々と悩んでいましたが、畠山重忠親子を征伐する企てを密かに(時政に)相談しました。

で、時政殿が義時と時房の両人を呼んでこの話をしました。

両人は、

「畠山重忠は治承四年の挙兵以来、忠義一徹に務め、頼朝様はその志を理解していて、頼朝様が自分の息子(頼家)の保護者になってくれと丁寧に依頼したほどの武士。

御家人の中でも特に金吾将軍(頼家)の味方の立場なのに、比企能員との戦の時に我々の味方に来て、働いてくれたのは、頼朝様のとの約束よりも、父上との親子の義理を重んじたからです。それなのに今、何に怒って重忠が反逆を企てる事がありましょうか?。

もし今までの彼の手柄や義理を捨てて、そこつに畠山を征伐をすれば後悔するに決まっています。畠山が本当に謀反を企んでいるのか、事の真偽をきちんと調べてからでも何ら困ることはありません」

と云いました。こう云われて時政はそれ以上何も云えずに席を立ちました。

『吾妻鏡』元久二年六月二十一日

ドラマでも同様のことを義時が言っています。
そして時政は納得して、一旦畠山討伐を見合わせました。

りくの猛抗議

館に帰った時政が畠山討伐を見合わせたことをりくに話すと、りくから猛烈なる抗議を受けました。

りく「まだわからないのですか?畠山は討たなければならないのです。梶原がどうなりました?比企がどうなりました?より多くの御家人を従えなければすぐに滅ぼされます。力を持つとはそういうこと。

畠山を退け、足立を退け、北条が武蔵のすべてを治めるのです」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」29:20から

これにはさすがの時政も絶句しつつ、
「俺たちは無理のしすぎじゃないだろうか」
とりくを諭します。

ここでりくの中で焦りが見えます。
(この人を動かすあと1つの手立てはなんだろうか……)

そして、ついに最後の一言を放ちます。

りく「政範だけではすみませんよ。次は私の番かもしれないのです」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」30:05から

これを聞いた時政はとたんに目の色がかわります。

時政「そりゃいかん!」

りく「事態はそこまできているのです!」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」30:12から

りくは思ったでしょう。しめたと。
時政は軍勢を動かすには鎌倉殿の花押入りの下文がいると言い訳をしようとしますが、今すぐ御所に行って花押をもらってきなさいとけしかけます。

この時点で、りくも時政も公私混同しまくりです。

そして時政は、ついに実朝に文書の中身を隠したまま、花押を押させるという暴挙に手を染めるのです。

畠山重忠と義時

義時は時政が畠山討伐を留まったことを伝えに、武蔵国菅谷館に向かいました。そこで重忠と酒を酌み交わします。

義時は重忠に鎌倉に戻って起請文を出してほしいと言います。
重忠は応じますが

重忠「私を呼び寄せて、討ち取るつもりではないでしょうね」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」40:10から

と意味深い一言を放ちます。
義時は「まさか」と一笑にふしますが、

重忠「私を侮ってもらっては困ります。一度戦となればいっさい容赦はしない。相手の兵がどれほど多かろうが、自分なりの戦い方をしてみせる」

義時「畠山の兵の強さは私が一番わかっておる」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」40:20から

そんなことにはならないと匂わせる義時ですが、重忠は顔色1つ変えず
「もし、執権殿と戦になったらどちらにつくおつもりか?」と義時に聞きます。

そして、その心は重忠に見透かされました。
だからこそ戦にしたくはない」と義時は言いますが、重忠はそこをピシャリとただします。

重忠「しかしよろしいか……北条の邪魔になるものは、必ず退けられる。鎌倉のためとは便利な言葉だが、本当に、そうなんだろうか……」

義時「……」

重忠「本当に鎌倉のためを思うなら……あなたが戦う相手は……」

義時「……それ以上は」

重忠「……あなたは……わかっている」

義時「それ以上は…..!」

『鎌倉殿の13人』第33話「苦い盃」41:20から

義時もこのままの流れはまずいとはわかってはいます。
わかってはいますが、今の彼には畠山との畠山との衝突を回避することだけに全力を注ぎたいのだいうのも理解できます。

ただ、この畠山重忠の乱の鎮圧は北条にとっては悪手中の悪手だったと思わざる得ません。


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