#20 優しさという悪徳
ふと"優しさ"というものについて日ごろから考えを巡らせることが多いのですが、先ほどYahoo!知恵袋で「オドオド」という言葉に目が留まりいろいろ読んでいました。よくオドオドするとも言われるように、それは気の弱さや卑屈さとして捉えられることが多いようです。他にもいろいろなそれ関連の回答を読んでいましたが世間的に、あるいはもっと狭めていえば実社会においては"弱肉強食"の価値観が一般的なところがあるようです。本来優しいということは「優れる」という漢字が入っているように、とてもいいことなのですが、その実社会では優しいだけではダメ、寧ろ優しさは弱さになるという価値観が根元にありそうなところがあります。学生時代、友だちだと思っていた人から「優しさだけじゃ生きれない」と言われたことがあったのですが、人生の「じん」くらいしか知らない10代の子でも"人の弱点"を見極められることができるのですから、強くなるということには優しくなることよりも個人的な努力は必要ないことが何となく見えてきそうな気がします。
ある素敵な書籍(※)に、「やさしさ」というものはこういうものごとであるということが詳しく載っていて、私のバイブルにもなりそうな書籍だったのですが、真のそのやさしさとやらは"幸せ"といった方が正しいようでした。幸せと弱肉強食的ななにかとはどうも水と油のようなところがある気がします。しかし、あまりにもそれが"下劣"でありますと、優しさどころか幸せそのものも"弱い"と捉えられてしまう節がある気がします。どうも今になって感じるのは弱さというものは劣った人が強さに固執するがゆえに捨てたゴミのようなものの気がしますし、それを回収する優しい人が弱い人とみられてしまう。優しさというものは知れたり見えたりするものごとではないですから、実社会では強い人が徳ではなく得をするという者なのかも知れません。
それにしても、優しさが弱さとしてだけに捉えられる世界とはまさに下剋上的な、あるいは戦時下の、そして弱肉強食様な世界だとはいえそうです。どうもこの実社会では徳(とく)よりも得(とく)を取れることの方が好意的な人物とみられがちなのでしょう。しかし、私のように内向的な人からしますと、その裏側とやらがよく見え知れてしまい、その得をとり続けるということは(徳を使って)業を積むようにみえて仕方なく、それは辛いものです。
※〈参考〉ある素敵な書籍↑大変おすすめです