#27 世間と常識
色眼鏡といいますか、レッテルといいますか、ありのままのその人をみようとするってなかなか難しいものなのだなと感じてしまうことがあります。先日、友だちと"障がい者アーティストの是非"というようなものを話し合っていたのですが、お互いに視点やフィルター(色眼鏡)が違っていて大いに盛り上がりました。例えば、役所や病院の前などで「障がい者の作ったパン」など福祉事業の一環として売られていることがありますが、ある人は障がい者の社会参加および障がい理解への啓蒙という視点でとてもよいと考えられていましたが、別の人は障がい者をダシにして金儲けしようとしている汚い試みのようだ、というようなことを感じられていたようです。一方で私の場合は、障がい者を売りにしてるのかパンを売りにしてるのかどっちだろう、それに障がい×パンって水と油みたいな印象で厭だなというものでした。更に付け加えると、私は障がい者であろうとも、その人が作ったパンが素晴らしく美味しければ、障がい者などという区分けは必要がなく、純粋にパン職人だと思うのでした(もちろん給与もそれに見合ったものにして欲しい)。
やはり、ありのままの人をみようとするのは難しいのでしょうか。数十年前に派遣法が改正され、非正規問題というものも生まれましたが、パート/アルバイトとしての経験の長い私のような者は、結構ひどい扱いを受けてきたこともあります。期間雇用とかバイト君などと呼ばれて、別に私の個性とか人格とか関係のない、尊重もない暮らしに埋没していたこともあります。一方で、就職や転職市場においても、学歴や資格などがやはり重視されるように、人は人のことがほんとうのところわからないというのが真実ではないでしょうか。世間というところは、人を色眼鏡でみて、ときにレッテルを貼り、なにか――それは命――を有耶無耶にしながらどうも動いてるところもありそうです。
ふと、いつのまにか付けなければならなかった(常識という)色眼鏡を外して、どこかで貼り付けてきた(常識という)レッテルを剥がして、その命の灯のようなものを大切にしたい。ここ数年、自分の暮らしを愛していた、自分の人生を味わってきたからこんなことが言えるのでしょうが、一般的には人はこの世界という舞台で演じているから余裕がないのかも知れません。それでも最近は「世間は正しい」とも考える私も居て、複雑な思いで一杯です。