トーシツでも幸せ
今朝から10年ぶりくらいの希死念慮――4にたくなる考えや気持ちが湧くこと――の状態がぶり返している。とても珍しい、希死念慮なんてもうとっくの昔に終えてしまったと考えていたからだ。そういえば昨夜、寝る前に私を嘲笑う男性の幻聴が聴こえていたし、夢のなかでも暗い出来事ばかりで、うつ状態を勃発させているのだろうと予想している。
私はトーシツ(統合失調症;SZ)を患ってから、20年以上経ってると考えられる男性だ。最近はすこぶる調子がよく、遠方へ遊びに行ったり、仕事でも若干挑戦をしたりなど気を張らない程度に頑張っていた。しかし現在アラフォーだが、アラサー以前はとにかく苦しくて、症状に呑まれて迷走しているような状態ばかりだったと振り返る。もちろん希死念慮も当時激しく、衝動的に自殺しそうなときもあったことを昨日のことのように思い出す(実に懐かしい)。
そんな懐かしい"厭な実感"をもたらす希死念慮を抱えたままこれを書いているお昼ではあるが、今日は私がトーシツを患って、つい数年前に障害者手帳を取得して障がい者になってみて"得られた幸せ"というものを述べてみたい。
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結論からいうと、私はトーシツを患って、障がい者になってみて、以前より幸せになった。それにこころのエネルギーも以前よりも大きくなったと感じてて、そのまま障がい者にもならず、トーシツを患わず一般健常者として暮らしていたとすると、今よりも間違いなく幸せではなかったと考えている。
どうも幸せというものは、"失ってから気づく"ことが多い性質があるようで、"できなくなってからわかる"という部分が大きいような気さえしている。例えば、以前は身体的に健康でマラソンとはいわずとも、日常的にウォーキングしていたような人が、何らかの理由で脚を怪我して障がいを負ってしまい、歩けなくなって車いす生活をしているとする。そういう人は、もちろんそのことで絶望することも多いだろうが、のちにおそらく"歩ける喜びや幸せ"のようなものを発見する気がするのだ。よく、彼女と別れてから彼女の大切さに気づく男などが居るように、人はどうも失ってからはじめて気づく幸せというものがある気がするのだ。最初から持っていたものや当然のようにできていることについては、なかなかその"有難み"というものには気づけないもので、それを失ってからその有難みに気づいて感謝できるようになるというのが真の幸せへの一連の流れではなかろうか。
私の場合は、若かりしころに不幸せそうな根暗にみえていた同級生――当時の私からすればいわば鈍臭い同級生――が何人か居たのだが、彼らは一様に平和的かつ友好的だった。当時は、出来がわるいのに日々を戦っていない同級生だななどと考えていたのだが、自分が彼らのような性格に近づくにつれて、自分自身の不幸せの投影(※心理学用語)をしていたのだなとハッキリ反省するようになったのである。そして、出来がわるいというよりも分かち合う姿勢がよい人らだったのではないかとも今になって振り返る。調子に乗ってなんでもできるみたいな、俺はNo.1だ!とでも言いたげな態度で暮らしていたことのある過去の傲慢な私は、のちにトーシツを発症し、超苦悩し、そして障がい者になることによってその誤りから矯正されていったようなところがあるのだ。だから、今では自身の障がいには感謝している部分も増えてきたし、そのおかげで、つまり"失って得られた幸せ"というものをしばしば実感することがどうも多いのである。
たとえば、障害者手帳を取得したことにより街や国から公共施設や交通機関での割引を受けられたりするというようなわかりやすい恩恵もある。また、稀に社会から無知や偏見を元にした差別を受けうることもある一方で、そういう差別を受ける側に立ったことにより、これまで見えなかったことが見えてきたという点も大きい。そういう善い扱いから厭な扱いまで受けてきたからこそ、人にはそういう扱いをしよう/させまいという配慮やそこから生じる優しさのようなものも大きく芽生えた気もする。そして、なによりも自身の健康に気をつけないと再発してしまうという正しい恐れから、心身の健康に関してとても気をつけるようになれたがゆえに得られた"健康的な自然な幸せ(おもにそれは技術や知恵)"というものもあるのだ。
このように、一般的にはなにかができるがゆえの喜びみたいなものを人は「幸せ」と述べ、そしてそのように見るわけだが、本当のところでは、なにかができなくなったがゆえの哀しみを通して、人は"ほんとうの幸せ"というものを掴んでゆくのではないかという気がする。アラフォーの私は、これから人生上で生老病死などを通して失ってゆくものごとが多いはずではあるが、しかし別にそういう一般的な不幸せというものを恐れ過ぎる必要はないのだという気もしている。一部界隈では、昔から「失えば得れるものもある」というように、それは無形のなにかに違いないが、かつて若かりし頃に不幸せに思っていた鈍臭い同級生や、果ては障がい者らのような人本人が本当に不幸せかどうかと言われれば、一般的な意味では、何かができて当然という意味では不幸せなのではあろうが、そういった相対的な土俵の上ではなく、本人そのものの絶対的な確信のなかでは、より"ほんとうの幸せ"を得ている人なのではなかろうかという推測からの発見は必要だろう。
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同じような話を繰り返してしまったが、トーシツになったからといって永遠に不幸せなわけではない。そのはじめ、失うことによる苦悩は経験するだろうが、その苦悩が肥やしとなって昇華されてゆくごとに、前述でいう"ほんとうの幸せ"というものに気づき、日常というものにはじめて感謝の念を例え薄っすらでも思えるような人になれうるのだろうと今では感じている。
たしかに謙虚な性格とか、できることよりもわかることを優先するような姿勢が強くなると、"優しさが仇となる"というような体験が増えるかも知れない。しかし、長い目で見てそれは徳を積む姿勢に繋がるし、変なトラブルや忙しい毎日に翻弄されるような人生からはお暇してゆけるようになるのだろう。それを凶とみるか、吉とみるかは自分次第ではあろうが、ほんとうの幸せとやらへ近づくためには、人というのはその人生の歴史のなかで、お金に窮したり、障害を負ったりしなければならない時期というものもあるのかも知れない。そこは「神のみぞ知る」の領域であろうが、元々そういうスピリチュアルなところもある病(障がい)なのだからに、トーシツを患ったこと、あるいは広い意味で無賃や障がいの状況に陥ったことを悲観するだけではなく、誇りに思ってもいいのではないだろうか。
幸せは非日常的でなにかができるという一連の流れの中ではなく、ほんとうは当たり前の日常のなかにひっそりと潜んでいて、それに気づき安心し感謝を覚えられるかという姿勢にこそ湧き出でるものなのかも知れない。昔、なにかのCM(コマーシャル)で「お金では買えない価値がある」との台詞があったが、ほんとうの幸せそのものとは本来間違いなくそういうものなのだ。
了、20min.
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