やさしいという棘

やさしいくあろう

人にやさしくしなさい。そう言われて育った、親ではなく先生と呼ばれる大人たちに。親は別段、私が優しいか優しくないかには特に興味がなかったのか、勉強するように言った。

人にやさしくするというのは私にとってさほど難しい事ではない。
怪我をした人を心配しながら、応急手当をして、しんみりする。
相手の気持ちを考えるとか、そんなスピリチュアルめいた事をする必要はない。優しい行動というのはある程度ルーチン化されており、子供が読むお話に散りばめられている。奇天烈だったり、大げさだったり、オリジナリティだったり、変わった優しさの表現に気を取られず、抑える所だけ抑えておけばいい。

私は優しかった。私の優しさは社会的に求められる優しさの基準をクリアしており、比較的高い水準を保つ努力もされていた。

こう書くと、そんなのは優しさでないと言われる。

では、やさしいとは何だろう?

正しい、勇ましい、輝かしい。
そんな言葉に比べるとやさしいは実に曖昧で、綿菓子のようにフワッとしたものではないだろうか。
本心だとか、本心じゃないとかくだらない問題もそうだ。
本心じゃないやさしいがなぜ咎められる?本心でなくてもやさしいのだ。やさしさを向けられる者にはやさしさに変わりはあるまい。

甘やかす事と勘違いしているという人もいるが、どこからがやさしさでどこからが甘やかすなのか、甘やかすのは人に嫌われない為だと言うが、やさしくない人間を人はやさしくないと嫌うではないか。

やさしくないと嫌われるなら本心じゃないやさしさで人に好かれた方が楽じゃないか。

やさしさに殺されかける

しかし、私はやさしくあることを辞めた。数回、人に裏切られ、最後は居場所をなくし、仕事が終われば、海岸の防風林で過ごし、精神と身体を崩し、心療内科を受診後、駐車場で倒れた。
遠くに住む友人が数人見舞いに来てくれたが、
その時、一番優しさを向けていただろう人はさっさと荷物をまとめて去っていった。今思えば、去っていなければ、その人は生きていなかっただろうから正しい選択だ。

入院中、あるテレビ番組を見ながら思った。人間は人間という獣であって、フレンズじゃない。
ならば、人間が俺を食い物にするのも理解できる。
だから、俺は人にやさしくあることを辞めた。

やさしいという棘を抜こう

君もどうか?
人にやさしく生きるなんて人生に刺さった棘のような物だ。
些細だが、確実に痛く。いつか傷は肉を腐らせる。
君もやさしいを抜け出さないか

という気はさらさらない。
私はやさしくあることを辞めたのだ。
だが、君たちは私の読者だ、このテキスト一回分だとしても。
だから、君たちにだけお得な情報として教えよう。
早くやさしいから抜け出しなさい。
そして、やさしいなんて曖昧な言葉を人におい被せないようにしなさい。

やさしいを抜けて


どこに向かうのか分からない
サバンナか、ジャングルか、
高山、砂漠、湖畔、平原、図書館、
ライブ、雪山、ロッジ、港、遊園地。
ただ、やさしいという重荷を捨てた私の歩みは軽い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?