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夜中の停電

ここ最近1ヶ月くらい一切雨が降らなくて、ようやく降り出したと思ったら、1週間豪雨。あれだけ、豪雨の雨の音を聞きながら昼寝したいとうずうずしていた体も、ここまでしっかり降られると、外に出て散歩したくなるというあまのじゃく。

金曜日、全部のクラスが終わってから、週ラストスパートに仕事を2時間。夏休みの仕事でお世話になった上司のもとで、今学期も働くことになりました。インディアナ州にある公立高校の校長とスクールカウンセラーの名前と連絡先を調べ上げるのが最初のタスクで、それが意外と面白いです。

アメリカは日本の都道府県と比べて、1つの州が圧倒的に大きいから、その州に住んでいても、その州にある町の名前を知らないことが多いから(ぶっちゃけ全然知らない)、町の名前を知るのも楽しいし、それぞれの学校のホームページの系統とか、学校の組織体制とかの違いを見るのも楽しい。Google Mapで全部の町を見ていくと、自分の住んでいるGreencastleよりもさらに小さい町がたくさんあることに気がつきました。ショックだったのは、「1つの町に1つの高校」がないこと。少子化か財政的な問題なのか、町によっては、隣町の高校へ行くこともあるそう。インディアナ州出身の友達に、高校がない町が存在するってやばくないか、と話したら、残念だけどない町もあるとのこと。でも、1つ新しい情報として、Country(日本でいう"群")に、必ず1つは高校を作るようにしているそうです。なるほど。

仕事とか暇な時間を使って、大学の授業で扱わない知識を知ると、いかに大学にいるということが、社会との関係性を切っているかをしみじみ感じます。クラスで学んだ知識をそのまま仕事で使ったとしても、それが絶対的な解決策になることはまずないし、論文が教科書が言っていることに対してすごく懐疑的になりました。授業で習っていることに信憑性がないと言っているわけではなく、使い方を吟味しなければ、価値がないことを感じる機会が増えたからだと思います。

その例がEthics Bowlのクラス。クラスでのディスカッションをしていると、いかに自分の考えていることが、一部の人間を除外した上での思考かということに気付かされます。

話している内容はこんな感じ。

自動車を酔いながら運転していた男性がいて、怪我はなかったが、荒い運転だったがために、エアバックが誤作動し、最終的に警察がきた。誰にも危害を加えていない場合、彼は法に罰せられるべきか?

オンラインでポルノを見るために、州が身分証明書の提示をすることを義務付けた。表現の自由という思想が強い(少なくとも日本よりは強いと思う)アメリカで、これは個人のプライバシーと表現の自由の権利を奪っているのではないか?

これに対して精巧な意見を探るには、自分の頭の中から、チームメイトとのディスカッションからアイデアや思想を集めて、批判・考察していかないといけないわけで、心理学を学んでいる自分だけでは到底敵いません。自分が考えていることに対しても、他の人が考えていることに対しても、論文に対しても、教科書に書かれていることに対しても、すっごく懐疑的。だからこそ、日本にいた自分だったら拒否反応起こしていただろう他人の行動や考え方に対して、よりフラットに見れるようになったとは思う。

イギリスに行った時に、友達が「行政は良い社会を目指して行うものではなく、ちょっとマシな社会にするために精進するもの」というニュアンスのことを話していたけれど、ようやくそのアイデアがしっくりくるようになってきた。ここまで思考が違うと、足並み揃えて良い社会をとか、そんな綺麗事言ってられない。

いとも簡単に壊れてしまう脆い社会を、人はどう考察しているんだろう?

そんな疑問が渦巻く大学3年目の秋です。

頭の中を言語化できたのは、停電でパソコン・ケータイ・電気が使えない状況になり、小さいライトとノートで日記を書く時間がとれたから。

停電の中の、真っ暗で静かな夜がなぜか懐かしく、毎晩深夜までなんやかんや起きている現代の人間は、本来の人間としての役割と何かずれているんじゃないかとも感じた。

宮崎駿監督が千と千尋の神隠しや風の谷のナウシカを通して伝えたかったメッセージとは逆の方向に、社会が進んでいるように見えるのは私だけですか?

なんやかんや、楽しくやっています。以上、近況報告でした。ではまた。

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