大手企業から転身、ピックルボールに賭けた挑戦〜ブームで終わるのか、文化となれるのか〜
これまで交わらなかった人々が、あらゆるバックグラウンドを超えて関係を深めることができる新しいスポーツ、ピックルボール。
ピックルボールと出会い、プレーするようになって、ビジネスのきっかけが生まれた。友だちができた。生活習慣が変わった。
Sansan Pickleball Club公式noteでは、「ピックルボール×出会い」にまつわる十人十色のストーリーを発信します。
第3回目の今回は、ピックルボールを軸としたビジネスを展開し、Sansanの普及活動も支援いただいている株式会社ピックルボールワンの月村さまのインタビューをお届けします。
活発だった少年時代から、テニスとの出会いまで
─まずは自己紹介をお願いします。
月村と申します。32歳で、子供が二人おりまして、賑やかな毎日を過ごしています。学生時代はテニスに打ち込んで、実業団にも所属していました。現在はピックルボールを軸としたビジネスを展開するピックルボールワンで、全国への競技普及を目指したイベントの企画運営やインストラクター業務を担当しています。新卒からNTT東日本で9年ほど勤務していましたが、今年から公私ともにピックルボール一色の生活を送っています。
─お子さんの頃はどんな性格でしたか?
活発な子供でしたね。三男坊で、兄と兄の友だちと遊ぶことが多かったので、比較的年上慣れしていました。家族も体育会気質で、自分からどんどん主張しないと聞いてもらえないと言うか。そんな状況だったので、年上の中でも物怖じせず、前に出ていくタイプでしたね。
─勉強の方はいかがでしたか?
中学生くらいまでは成績も良くて、トップを取ったりもしていました。でも、高校に入ってからテニスが本格的になると、だんだん両立が難しくなってきましたね(笑)。
─テニスとの出会いについて教えていただけますか?
出身は千葉県の木更津市です。実は最初はサッカーをやりたかったんですが、親としては練習の送迎なども大変だったようで、兄二人がやっていたテニスを始めることになりました。今思えば、これが人生の大きな転換点になりましたね。
テニスに没頭した学生時代
─高校時代は相当ハードな生活を送られていたそうですね。
そうなんです。千葉から神奈川の高校に通っていて、朝5時起床、6時に家を出て夜10時以降に帰宅する生活でした。中学生まではテニスは週2、3回程度の遊び程度だったのが、突然本格的になって。朝練もあって、完全にテニス漬けの毎日でした。今までの生活とは全く違う世界に飛び込んで、カルチャーショックもありましたね。
─その環境の変化にはどう対応されたんですか?
正直、ついていくのが精一杯でした。でも、だからこそもっと上手くなりたい、この世界でやっていきたいという気持ちが強くなっていきました。高校時代は思うような結果が出せなかったんですが、その悔しさが次のステップへの原動力になりました。
─大学も、テニスを軸に選択されたんですね。お兄さんと同じ大学だったんですか?
はい。付属の大学に進むこともできましたが、スポーツ推薦での進学を選びました。兄は本当にプロを目指していて、すごく意識の高い生活を送っていました。その兄と一緒に近くでプレーすることで、自分も必ず強くなれると信じていました。また、監督が海外とのつながりも強い方で、その方のもとでもっといろんな世界が見えるんじゃないかという期待もありました。
─大学生活はいかがでしたか?
環境は本当に恵まれていましたね。キャンパス内にテニスコートがあって、家も近かったので、高校時代のような長時間通学から解放されました。やっと純粋にテニスに打ち込める環境を手に入れた感じです。充実した日々を過ごすことができました。
転機に訪れた、ピックルボールとの出会い
─大学卒業後はNTT東日本に入社されました。ピックルボールとの出会いはいつ頃ですか?
30歳の時、テニスの実業団を引退するタイミングで訪れたハワイがピックルボールとの出会いです。ハワイはたびたび訪れていたのですが、今までテニスコートがあった場所で突然、よくわからないミニテニスみたいな競技が盛り上がっているのを見かけたんです。実は2年前にも見かけていたんですが、その時は気に留めていませんでした。でも今回は、実業団を引退することもあり、もう少し肩の力を抜いて楽しめるスポーツを探していた時期と重なって興味を持ちました。これまでのテニスの経験も活かせそうだと感じました。
熊倉さんとの再会
─ピックルボールワンに参画することになった経緯を教えてください。
2024年2月、ピックルボールを始めたいと思っていた時に、高校・大学時代からの知り合いだった熊倉さんと再会したんです。熊倉さんがピックルボールの事業を展開していることを知って。僕もちょうどキャリアの転換期で、スポーツビジネスにも興味があったので、ビジネスパートナーとして一緒にやっていこうということになりました。
─NTT東日本といえば、誰もが知っている超大手企業です。そこを退職して、立ち上がったばかりのベンチャーへ転職することは、相当大きな決断だったのではないですか?
最初は副業として関わり始めたんです。でも、このスポーツの可能性を目の当たりにして、特にハワイで見た光景から、これは必ず日本でも流行ると確信しました。家族とも何度も話し合いを重ねました。子供が二人いて、不安が少しもなかったかと言えば嘘になりますが、自分が本当に信じているものに打ち込むことが、家族を幸せにすることにつながるはずだと思って。最終的には家族も応援してくれることになりました。
ピックルボールがもたらした変化
─ピックルボールを始めてから、生活に変化はありましたか?
最大の収穫は、新しい出会いです。外国人の方との交流も増え、グローバルにアンテナの高い人たちと出会う機会が多くなりました。ピックルボールは、プレイヤーの層が本当に多様なんです。世代はもちろん、あらゆるバックグラウンドを超えたコミュニティーが形成されているんです。そういった方々との出会いを通じて、自分の価値観も大きく変わりました。枠にとらわれずに、もっと自由に生きていいんだと気付かされました。
また、以前はビジネスの世界でしか見ていなかった景色が、スポーツを通じて全く違う角度から見えるようになりました。ピックルボールのコミュニティーでは、職業や年齢に関係なく、純粋にスポーツを楽しむ中で深い関係性が築かれていきます。ピックルボールには、人と人を繋ぐ不思議な力があるんだなと思います。
これは従来のビジネスネットワーキングでは得られない貴重な経験ですね。
描く未来像:2025年とその先へ
─ピックルボールワンとして、今後どのような展開を考えていますか?
日本の市場はまだ発展途上で、競技人口も約1万人程度と言われています。アメリカの460万人と比べると、まだまだ大きな成長の余地があるんです。
具体的には、都市部のみにしかアプローチできていなかったピックルボールの体験イベントを全国で展開し、全国でのムーブメントにつなげていきたいと考えています。
そのためには全国にインストラクターが必要です。さまざまな研修を整備し、インストラクターを育成することで、参加者にもこれまで以上の体験価値を提供したい。そして、レベル別、個人戦や団体戦など、さまざまなカテゴリの大会を各地域で行うことができるようになっていければと思っています。
また、スポーツ関連のみならず、さまざまな企業がピックルボール市場に参入を始めています。こういった企業との協業も非常に重要だと考えており、あらゆる角度からピックルボールの普及と発展を加速させていきたいと考えています。
最終的には、ピックルボールがいつでも・どこでも・やれる、見れるという、まさにライフスタイルそのものと呼べるようなスポーツにしていきたいですね。
─2025年は重要な年になりそうですね。
そうですね。2025年は、ピックルボールが日本で「ブーム」で終わるのか、それとも「文化」として根付くことができるのかの分かれ目になると考えています。私たちはピックルボールをライフスタイルに根付いた文化として育てていくことを目指して、基盤づくりを進めていきます。
ピックルボールは、ただのラケットスポーツではありません。新しいコミュニティーを創造し、心身ともに健康なライフスタイルを実現してくれる。人生を豊かにする力があると信じています。その可能性を一人でも多くの人に知ってもらいながら、最大限に引き出していきたいですね。
ーインタビューは以上です!ありがとうございました。
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