アドルフに告ぐ を主観的に語る

「火の鳥」「ブラックジャック」などと並んで手塚治虫先生の最高傑作と言われる作品です。

ミステリーな導入から第二次大戦のドイツと日本を舞台に、友人同士が悲しみの連鎖の中に放り込まれていく物語。

手塚先生は「記憶なんて曖昧で主観的なもの」と定義した上で、自分の目が黒いうちにその戦争の記憶を残したいという気持ちから、自身の故郷(宝塚)の近くである神戸を舞台に、実在した知人が戦時中に居たら、と想定して書いたフィクション作品のようです。

「ヒトラーは実はユダヤ人説」を前提に、フィクションやノンフィクションの混ぜ方が上手く、「もしその仮説だったらこうなる」と辻褄を合わせた人間模様が物語のリアリティを増幅させていきます。

ナチスの組織の親衛隊の洗脳教育の結果が起こした悲劇の連鎖は、友人同士の殺し合いへと展開していきます。

名指しで第二次大戦やナチスを批判しているような話ではなく、そもそも争いは悲しみしか生まないというような抽象度の高いテーマ性を感じます。
ナチスによるユダヤ人の迫害と被害者側だったはずのユダヤ人のパレスチナ人迫害の結末を、代表者二人のアドルフの争いと混ぜて、タイトルの意味が判明するラストの「分かりやすさ」はちゃんと結末ありきで作成された話だなあと。

この悲劇のストーリーとその結末は、手塚先生の「人間なんてこんなもんだよ、という諦め のような悟りの感覚」を感じざるを得ません。

ちなみに、この「あきらめる 」という言葉は、「真理を明らかに見る」というところから派生して出来た仏教用語でして、仏教用語の元々の意味としては「原因をしっかり見る」という意味となります。

つまり「あきらめ」というものの見方は悲劇の物語全体を見通して、こんな悲劇が起きてしまった原因を見つけ、改善していくこと。そんな人間に対する反面教師な教訓のストーリーとして、ストーリー全体を見て、この悲劇の物語が生まれてしまったのは何が原因か? 明らかにする。と考えるところにあります。

カウフマンが親衛隊に入っていなければ?
カウフマンがエリザに出会わなければ?
など色んな悲劇の原因はありますが、漫画という手段でストーリー全体を見通せること=「あきらめ」るには絶好の表現技法のひとつかもしれません。

例えば、作中でヒトラーが何を食べているか?何をしていないか? などの日常の習慣(その人の人間性やスタンスを形作る重要な構成要素)も細かく読み取れるよう描かれています。

こういう細かいポイントは一回読んだだけでは拾えなかったりもしますので。何度も読んで本質を明らかにしてこういう悲劇が起きないようにしていく上で、漫画で「諦め」を表現された手塚先生はセンスありすぎです。

一度でなく何度も読む理由が仏教の「あきらめ」という裏テーマにある気がする作品です。オススメです。


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