生きる
一騎当千の総務の職場に、昨年新人が一人加わった。当然現場最年少である。
さぞや先輩方からしごかれ、最小限かつ極度に冷淡な指導を受け続け精神的に滅入っているであろうと思い、用事のついでにその娘に軽いジョークを飛ばしてみた。
–生徒から聞いた話なんですが、先日二月二十二日は、にゃんにゃんにゃんの日らしいですよ–
彼女は即座に、
–二月二十三日は、にゃんにゃんみゃーの日らしいですよ–
新人とは思えぬ流麗な刀さばきだった。受けて流した後の必殺の一撃も見事なら超反応と微笑みもまた見事。
自身の一瞬の硬直時間を自覚した後、それで大丈夫なんですか日本は、そんな幸せが連日続いていいのかと、二十一世紀を担う若者に問い返すと、大丈夫みたいですよ、と囁いてくれた。二月の冷え込んだ空気を、少なくとも瞬間的に小春日和にまで暖めたのは紛れもなく彼女の功績であり、やりとりを聞いていた周囲の瞠目はそれを証明する。
仕事の内容を理解し、業務に忠実であれたのなら、あとはその為人次第で職場の雰囲気と士気は左右される。どうやら弊社は優秀な人材を失わずに済みそうだ。人を失えば仕事を失うのだから。
十数年前、叔父が他界した。当時学生だった私は、霊柩車の追従ドライバーを務めた。火葬場に向かう途中、叔父の職場の前を通過するという。
おそらく全職員であったろう、総出で廊下に立ち、走行中の我々一行に頭を垂れていたのを確認した。人生屈指の名場面だった。残念ながら人の正当な辞価は当人の生前に下されることはない。功罪と人格の総和によってのみ評価せらる。
楽しいだけが全てではない、が、楽しく向き合える仕事と職場は必ず他者を幸せにする。多少の損は承知。だが損を承知してなお戦おうとする者を人は慕う。叔父はその類だったのだろう。
何をしたいかを考えるのも大切だが、人生折り返し地点の今、何をして死ぬのかを考えるようになった。世間の醜聞を見聞する限り、晩節を汚すようなことは結構簡単なことらしい。とりあえずは新人の生き方と叔父の生き方を学ぶことから始める。人を助ける側に立つ。
人間だけが変わらない。
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