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「生き物の死にざま」を読んで
本屋さんの「自然科学」コーナーに行くと必ず面陳になっていて気になっていた本を図書館で借りた。
生き物の「死」について知りたいと思ってこの本を読もうと思った。
動物を人間の価値観に当てはめて語られているところに違和感がすごくあった。けれど、私にはこの優しい(易しい)感じが良かったのだと思う。
生き物が群れを作るのは、生き残るため、天敵に食べ尽くされないための作戦だと分かった。あるものは食われ、あるものは生き残り子孫を残す。
大量に卵や子供を産むのも同じだ。
う〜ん、なんか、分かりそうで分からない。
群れを作っている生き物は自分たちの種を残すための作戦だけど、
それは、他の種を残すのにも役立っている。
それぞれは個ではなく、全部なのかしら。
最初の生命が「ルカ」というのも知らなかった。
すべての生命が単細胞生物だった時代に生物に「死」が存在しなかった、というのも初めて知った。(きっと学校では習ったんだろうな😅)
「死」は三八億年に及ぶ生命の歴史の中で、生物自身が作り出した偉大な発明なのである。
一つの生命がコピーをして増えていくだけであれば、新しいものを作り出すことはできない。さらには、コピーミスによる劣化も起こる。そこで、生物はコピーするのではなく、一度、壊して、新しく作り直すという方法を選ぶのである。まさに、スクラップアンドビルドである。
しかし、まったくすべてを壊してしまえば、元に戻すのは大変である。そこで生命は元の個体から遺伝情報だけを持ち寄って、新しいものを作る方法を編み出した。これがオスとメスという性である。つまりオスとメスという仕組みを生み出すと同時に、生物は「死」というシステムを作り出したのである。(p104)
そして、細胞の中の染色体のテロメアが時限装置となり、生物は老化して死んでいく。人間は若いままでいたいとか、不老不死になりたいと昔から考えているけど、生物は老いて死ななければならないのだ。
生物は進化の過程で、生物に不必要な遺伝情報は淘汰したり、機能しない仕組みを退化させてきた。もし、老化する仕組みが生物にとって不利な性質であるのならば、生物は自らの遺伝子からテロメアを取り除いたり、機能を抑制するくらいのことはとっくに実現しているはずである。(p140)
私は自分を中心に考えていたから、死=すべての終わり、だと思っていた。
けれど生き物全体で考えたら、死は終わりではない。
そして、どんな生き物も必要なんだと思う。
「蓑を出ることなく生涯を閉じるメス」という蓑虫の話と、「クモの巣に餌がかかるのをただただ待つ」という女郎蜘蛛の話が好きだと思った。
先日、ミツバチが大きなクモの巣に引っかかってもがいているのを見た。私はそれを大きな視点から見ていた。ちょっとクモの巣を摘んで壊したら蜂は助かったかもしれないけど、そうしたらクモの食べ物がなくなってしまう。(クモは長い間巣に餌がかかるのを待っていたのかもしれない)ハチを食べてクモが生き延びたら、またクモは鳥に食べられるかもしれない。
そこには大きな大きな川の流れのような力があるような気がした。
最後の方の、ニワトリやマウスの話はきっと読めない人もいるだろう。
日々人間に食べられるために生きるニワトリや、実験に使われるマウス。
著者は、人間が心や感情を獲得したなら、他の哺乳類もそれに近いものを持っていると考えることもできると言っていた。どうなんだろう。
人間の思考や感情や行動、それらが本能によるものだとしたら、
それも必要なのだろうか。
本当のことは、誰にもわからないのだ。
私たち人類にとって、生命はあまりにも謎に満ちている。
この言葉が一番納得した。