血笑百合の咲く夜に(上)
株式会社アゾンインターナショナル様の展開するドールコンテンツ『アサルトリリィ』を題材とした二次創作小説です。
登場する各設定は二次創作(所謂俺設定)を含むため、公式の世界観から矛盾・逸脱している可能性があります。
また公式設定上のリリィ達は、基本的に登場致しません。体感6~7割戦闘シーンで、あんまり学園生活していない。
それでも許容いただける方は、暫しお付き合い下さいませ。
人物紹介を兼ねるオリジナルリリィの紹介はこちら
#1 首里鹿子、および零れ落ちたリリィ達
私が、もっと強かったなら。
飛び交う悲鳴と、空を覆った土煙の中で、首里鹿子はそれだけを想った。
今や、白昼の街は戦場と化した。異形の怪物達は建物を砂城の如く崩しながら、人々を蹂躙し、喰らい尽くそうとしている。
ヒュージと通称されるその怪物の侵攻を食い止めて、今この時、暴虐の限りを尽くされている人々を守る……その希望は本来、自分自身の筈だった。
リリィ。超常の力たるマギを繰り、ヒュージを討つ使命を課せられた乙女達。それが彼女の肩書だった。
なのに、どうだ。
「くそっ……動け、このっ……!」
握りしめた大剣の様な武器は、ヒュージを倒す為だけに鍛えられた兵器、Counter Huge ARMs……即ちCHARMである。しかし、鹿子がいくらマギを籠めても、それは微かな振動を返すのみで、正常な起動状態を示さない。
そうしている間にも、ヒュージはその数を増していく。どこから湧いてきたのかなどは知り様もない。確かなのは今、この瞬間、周囲の街と人々が無慈悲な力に侵され、その被害はやがて加速度的に広がっていくいうことだ。
『GYYYYYYAAAA!!』
耳障りな咆哮の後、一筋の光となった熱線が幾つもの建物を纏めて焼いた。鹿子は光の先に視線を走らせ、戦慄する。
「ラージ級まで居るなんて……!」
熱線を放ったのは、獣めいた四足の、三階建のビルにも並ぶ巨大なヒュージ。
リリィ一人では明らかに持て余す脅威が、鹿子の眼前まで迫る。
増してや、今の自分では……
「なんでよ……なんで、起動できないのよっ……!」
視界が真っ白に染まるほどに、怒りを感じた……それは、自分自身の弱さに対しての。
だから、そのヒュージが自分に気づき、もはや逃走さえ不可能な距離まで近づいてきた時、鹿子は寧ろ敵意を剥き出しに、あまつさえその身を晒して真っ向から対峙した。
自殺行為と言っていい。
最寄りのガーデンであるY女学院からでさえ、救援は間に合うまい。今の鹿子がこの敵に打ち勝つ希望は、皆無。
(それでも)
それでも……鹿子には自負があった。例え敗れる運命にあれども最後まで人々を護るリリィたらんという、頑なで、妄執めいた自負が。
全身には寒気のような恐怖を感じ、人並みよりも小柄な体は微かに震えている。だが、鹿子は過去に何度もこれを克服してきた。その結果の是非に関わらず。
少しでも、人々が逃げる為の時間を稼ぐ。覚悟は決めた。
そうして最初の一歩を踏み出した、次の瞬間だった。
「お待ちなさい、首里鹿子さん」
背後からの声に、足を止めた。
次いで、鹿子の脇を、人影が辻風の様に通り過ぎる。
気づいた時には、目の前のヒュージは悲鳴と共に身をよじらせていた。何者かが、ヒュージの右前足の膝を深く斬りつけたのだと、一瞬遅れて理解する。
その隙を突く様に、反対側から別の人影。こちらは高く跳躍し、ヒュージの脳天に大鉈の様な剣を叩きつける。
『GYYYYYY!!』
怪物の悲鳴……とどめに、球状の光弾が連続して飛来し、その全てがヒュージの顔面に着弾した。
異形の怪物が崩れ落ちるのを、鹿子は呆然と見つめた。
傍らに、一人の少女が並び立つ。鹿子より頭半分ほど背の高い、切れ長の眼の少女だった。
「命を捨てるには早いわ。ここで死ぬのが貴女の本懐ではないでしょう」
「わざわざ説教する為にアタシを助けてくれたっての? 誰だか知らないけど、エライのね」
すかさず、また刺々しく鹿子は言い返した。対して相手は、柔らかく、そして仄暗く、微笑んだ。
「怒らないで。心から願ってここに来たの。貴女が欲しいと」
「はぁ?」
「貴女が必要なのよ。貴女の、力が」
鹿子は、値踏みするように、目の前の少女を凝視した。
鍔広の帽子と、長い前髪も相まって、その表情は上手く読み取れない。黒い外套と合わせれば、その姿は……まるで、絵本に出てくる魔女の様だった。
やがて鹿子は、達観した溜息を漏らす。
「なら、残念ね。今のアタシじゃ、期待には添えないわよ」
「いいえ」
優しく、そして強く、少女は否定した。
「貴女は私の期待を裏切らない。絶対に」
そう言って少女は、鹿子に小さな篭手を手渡した。手の甲部分には、マギクリスタル……即ち、リリィのマギを力として化現させる、金色の水晶体が輝く。
「名前は“レグルス”。第一世代の旧式だけど、れっきとしたCHARMよ。今の貴女に応えてくれると、誓うわ」
「……アンタ、アタシの何を知ってンの?」
「多くを知っているわ。少なくとも、今の貴方の日常に関わっている、誰よりも」
鹿子の視線を、少女は真正面から受け止める、彼女の手には、巨大な戦槌の形をしたCHARMが握られていた。その意味する所、一つ。
「アンタもリリィなのね。ウチのガーデンじゃなさそうだけど」
「少し、事情が複雑なの。濱真麻よ。真麻って呼んで」
「二人とも、挨拶中悪いんだけどさ」
会話は、先程ヒュージを攻撃した人物……リリィによって割り込まれた。
鹿子が声の主に視線を移すと、ロングコートを纏った長髪のリリィが、大鉈のCHARMを振り上げてこちらを見ている。
「ヒュージ共、どんどん集まってきてるぜ。Y女学院か、近くの防衛隊か知らんけど、増援が来るまではあたいらが引きつけなきゃならん」
「スモール級が中心の様ですから、分散して敵を撹乱致しましょう。わたくしはお先に参りますね」
そう続いたのは、大鉈の娘の少し後ろに佇んでいた、別のリリィ。曲刀のCHARMを携えて落ち着き払い、何よりも矢絣袴を身に纏って戦場に臨む姿が、リリィとしての異様を際立たせた。
そして言葉を紡ぎ終えるや、彼女は文字通り消えた。目に捉えられない程の速さで駆け出したのだ。
取り残された鹿子は、真麻と名乗った最初のリリィに視線をやる。相変わらず、真麻は静かな微笑みを浮かべたままだった。
「正直に言うけど。アンタはすごく胡散臭い」
「否定はできないわね」
毒づきながら鹿子はレグルスを受け取り、自分の両の手に嵌めた。
初めて身に着けるCHARMであるにも関わらず、鹿子はその事実を疑った。
既に何年も鹿子の物であったかのように、今やレグルスは鹿子に呼応し、微かに振動する。
「でも……これ、今は借りとく。イケそうな気がした」
「良かった、来た甲斐があるわ」
「まだ喜ばないで。結果は出てない」
鹿子は、真麻と共に周囲を見渡した。真麻の仲間が既に動いていたにも関わらず、二人の周囲には犬の様な姿のスモール級ヒュージが群がり始めていた。
既に恐怖は消えていた。鹿子はごく自然体に、徒手空拳で闘う構えを見せた。軽く右足を引いて半身になり、腰を落とす。
「で、アンタは? いかにも強いですって態度だけど、どうなのよ」
鹿子が問うと真麻は、ふふ、と息を漏らした。
「それは、貴女が確かめること」
「……ふん」
背中合わせに立った二人が、それぞれ動き始めるのと、周囲のヒュージ達が襲い掛かってくるのは同時だった。
鹿子は全身全霊の力を込めた正拳の突きを、一番近い犬型のヒュージに対して放つ。
篭手型のCHARMは、鹿子の中に脈動するマギを、爆発的な衝撃へと変えた。
鹿子の喉を食い破ろうとしたヒュージが、それを果たそうと跳躍した瞬間、突き出された拳によって木っ端微塵に粉砕される。
「できた……!?」
そして他ならぬ鹿子自身が、驚きに目を見開く。次いで、その表情は歓喜に染まり……やがて涙ぐみ、最後に慌ててそれを堪えた。
「気に入ってくれたかしら」
戦槌のCHARMを振るい、同時に三体のヒュージを仕留めた真麻が、鹿子の背中に語りかけた。
鹿子は真麻に表情を悟られぬ様、背中越しに答えた。
「そうね……そう、最高ね、これ」
レグルスの核であるマギクリスタルが、鹿子のマギを受けて煌々と輝いている。
それは鹿子が一年にも渡って望み、求め、それでも手に入らなかった、再起の証だった。
「本当に、最高よ」
鹿子は駆け出す。
幾つものヒュージに真正面から拳を振るい、その全てを叩き潰しながら、一直線に進む。
戦闘におけるリリィの役割は、前衛となるAZ、後衛となるBZ、それらの間を補完する中衛のTZに大別される。当の鹿子は、混ざり気無しの純然たるAZだった。
果たすべきは、囮役。ヒュージ達の注意を引きつけ、市民が退避し救援が来るまでの時間を、一分一秒でも多く稼ぐ。
「復活できたのか、特待生? 調子に乗って前に出すぎンなよな」
鹿子の傍らに並んだ、大鉈のリリィが言った。鹿子は興奮を抑えられず、思わず笑って答えた。
「生憎。ソレがアタシの仕事だよ」
そう言って深く息吹を刻み、CHARMにマギを充填する。
目の前には、先程倒したのと同じ、ラージ級ヒュージ。その最も恐るべき攻撃は、熱線による大火力射撃である。
直撃すればリリィ一人を軽々と葬りかねないそれが飛来する直前、鹿子は両手で大きく円を描くような動きを取った後、掌を自分の目の前に突き出した。
瞬間、巨大な光の障壁が展開して熱線を霧散させ、鹿子達四人のリリィを守る。いわばそれは、マギによって形づくられるバリア。
「レアスキル“ガードシェード”……初めて拝見致しました。お見事ですね」
「どうも、お粗末様」
袴のリリィが感嘆し、また次の瞬間には駆け出すと、眼前のヒュージ達が斬り刻まれていく。
CHARMを扱う事のできるリリィ達それぞれに発現する、固有の特殊能力……それが、レアスキル。これもまた、一年前に鹿子が失い、取り戻そうと足掻き続けた力だった。
「ね。うまく行ったでしょう?」
真麻が、鹿子に問うた。鹿子は最初の疑念を思い出し、少しだけ沈黙し考えてから、口を開く。
「…………アンタ、アタシが欲しいって言ったわね」
「ええ」
「なら、覚悟しときなさい。アタシは……自分も含めて、弱い奴は嫌い。だからアンタが弱ければ、アタシはこのCHARMを突っ返してでも手を切るよ」
「心に刻むわ」
「アタシがそう認めるくらい、強いのなら…………アンタを、お姉様って呼んであげる」
リリィが別のリリィを『お姉様』と呼ぶ、その意味は、重い。真麻も、真っ当なリリィならば判っている筈だ。
もう一度だけ、鹿子は真麻の目を見た。
彼女の瞳は、暁に照った湖沼の如く、深く、暗く、穏やかな輝きを宿していた。
#2 ガーデン
鹿子達が戦い始めてからそう間を置かずして、最寄りのリリィ養成校で、鹿子の通う学校でもあるY女学院のリリィ達が現場に駆けつけた。
質的、数的優位の両方を得た彼女達がスモール級のヒュージ群を制圧し、市民の安全を確保するのには、さほど時間は掛からなかった。
「潮時ね」
事態が収束に向かい始めるや、真麻は二人の仲間に撤収の合図を送り、鹿子にも付いてくる様に促した。
「これ、どうやって作ったの?」
戦場を離脱し、真麻に連れられる道すがら、鹿子は真麻に問うた。これ、とは真麻が鹿子に手渡した、レグルスの事だ。
「あの日から……どんなCHARMも動かせなかった。今になってこんな簡単に成功するなんて、話がデキすぎてる」
「一から作った物ではないの。旧式って言ったでしょう? 元からあったものを調整しただけ」
真麻の答えは、鹿子にとって意外なものだった。
「わざわざ篭手の形してるから、アタシが空手やってたのを知ってたのかと」
「勿論知っていたわ。貴女が、幼少の折にお祖父様に師事していたのも、中学生で既にリリィとして活動していたのも」
「……そう、じゃあアタシのやらかしも知ってるんだ」
真麻は、ゆっくりと頷いた。鹿子の脳裏には負の記憶が反芻し、自分から恥を晒した事に、微かに苛立ちを覚えた。
「貴女は怪我の影響で、マギを制御する能力に少し障害が残ったのだと思う。でも、体内のマギが衰えた訳じゃない。必要なのはマギを体外に放出する方法」
「それが、このCHARM?」
「レグルスはワンオフのテストモデルで、とても原始的な構造をしているの。余計な動力を経由しない分、マギの流れはよりダイレクトで、弱い圧力でも動作する」
「……まるで探偵ね」
「貴女の出撃記録とカルテを読んだの。そこに色々な情報を統合して、あとはちょっとした閃きよ」
「カルテ……って……」
「目を通す方法はあるのよ。正道に拘らなければ、ね」
「うへ」
闇雲に努力した自分とは違う第三者が、一年以上探し求めた答えを見つけ出した事実について、鹿子は複雑な気持ちを言葉にはせず、呑み込んだ。
ストーカーされたみたいでキモいと感じる一方、真麻は鹿子というリリィの抱えた問題に、ともすれば当人である鹿子以上に向き合っていた。それは、認めざるを得ない事実。
真麻に渡されたレグルスを初めてまじまじと見つめると、実戦で付いたと思われる古傷とその修復の痕跡が、幾つも見られた。
(アタシと同じ、って訳か)
真麻の背を見ながら、鹿子はこの巡り合わせの意味を、ぐるぐると考えた。
それから案内されたのは、Y女学院から少し離れた廃工場だった。閑散とした場所だったが、真麻達が周囲に人影がないかを気にしていたのは、まあ、そういうことなのだろう。
中に入るや、甲高い歓声が鹿子と真麻と、その後ろに付いてきている二人とを出迎えた。
「お帰り! 鹿子は初めまして! ねぇ、マキエの弄ったCHARMどうだった? バッチリに決まってるよね?」
「ちょっ……」
鹿子に駆け寄り、ぐいぐいと距離を詰め、手を取って間近に顔を見つめてくる。小柄で背丈は鹿子と同じくらい……二つに結った髪と、真ん丸の瞳が印象的な少女だった。
「ま、警察無線を盗み聴きしてたから、貴方達が勝ったのは知ってたんだけどね。工場の屋根に空中線……あ、アンテナのことね。アンテナあるの見たでしょ? あれで大体の情報収拾はできちゃうんだー。本当はマキエも一緒に行きたかったんだけど、絶対にタイミングを間違えられないから無線機でオールチャンネル張って状況を把握してって真麻ちんに頼まれちゃってさ。それでマキエは、アニメとかでよくある司令部のオペ子役になったってワケ! あ、鹿子のCHARMだってマキエが調整したんだからね! 元々はマギ制御の為のリミッター的な奴が付いてたんだけどどあってもなくても鹿子には関係ないからソレぜーんぶとっぱらって、代わりにアンプ増し増しにしたから今のレグルス改はもう完全に原型とどめてないカンジなんだよー。いわばワンオフカスタムって奴! ま、でも、マキエ印は信頼性をキッチリ保証するし、鹿子なら絶対使いこなせるて判ってたからそこまでやったんだけどね。マギクリスタルの登録データだって正規のサーバーから抜き出して復元したカンペキな……」
「蒔絵さん。お先に、ちゃんと自己紹介して差し上げて下さいませ。鹿子さんが驚いておられます」
鹿子の後ろに控えていた袴のリリィが、柔らかく“マキエ”を窘めた。
マキエは二、三度ぱちぱちと瞬きして、もう一度鹿子に正面から向き合う。
「マキエの名前は葉木蒔絵です! 覚えやすいでしょ?」
「首里鹿子よ。うん、まぁ、忘れないわね、アンタは」
握られた手を更にぶんぶん上下に揺さぶられながら、鹿子は助け舟を出してくれた、袴のリリィに視線を送った。
アイコンタクトが通じると、彼女は深々と一礼を返す。後ろで一つに結んだ、艶の有る栗色の長髪がさらりと揺れた。
「わたくしは宇目山千鳥と申します。どうぞ、良しなにお願い申し上げます。それから、あちらが……」
千鳥が、残る一人、大鉈のリリィを見る。彼女は部屋の隅のソファに腰を下ろしてからCHARMを壁に放り、行儀悪く足を投げだしてくつろぎ始めていたが、視線に気づくと手を挙げて応えた。
「あたいは伊原花霞だ」「はなかすみ?」「そう、ハナカスミ。名前は覚えやすく無いけど、まー宜しくな」
友好的でもなく、かと言って刺々しさが有るわけでも無い、平坦な語調だった。
「で、あんたは首里鹿子。Y女学院の一年で、しかも特待生。だよな?」
花霞に指差され、鹿子は表情を曇らせた。
「そうね。なんか気に入らない?」
「いや、全然。知ってることを言っただけさ」花霞が肩を竦める。
「アンタ達はどこの学校なの? 誰も制服着てないし、ウチのガーデンじゃぁ……なさそうだけど」
「言ったでしょう、事情があるって」
鹿子の問いに答えたのは、真麻。
「私達みんな、ガーデンはばらばらなの。でも、目的があって、こうして集まった」
「目的?」
真麻は、またあの微笑みを浮かべ、微かに間を作った。それは言葉を選んでいる様にも見えたし、鹿子を値踏みしている様にも見えた。
「戦いたいのよ。自分を証明する為に」
強く、静かに、真麻の言葉は紡がれる。
戦う。それは、リリィならば本来至極自然の行動だ。だが、それを踏まえてなお、『戦いたい』と願う。その意味する所を、鹿子は知っている。理解できる。
鹿子もまた落ち着き払い、けれど力強く真麻を見つめ返して、その言葉を聴いた。
「だからこそ鹿子さん、貴女が欲しい。私達と同じ、貴女の力が」
「そう……」
その場の誰もが、鹿子の言葉を待っていた。
鹿子は、声を発する前に呼吸を整え、一人ひとり、彼女達の顔を見た。
確信は持てない。けれど、直感する。きっと、彼女達も同じなのだ。自分と同じ……
「……いいわ。協力する」
「やった!」
一番に喜んだのは蒔絵で、何の遠慮もなく鹿子に飛びついて来る。
「マキエだけ一年生でちょっと寂しかったんだ。お友達になってよね!」
「あー、はいはい」
あしらう様に蒔絵の背をぽんぽんと叩きながら、鹿子は他の面々を見た。
真麻も、千鳥も、花霞も、それぞれに嬉しそうな表情を浮かべていた。
恐らく各々思う所はあるのだろうが、歓迎されているのは、間違いなさそうだった。
(久しぶりだ、こんなの)
『燃えカス』と影で囁かれながら、一年を過ごした。誰かに期待される感覚など、もう忘れていた。
真麻が何を考えているのかは判らない。その、素性さえも、今は。
だが……重要なのはそこではないのだ。
(戦える。またアタシは、戦える)
再び挑む、その価値はある。裏切られるかもしれないが、首里鹿子という少女は、その覚悟さえも携えていた。
真麻は決意を固めた鹿子の瞳に、囁きかける。
「歓迎するわ。はぐれリリィの集いへようこそ」
別れ際、真麻はチームの連絡先を書いたメモを鹿子に渡して来た。
「時が来れば、また連絡するわ。けどここにはいつでも遊びに来てね、歓迎するから」
「アンタ達、いつもここに居る訳?」
「私と千鳥は大体そうね。蒔絵と花霞は、放課後や休日だけ」
「マキエ達はまだ一応ガーデン住みだけど、真麻ちんと千鳥さんはローニンだからね!」
「蒔絵さん、その表現では少し語弊が」
鹿子の問に対する蒔絵の答えに、千鳥がやんわりと突っ込んだ。
「へっ、素浪人で間違っちゃいないだろ、サムライ娘」
そう笑ったのは花霞。千鳥は、皆さんたら……と、大して怒る風でもなく上っ面だけ拗ねてみせた。
「他にも理由はあるけど、そんな所かしら。でも鹿子さん……」
「鹿子でいいわよ」真麻の言葉に、割って入る。
「それなら、鹿子。貴女にはまだ母校があるのだから、通える内は通った方がいいわ」
「含みがあるわね」
「ええ。でも、この話題も、いつかその内に」
真麻に見送られ、鹿子は工場を後にした。
◆
鹿子が女学院の寮の自室に戻った時には、既に日が沈みかけていた。Y女学院……そこは“ガーデン”と呼称されるリリィ養成校の中でも、世界有数の名門である。
もともと放課後に買い物に行く名目で外出していた鹿子だが、その先でヒュージと出くわした事、増してや所属も知れないリリィに助けられ、一年間喪失していた自分の力が戻った事は、誰にも伝えなかった。
決して、Y女学院の人々を信頼していない訳でも、嫌悪している訳でもない。ただ、疎遠なのだ。
中学三年生の時、鹿子はヒュージとの戦いでの負傷から、CHARMの制御能力に障害を負った。本来ならばそこでリリィを引退する所を、特別の図らいからリリィ養成校であるY女学院の“特待生”となる事が許されたのだ。
曰く、中学の三年間をリリィとして闘った功績と、障害を負った経緯を踏まえ、今後の回復を期して特別養成生徒に指定すると。
当然、現実は甘くない。当人の努力に関わらず、鹿子の力が回復することは無かった。
教師も、同級生も、多くが協力してはくれたが、芽の出ぬ種に水を撒き続けられる程、ヒュージとの戦いに余裕がある時勢でもない。
いつしか鹿子は一人で黙々とリハビリを行う様になり、そんな彼女を一部の心無い生徒が“燃えカス”と囁く様になった。
(でも、もう違う……)
ふと校庭を見やれば、幾つかのグループが放課後の訓練を行っていた。Y女学院のリリィは九人一組で構成される小隊“レギオン”を基軸とした集団戦術を用いて闘う。その連携を確たる物とするには必然、同じ時間を過ごし、体験を共有し、互いを理解していなければならない。
故に、闘えるだけの力が戻ったにしても、今からガーデンに溶け込むのは容易ではあるまい。既に入学からは数ヶ月が経過し、同級生は皆、それぞれの仲間と日常を手に入れている。
それに、今となっては鹿子自身の興味が別の方向を向いていた。自分を欲しいとまで言った、あの少女……
「落ち着け。まだ早い。いつだって覚悟はして置くんだ……」
……また見放されるかもしれないし、アタシ自身がそうするかもしれない。
そう呟きながら、鹿子は寮の自室に荷物を放り、そのまま階段を登って屋上へと出る。
この誰もいない空間で、独り訓練をするのが、今の鹿子の日課だ。
預かったレグルスを手に嵌め、拳を突き出す。先程と同じ様に鹿子のマギはレグルスを起動し、また同じ様に、鹿子は高揚を抑えきれず、涙を拭った。
空手は死んだ祖父から習ったというだけのもので、リリィとしての技術には直接関係は無かった。今までは。
だが、篭手型のCHARMであるレグルスを扱うならば必然、鹿子はその動きを思い出す。武器としては余りに心許ない筈の篭手型のCHARMを迷わず使えるのは、『形』が体に染み付いていたからだ。恐らくはそれさえ、真麻の計算の内なのだろう。
なんだっていい。今は。
大事なのは再び戦うチャンスが巡ってきた事だ。二度と得られないかもしれないと怯えながら、それでも諦めずに追い求めたもの。
真麻は『時が来れば』と言っていた。だから今は少しでも、このCHARMに習熟しておかなければならない。
鹿子は食事すら忘れ、月が登りきるまでたった独りの訓練を続けた。
#3 ファンタズム
蒔絵から電話が掛かって来たのは、三日後の白昼。携帯電話のスピーカー越しでは耳障りな位のキンキン声が、鎌倉府郊外にヒュージ群が出現したことを知らせてきた。
『スクランブルダッシュだよ鹿子! すぐに迎えが行くから校門の前で待ってて!』
迷わず授業をサボタージュし、建物の外に出る。どうせ特待生である自分の授業は、座学を除けば殆ど『自主訓練』だ。
校門を出ると同時、赤錆だらけの軽トラックが鮮やかなドリフトターンを決めながら鹿子の目の前に停車した。
運転席からは、あのぶっきらぼうなリリィ……花霞が渾身のドヤ顔で、乗れ、とジェスチャーを示す。
「どこから突っ込んだらいいか判んないわ」
「細かいこと気にしたらキリがないぜ。あたいらはハミ出し者だし、手段は選んでられないってことよ」
助手席に座り、荒っぽい運転に揺さぶられながら、鹿子は花霞の横顔を見る。背中まで伸ばした癖っ毛(しかも染めている……)の間に除く彼女の瞳は、状況を楽しんでいる様に見えた。
「行き先は」
「西郊外の団地にヒュージの大群が出た。防衛隊とリリィどっちも対応してるが、数で負けてる。あたいらにゃうってつけの状況さ」
「どこの馬の骨かも知れない謎のリリィが戦場に紛れ込んでも誰も気に掛けちゃいられない状況、てことね」
「お、賢いねぇ!」
花霞はまた笑う。その笑い方を見て鹿子はなんとなく、いつか読んだ不良漫画に出てくる女ヤンキーのキャラクターを思い出した。
「なんか、悪い事するみたい」
「褒められる事じゃないのは確かさな。あたいらがヒュージと戦うのは、誰にも管理されてないんだから」
例えどれだけ強大な力を持つにしても、揺るぎ得ない前提として、自分達はまだ子供だ。
大人の指導無くして、命の危険を伴うヒュージとの戦いに赴くなど有り得ない。あってはならない。
それは、鹿子も理解している事だった。そしてその禁忌を、自らの意思で破っている事も。
「アンタも結構な悪ガキみたいね。いったい何やって落ちこぼれたの」
「おいおい、一応年上なんだぞ、あたい」
言われて反省する前に、はたと気付く。
「……っていうかアンタ、何年生?」
「S女子の二年だよ。サボりまくってるけどな」
「いや、十六か十七歳じゃん。運転免許取れなくない?」
花霞は答える代わりに、にんまりと邪悪な笑顔を浮かべた。
「……停めて、アタシ降りる」
「へへへ、もう遅いッ!」
青ざめる鹿子を尻目に、花霞はアクセルを一際強く踏み込んだ。
「無免許運転じゃないの! 降ろしなさいよ、犯罪者!」
「大丈夫、ぜってー捕まらないから!」
「ぜってー捕まる奴のセリフじゃん!」
などと車内で騒ぐこと十数分、本来ならば三十分は掛かる道程を走破し、軽トラックは目的地である団地に入る。
既に街並みの至る所から、黒や砂色の煙が上がっていた。人々が、右へ左へ逃げ惑っているのが見える。
「ヤバイな、避難誘導もまともにできてないのか」
「ヒュージの数と位置が把握しきれてないから、避難する方向を決めらんないのよ。現場の見通しが悪くて、ヒュージが複数で、ついでに仕切る人間が居ないか優柔不断だとこうなるわ」
「流石、中学からリリィやってるだけ……うぉっ」
花霞の言葉を遮る様に、建物の影から熱線が飛来した。花霞はかろうじて反応しハンドルを左に切る。
激しい閃光の明滅。そして、車体は激しく振動し、やがて動きを止めてしまう。
「……チッ、タイヤがやられた。降りるぞ」
「ずっと降りたいって言ってるじゃない」
「はいはい、悪かったよ!」
鹿子の皮肉を受けながら、花霞は荷台に固定された巨大なケースを開き、自らの大鉈の様なCHARM・ティルフィングT型を重そうに持ち上げる。
「早く起動させなさいよ、ヒュージと接触するまでいくらもないわよ」
通常、リリィはCHARMにマギを通わせて起動することで、自らの身体能力をも高め、本来ならば相当の重量があるCHARMを自在に扱える様になる。
だが、花霞はそうしない。この期に及んで鈍い動きでティルフィングを引きずるその仕草に、鹿子は自分自身の身上が重なり、はたと気づく。
「アンタまさか……でも、この前の戦いじゃ、確かに」
「……あたいも訳ありでね、お前と同じさ。大丈夫、自分の身は自分で守る」
花霞はどこからか、小口径の拳銃を取り出していた。殆どのヒュージに対しては、豆鉄砲も同然の兵器だ。
「何言ってんの。時間を稼げばいいなら、それ位はやるわよ」
鹿子はそれが当然の様に言い放った。花霞は驚く様に微かに目を見開いて……それから再び表情を引き締めて、言った。
「時間じゃない。一体目だ。とにかく最初の一体を倒せば、あとはどうにでもなる」
「よく解んないけど、分かった」
問答している時間が惜しい。鹿子は周囲を見渡す。
熱線の光につられた猿の様な姿のヒュージが、鹿子達に群がり始めていた。
集団の奥には、その熱線を放ったミドル級ヒュージ。これも猿に似ているが、二回り程大きい。
「最初の一つ……ね」
マギを発動させていないリリィの防御力は一般人と変わらず、脆弱を極める。その状態の花霞を背後に置いた以上、鹿子から仕掛ける事はできない。
目の前の猿ヒュージ共は、恐らくそれを悟っていた。あっという間に、鹿子と花霞の全周を取り囲む。
「賢いな、くそ」
花霞が拳銃の安全装置を外し、スライドを引いた。
弾倉内の弾を全て撃ち込んで漸く一体を倒せるかどうかという所だが、声色には怯えも焦りもなく、闘志だけがある。
「アタシが居るんだから余計なリスク増やすんじゃないわよ。アンタは一歩も動かないで」ここぞとばかり、煽る鹿子。
「かー、頼もしいね」
次の瞬間、周囲のヒュージ六体が相次いで、鹿子と花霞に飛びかかる。
『GYYYYYYYY!!』
鹿子も、動く。
最初の五体は、鹿子のレアスキル、ガードシェードが創り出した半球状の障壁によって弾き飛ばされた。
最後の一体がぶつかる直前、鹿子は障壁を解除し、レグルスでその顔面を殴り付けようとした。
だが、先んじたのは花霞だ。彼女は猿型ヒュージの喉元を掴むと、その顔面に銃口を押し付け、続けて三度発砲した。
「……やるじゃない」言葉とは裏腹、鹿子の声は不満気。
「こっちの台詞だよ」
ヒュージが力を失い、脱力する。その骸は淡く青白い光となって、花霞の腕に吸い込まれる様に、跡形も無く消えた。
そして……花霞は地面に突き刺していたティルフィングを、今度は片手で軽々と引き抜き、振りかざす。
「コレが、あたいの“事情”さ。レアスキルとしての名前は……“キルストリーク”」
「マギに……換えたの? 死んだヒュージを?」
「代わりにあたいは、自分でマギを生成することができない。ヒュージの死体が無けりゃ永遠にパンピーだ。やっとリリィになれるって入学した直後にこの力が発現して、早々欠陥品扱いされてな」
花霞は、皮肉っぽく笑う。鹿子は胸が締まる様な感覚に襲われた。
「……でも。アンタはもう、違うでしょ」
「ああ。もう違う」
再び、残りのヒュージが二人に襲いかかる。
互いの背後を狙った猿の怪物を、二人はそれぞれ迎え撃った。戦闘が、始まる。
まるでヒュージだ……と、CHARMを起動させた花霞の戦いを観て、鹿子はそう思った。
他に例えるならば猛獣だ。受ける傷など物ともせず、本能のまま敵が動かなくなるまで攻撃し、最後に喰らい尽くす。滅茶苦茶な動きでティルフィングを振り回すのと裏腹、動物的な直感だけが異様に研ぎ澄まされ、機と間合いを見誤ることはない。
花霞のレアスキルを考慮すれば、彼女は恐らくこれまでの日常で、リリィとしてはまともに訓練一つできなかった筈だ。
その少女が、その実力がこのレベルに達する為に、想像し得る手段はただの一つしか無い。その事実に、鹿子は背筋が寒くなる。
(実戦だけで力を付けたんだ……この人は。たった一つ間違えれば、即、死ぬ世界で!)
「ちったぁ見直したか、一年!?」
ヒュージの肉片を浴び、傷だらけになりながら花霞は高らかに叫んだ。
呆然としていた鹿子は我に返り、花霞に並び立つ。
「……はっ、危なっかしくて見てらんないンだけど」
「うっわ、可愛くねえ」
「ミドル級は任せたわ。側背面は、アタシが守ってあげる。アンタには、指一本触れさせない」
「へっ……」
鹿子と花霞は同時に駆け出し、ヒュージの大群に突っ込んだ。
◆
鹿子は宣言通り花霞の背を守り、彼女への攻撃の一切を防いでみせた。
一つ、また一つとヒュージを撃破していくその様を、黒い外套の少女……真麻はビルの屋上に立って、加勢するでもなくじっと見下ろしていた。
『もしもし、真麻ちん。こっちは、市民の人たちを誘導し終わったよ。みんな防衛隊と合流できたし、マキエも千鳥さんも怪我は無し!』
耳につけたイヤホンマイクから、甲高い声が聴こえて来た。蒔絵からの着信だ。
「そう、ヒュージの動きは?」
『んと、一番大きいグループが、大通りに。このまま、迎撃に来たレギオンとぶつかるね』
「Y女学院ね。この状況で九人だけ?」
『ううん、あと二個レギオン来るみたい。でも、もう少しかかるかなぁ』
「乱戦は必至。私達には好都合ね」
未だ戦場の全体像は見えないとは言え、ヒュージは団地全体に分散し、しかも相当な数がいるのは間違いない。
当面は思い切り暴れても誰も見咎めまい。
『……ええっとねぇ。真麻ちん…………んと……』
「なあに、蒔絵」
蒔絵が、通話の向こう側で何か良いたそうに口ごもる。
会話の間としてはかなり長い沈黙。
『あのねぇ……んー……』
蒔絵は言葉を選んでいるように、喋ろうとしては躊躇うのを繰り返す。
その蒔絵を、真麻は決して急かさない。
「蒔絵、焦らなくていいわ。解ることだけを教えて。貴女の、貴女だけの言葉で」
『……うん』
真麻が穏やかに促すと、蒔絵がまた、ほん数秒沈黙する。通話越しに、彼女が一度だけ、深く呼吸を刻んだのが判った。
『あと二〇分』
「そう。きっかり二〇分、ね?」
『うん』
真麻は、言葉の意味を問うことさえしなかった。
代わりに次の一手を決断する。
「千鳥と一緒に、こちらに合流して。予定通り暴れられるだけ暴れて、ヒュージ共の狙いを散らすわ」
『……りょーかいっ!』
最後の返事は、いつもの蒔絵だった。真麻も、ふっと安堵の吐息を零す。
それから、ビルの下で大乱闘を演じている鹿子と花霞を見下ろした。
なんとまあ、荒削りな二人だろうと苦笑する。死の危険と隣り合わせているのに、彼女たちは生き生きと、寧ろ輝かしいまでの獰猛さでヒュージに立ち向かっていく。
「貴女は幸運なのよ、ねぇ、真麻。こんなに素敵な巡り合わせを、また得られたのだから」
自分自身へ囁く声は、優しく、しかし寂しげで、掠れて、そして震えていた。一度目を閉じ、気持ちを落ち着ける……再び目を開いた時には、元の真麻だ。
真っ黒な鍔広帽子を深く被り直し、握り締めた戦槌型のCHARMの名はポラリス。
極北の名を冠した、自分の身の丈程もあるその大槌を、真麻は力強く振り上げ……空高く、跳躍した。
眼下の戦場では、鹿子と花霞の前に増援のヒュージが現れた所だ。瓦礫を掻き分けて、ミドル級が二体と、数えるのも面倒な有象無象のヒュージが何体か。
その集団の中心部を見据え、真麻は空中でポラリスを高く、高く振り被る。
「さぁ、始めるわよ」
瞬間、鎚頭の尾部に取り付けられた噴射口が、爆発音と共に巨大な推力を発し、真麻の体はCHARMごと一直線、地上へとダイブした。
◆
新手のヒュージ群が現れた事についてはさして驚かなかった鹿子だが、真麻が上空から殆ど垂直の軌道で降ってきたのには肝を抜かれた。
ミドル級ヒュージを着地の衝撃で消し飛ばし、土煙の中から姿を見せた真麻は、眉一つ動かさずに姿勢を直して、鹿子と花霞に視線を向ける。
「中々来ないから、こちらから加勢に来たわ」
「空飛ぶリリィって、新しいわね」
「ジェットハンマー型CHARM、名前は“ポラリス”。強そうでしょう?」
「武器だけじゃね。使い手の問題じゃない?」
不躾は、鹿子とて承知している。だが、簡単に認めるのも、まだ癪だ。
真麻は嫌な顔をするどころか、くすくすと笑う。
「なら、証明するわ。眼を離しちゃ駄目よ」
「おい鹿子ォ、ケンカ売る相手は選べよな」
花霞は、完全に鹿子をからかっている。
鹿子はニヤニヤしている花霞を一度だけ睨んで、真麻に並び立った。遅れを取りたくない。
「アタシ達の役割は」
「暴れて。思うがままに」
返事もせぬまま、鹿子は駆け出した。一拍遅れて真麻も、足を踏み出す。
ポラリスの放った轟音に誘われて、ヒュージは無尽蔵であるかの如く集まってきていた。
スモール級、ミドル級に混じって、今度はラージ級ヒュージまで現れている。
『GYYYY…………YYYYAAAA!!』
「させるか!」
猿を通り越して巨大なゴリラの様な顔面から放たれる熱線を、鹿子は障壁を展開して受けようとした。
だが衝突の瞬間、強烈な熱量の攻撃に障壁は押し負け、砕け散る。
「うぁっ!?」
ガードシェードによって展開される障壁は、使用の際に放出するマギの量によってその強度と大きさが決定される。
侮りから威力と強度を見誤ったのだ。障壁の破れる直前、鹿子は体軸をずらしたが、熱線は左の肩口を抉る様に焼いた。
発現したマギによって肉体が防護されていなければ、今頃は半身が黒焼きになっていた事だろう。
鹿子は思わずその場に倒れ込み、熱を逃がそうと転げ回った。
「おいおい」と、背後から花霞。
「くそッ。もう一回……」
立ち上がろうと、鹿子が足に力を入れようとした刹那だ。
ドォン、と爆音が鳴り響く。真麻がポラリスで推進し、鹿子の頭上を飛び越えていくのが見えた。
熱線を撃ち終わり、一瞬の隙を見せたラージ級ヒュージに肉薄し、顔面を殴打する。六、七メートルはあろうかという異形の巨体が弾丸ライナーで吹っ飛び、背後のビルを薙ぎ倒す。
「……マジ?」
「仕留めるには、まだ足りてないわ。でも、起き上がってくるには少し時間がある」
真麻の言葉の通り、吹き飛ばされたラージ級ヒュージは、さながら脳震盪を起こしたかの様に、立ち上がろうとしては蹌踉めいて膝をつくのを繰り返している。
「先に小さいのを減らすわよ。花霞」「合点」
絶句する鹿子を尻目に、真麻はポラリスをニ、三度、くるくると振り回す。その間、目にも留まらぬ手の動きで柄や鎚頭が折り畳まれ、丁字のシルエットだった戦槌は、あっという間に大砲の様な姿を取った。
CHARMの中でも第二世代と区分される型が持つ、シューティングモードへの変形機能である。一つのCHARMが射撃と近接攻撃の両機能を持つことで、戦局が流動的になりがちなヒュージ戦に置いての、柔軟な対応を実現する。
真麻はポラリスを腰だめに構え、同じようにティルフィングをシューティングモードへと変形させた花霞と共に、周囲のヒュージに対して一斉掃射を開始する。共に重火力のCHARMであり、連射速度こそ遅いものの、その破壊力はスモール級やミドル級の皮膚装甲を破砕するには十分過ぎた。
「何よっ、飛び道具使えるからって」
弾幕を潜って接近してくるヒュージから二人を守るのが、鹿子の役目だ。障壁を展開し、かつ篭手による突きで素早い迎撃が行える以上、適任は自分で……決して、遠距離攻撃ができないからではない。いや、たぶん。
「ひぃゃっはァーっ! いくらでも掛かって来やがれってんだ!」
既に有り余る程のマギを『吸収』した花霞は、ティルフィングを乱射しつつすっかりハイになっている。
一方、敵の動きを冷静に観ざるを得ない鹿子は、そうも行かない。
「キリが無い! 撃てば撃つほど集まってきて寧ろ増えてる!」
「だーいじょうぶ! 片っ端から倒しゃそのうち全滅するぜ!」
「もうっ! ちょっと黙ってなさいよ脳筋!」「ンだとぉ!?」
花霞の背を狙う猿型ヒュージに手刀を入れながら叫び、鹿子は真麻の方を見る。すると真麻も、こちらを見ていた。まるで、鹿子が自分を見るのを判っているかの様に。
「焦らないで。本当に、大丈夫よ」
真麻が言い終わらない内に、一迅の風が吹き抜ける。
気づいた時には、周囲のスモール級ヒュージが三体纏めて、首を撥ねられていた。
「お待たせ致しましたかしら」
千鳥だ。文字通り、目に留まらぬ太刀筋。でありながら、その佇まいは落ち着いていて、余分な力みが一切ない。
そのスピードは、使用者に超越的な加速をもたらすレアスキル……“縮地”による物だと、鹿子は辛うじて検討をつける。
「始まったばかりよ」
真麻が、千鳥に答える。
「良かった。蒔絵さんが案内してくれて、助かりました」
千鳥が背後を見やると、蒔絵が駆け寄ってくるのが見えた。頭にはヘッドフォンを着けて、背中には馬鹿でかいリュックサックからぬいぐるみが頭を出しているが、一応その手には手斧型のCHARM“グングニル”カービンタイプが握られている。
「アンタ、何よその荷物……」
「コレ? リリィ七ツ道具だよ!」
鹿子が呆れ顔で質問すると、蒔絵は爛々と輝く表情でこの回答。いかなる内容をもって七ツ道具なのかは、この際訊くまい。
茶番の間にも、五人は互いの背中をカバーし合うように隊列を組み、自分達を取り囲むヒュージ達に相対している。
「これで敵味方の戦力はイーブン。やるわよ」
四方八方を塞がれながら、真麻は事も無げに言い放つ。
「では、私が先鋒を」
ヒュージの戦列が動くより先に、千鳥が切り込んだ。再び、スモール級ヒュージの首が跳ぶ。
(速い!)
それが初見ではないにも関わらず、鹿子は再び感嘆する。
千鳥の手にする曲刀型CHARMは、鹿子のレグルスと同じ第一世代型で、シューティングモードへの変形機能を有していない。
だが恐らく彼女にとって、そんなものは不要なのだ。正眼構えから、縮地による加速と一体化した攻撃を終えれば、最初と全く同じ構えに戻る。
殺気を途切らせる事無く次の攻撃の機を伺う、その様はまさに残心。
「……負けてらんない」
もとより自分より強い人間を観ると対抗心が芽生える質である。
鹿子は千鳥の後に続いて敵に切り込み、更に残る三人も後に続く。
障壁でヒュージの反撃を防ぎつつ鹿子が前線を押し上げると、一歩後から花霞が続き、あの獣の様な戦い振りで蹂躙する。
更に続いてくる蒔絵の動きは独特な……率直に言えば、ド素人のそれだ。
「どけ、どけ、どけぇーい!」
とグングニルカービンを滅茶苦茶にぶん回し、あっちに行ったりこっちに来たり。鹿子にとってみれば、危なっかしい上に足並みを揃えづらくて仕方がない。
だが、それでいて時折、妙に鋭い立ち回りを見せる。後方にいるヒュージに背を向けたまま射撃したり、敵が攻撃する前に距離を取って空振りを誘ったり。
リリィの中にはこういう戦いができる者が稀に…いや、割とよくいるが、まさかね、と鹿子は自分の考えを否定した。
『その』資質を持っているとしたら、余りにも蒔絵の戦い方は雑過ぎる。
(……と、味方よりも敵に集中しないと)
スモール級ヒュージの殆どは既に殲滅されていたが、残ったミドル級に加えて真麻が吹き飛ばしたラージ級ヒュージが今、再び鹿子達の前に立ち塞がっていた。
鹿子は仲間の四人を守る為、再び最前列に出てラージ級ヒュージの攻撃を引きつけようとする。
だが、その時。
「鹿子ッ! 止まって!」
叫んだのは蒔絵だ。鹿子は前につんのめるようにして、自分の体を急停止させた。
「何よ、急に……」
振り返ろうとした矢先、鹿子の鼻先のほんの数センチ先を、白刃が横切った。
細く長いその刃は、鹿子の右側にあった建物の壁を貫き、突き出ていた。さくり、という軽妙な音が、逆にその鋭さを物語る。鹿子が立ち止まらなければ、今頃は串刺しになっていた事だろう。
「……な」
建物の陰から、刃の主にふさわしい巨大なシルエットが覗く。
十メートルどころではない。ビルの上から頭を覗かせ、それは五人のリリィを見下ろしていた。
「ギガント……!」
ギガント級。ラージ級の更に上級、CHARMを用いたリリィでさえ、統制された集団戦術を用いなければ撃破不能とされる強力なヒュージである。
強いて言えばカマキリの様な、両手から長い刃を伸ばしたそのギガント級は、鹿子を襲ったのとは反対の刃を既に高々と振り上げていた。
ビルごと鹿子を二つに切り裂くつもりだ。気づいたときには、刃が眼前に迫っていた。
「やば……」
障壁が間に合わない。躱すにしても間に合うか。全身に悪寒が走る。
瞬間、一際巨大な爆音が響いた。流星のごとく飛翔したのは真麻。
ギガント級の刃を目掛け、横からポラリスを振るう。大槌と白刃は鹿子の眼の前で衝突し、衝撃から爆風が吹き荒れた。
「……!」
ギガント級の片腕とも言える白刃は粉々に砕け、割れたガラスの様に周囲に飛散した。
打ち勝ったのは……真麻のポラリスだ。
「真麻!」
空中で姿勢を崩した真麻が、頭から落下してくる。咄嗟に鹿子は跳躍し、真麻を抱きとめた。
「鹿子、バリア!」
再び、蒔絵が叫んだ。言われて咄嗟、鹿子は障壁を展開し、ギガント級の残ったもう片腕の刃による斬撃を弾いた。
膨大なエネルギーの負荷に、障壁は火花の様にマギの断片を飛び散らせて軋み、鹿子は顔を歪める。
「くぅぅぅっ……! 真麻、怪我は……っ!」
腕の中の真麻を見て、鹿子はハッと気づく。彼女は肩で呼吸し、ぐったりと力を失っている上に、CHARMまで起動状態が解除されていた。
「ちょっと、どうしたのよ……どこやられたの?」
「大丈夫……私は……大丈夫だから……今は……」
真麻は、息を切らしながら、やっとでその言葉を紡ぐ。それから一拍置いて、もう一言。
「今は……退いて。状況が、変わったわ……」
「うそ……マキエは、二〇分って。あと、一〇分も……」
どういう訳か、蒔絵まで愕然としている。その表情からはいつもの明るさが抜け落ちて、この世の終わりの様な絶望が浮かんでいた。
「オイ蒔絵、ボケっとすんな! どのみちギガントが来たら退くつもりだったんだ、ズラかるぞ!」
花霞が蒔絵の首根っこを掴み、ヒュージから遠ざかる様にして当初来た道を引き返そうとする。
ただ一人、千鳥はそれまでと全く同じ平静な仕草で、動けなくなった真麻の代わりにポラリスを拾い上げた。
「わたくしが退路を拓きます。鹿子さん、真麻さんをお願いしますね」
この状況だからこそ平静なのかもしれない。そう思いつつ、鹿子もぐったりしている真麻を抱えると、駆け出す。
当然、眼前のヒュージ達が獲物を簡単に逃がす訳はなく、鹿子達にの背を追い掛けてくる。
「しつけーな、クソ!」
最後尾の花霞はシューティングモードへ変形したティルフィングを振り返り様に撃つが、スモール級ならいざしらず、ギガント級ともなれば生半可な射撃が効く相手ではない。
ギガント級を討伐できる手段はリリィであれどごく限られる。そして、今の鹿子達はその手段を持ち得ないのだ。
「くっ……」
一瞬、鹿子の脳裏に、自分が殿になれば、という考えが浮かぶ。ガードシェードを最大限のマギで発動すれば、道を塞ぐ程の巨大な障壁も展開することができる。
だが、同時に過去の記憶がフラッシュバックする。障壁が粉々に砕け、悲鳴が響き渡り……あの後、何が起こった? 同じ事を、繰り返すのか?
(怖気づいてんじゃないわよ。私は、復活した……何も恐れる物は無い、何も恐れちゃ、いけないのに!)
フルボリュームで危険信号を鳴らす第六感を捻じ伏せて、鹿子は深く息を吸った。
たった一言でいい。『先に行け』と、四人に伝えるのだ。
「貴方達、そこで何してるの!?」
その時、ビルの上から、透き通った声が響いた。
見上げると、九つの人影。こちらを見下す彼女たちは、例外なくCHARMを手にしている。
「ウチん所の……」
鹿子が呟くと同時に、九人の……リリィは、それぞれのCHARMをシューティングモードへと変形させ、鹿子達を追うヒュージ群に一斉射撃を浴びせた。
豪雷の如く光弾が降り注ぎ、ギガント級でさえ、一時その足を止める。
「今の内に!」
リリィ達の先頭に立っていた少女が叫びながらビルから飛び降りる。残る八人も続き、鹿子達とヒュージの間に割って入った。
リーダー格であろう先頭のリリィと、鹿子の目が合った。会話したことは無いが、知っている顔だ。
「お疲れ様。後は任せて!」
僅かな屈託さえなく……清々しい笑顔で、そのリリィは言った。
鹿子達は頷き、戦場を後にする。リリィとヒュージ、双方の叫び声、それから爆音が遠ざかっていく。
だが、彼女達は恐らく勝つだろう。自分達と違って……
真麻を抱えて退却する鹿子の脳裏には、あのリリィの澄んだ笑顔が、強烈に焼き付いていた。
◆
拠点である廃工場への帰路には、真麻と千鳥、蒔絵が使っていたというバンを使った。唯一運転免許を持っている真麻が動けなかったので、再び花霞の無免許運転だったが。
「まさかもう一台クルマ寄越してるとはね。何台あるのよ?」
「流石に、この一台で最後ですわ。蒔絵さんが廃車を直してくださったんですよ」
「アンタ、なんでもできんのね……」
千鳥の言葉を聞いて、鹿子は蒔絵を見やる。
蒔絵は何か考え込む様な顔をして黙っていたが、話を振られたと気づくと、パッと笑顔を作った。
「……え? まぁ天才マキエは機械ならなんでもござれだからね! ピッキングとかハッキングとかもできるチートステータスだよ」
「頼むからこれ以上法律は破らないでよ。知らないかもしれないから一応教えとくけど、ソレ警察に捕まるわよ」
「へへ、それは状況次第かな。キンキューヒナンてヤツがあるからね」
冗談で返せるあたり、とりあえず大丈夫か……と、鹿子は安堵した。本来言っておくべき言葉を紡ぐには、少しだけ勇気が足りない。
そういう自分に弱さを見出すと、鹿子は自己嫌悪に溜息を吐き、更にそれを誤魔化すように周りの景色に視線をやった。
「真麻さんのこと、心配せずとも大丈夫ですよ」
「え?」
千鳥がポツリと言ったので、思わず鹿子は彼女の顔を見やった。袖の長い矢絣袴と、後ろで一つに結んだ栗色の長髪がぱたぱたと、窓から入る風になびいているのが妙に印象的だった。
「真麻さんのあれは、彼女のレアスキルの副作用です……つまり、“フェイズトランセンデンス”」
それは、ごく短時間だけ使用者に無限の魔力を供給し、爆発的な戦闘能力を与えるレアスキルである。その代償として、効果が切れた後に使用者は脱力し、短時間のあいだ行動不能にまで陥ってしまう。
「……知ってる。同じ能力を使える子を、Y女学院でも見たことあるわ」
「彼女が今動けないのは単純な消耗故。きちんと休めば、回復しますわ」
鹿子とて、そうだろうと検討はついていた。だが、真麻が動けなくなった瞬間に思わず浮かべた戸惑いの表情を、しっかり見られていたのだろう。軽率だった。
「でも、フェイズトランセンデンスは切り札の代名詞じゃない。本当なら、大物を仕留める為に取って置くつもりだったんでしょ? 私をギガントから守るためにじゃなくて……」
「いいえ」
また千鳥は、はっきりと、しかし柔らかい語調で否定する。
「今の私達では、ギガント級を倒せませんもの」
ギガント級ヒュージは、それ以下のヒュージとは性質からして違う。同じリリィからの攻撃を受け続けると、そのリリィが放つマギの波長に対しごく短い時間で耐性を取得し、ダメージを無効化してしまうのだ。
それに克するには、八人ないし九人の小隊……レギオンを編成し、その全員のマギを相乗させた特殊な攻撃を行わなければならない。
Y女学院ならば“ノインベルト”と呼ばれる戦術がそれであり、その構成に九人のリリィを必須とする性質が、同ガーデンにあってレギオンの人数が九人と定められる由来でもある。
「でも、できる事はありますわ。現に今日、私達は多数のヒュージを引きつけてその進撃を遅滞させ、Y女学院のリリィ達による各個撃破を導いた。そうでしょう?」
「そう、かな」
「そうですとも。あのレギオンはまず、別所に集結したヒュージ群の分隊を撃破してから私達の所へ駆けつけたのです。ねぇ、蒔絵さん」
千鳥に尋ねられると、蒔絵は笑いながら頷き、自身の頭に着けたヘッドフォンを指差した。七つ道具の一つは、たぶんその手の無線受信機か何かなのだろう。筒抜け、という訳だ。
「何よりも……あそこで私達が闘ったことで、市民の誰か一人でも逃げおおせる時間を稼いだとしたら。私達のやったことには、きっと意味があります」
千鳥の言葉に、鹿子は再びあの、自分を助けたレギオンのリーダーであろう少女の顔を思い出した。
期待の一年生と噂される、人気者の子だ。実力は突出していないが、誰とでも交友を結べる人柄で、優秀なメンバーを纏める要になっている……と、噂で聞いた。
自分とは違う。鹿子が持たない、持てない物を持っている。そして……恐らくは、その差は埋まる事がない。きっと。
それでも……それでも、自分達が彼女達と同じ様に闘う事、そこに意味があるのなら。
「…………そうね。それなら、良かった、って……私も想うわ」
鹿子は、レグルスを嵌めたままの拳を握りしめ、また開くのを、何度か繰り返した。
◆
それから何故こんなことになったのか。鹿子にはイマイチ納得がいかない。
「ウヒョー! おっふろ、おっふろー!」
「ちょっ、蒔絵! ベタベタ触んな!」
「んへへへへ、良いではないか良いではないか。女の子二人でお風呂に入ったらお約束じゃないー? 不肖、葉木マキエ、お背中お流し致しますッ!」
「背中どころか前まで触ってんじゃない、離れろ変態ッ!」
「んっん~、流石中学時代からの古参リリィ、健康的な肉付きで……へぷっ」
シャワーで顔面に湯を被せてやった所で、漸く蒔絵が背中から離れた。
思い返せば、廃工場に帰ってまず体の手入れをするという所で、時間節約の為に二人ずつ風呂に入ろうと誰かが言い出したのが発端である。
蒔絵が一番に入ると手を挙げて、他の誰もが鹿子に譲ると口を揃えた結果がコレだ。
こういうことかよ! と、鹿子は年長の三人を恨めしむ。
「ガキじゃないんだし、そういうお約束もいらない……ていうかそんなお約束ないでしょ。折角お風呂あるんだからゆっくり入りなさいよ!」
「ちぇー」
そも、廃工場なのに二人同時に入れるサイズの風呂場があるというのが驚きポイントである。なんとなく、この蒔絵が一枚噛んでいる気してならないが。
その後も蒔絵はチラッチラッと構ってオーラ全開の視線を送って来たが、鹿子は渾身の無視を決め込み、どうにか湯船に浸かるに至った。
「……今日のこと。ありがとね」
「え?」
一息ついて沈黙が固まってしまう前に、思い切って鹿子は口を開いた。こういう事で、まごついて何度も機を逃すのは格好良くない……まぁ、蒔絵のじゃれつきを回避する為でもあるけれど。
「助けてくれたじゃない。『鹿子、止まって』って」
「あー……あれはねぇ、えぇっとねぇ」
蒔絵は照れた様な寂しそうな、複雑な表情で口ごもった。
「“ファンタズム”でしょ。違う?」
「んー? へへ、アタリぃ」
「やっぱりね。あんたの戦い方、それっぽかったし」
ファンタズム……それは未来を予測し、求める結果を得る為の最適な行動を導き出す、云わば予知能力を化現させるレアスキル。さらにその結果はテレパスによって、周囲の仲間へ瞬時に伝達ができる為、数あるレアスキルの中でも最も羨まれ、また持て囃される力でもある。
……本来ならば、だが。
「でもねぇ、マキエのファンタズムはねぇ、ちょっと不完全なんだって。テレパスもできないし、『観えて』もビミョーに当たんない時があるんだ」
湯船に漬けたタオルで風船を作りながら、マキエは微かに声のトーンを落とした。
「最初の頃はさ、みんなすごいすごいって言ってくれたんだけど……」
「ま、周囲の身勝手な期待ってそんなもんよね。アタシも似たような感じだし」
我ながらビミョーな慰めかと、言葉にしてから鹿子は自責した。蒔絵が、小さく俯く。
「今日だって、ギガント級が来るまで二〇分あるって『観えた』けど、実際は一〇分で来ちゃった。それで、鹿子と真麻が……」
「でも……その後でアンタは、同じ力でアタシを助けた。アンタがアタシを止めてなかったら……十中八九、死んでたわよ」
「えへへ。でもね、マキエはファンタズム使うよりも、機械弄る方が好きなんだ。CHARMとか、一回カタチにしたものはもう変わりようがなくて、絶対に皆の力になれるから」
そう語るマキエの瞳は、強いというよりは儚く見えた。
まるで、寂しくないと言い張る留守番中の子供……そんな、感じに。
「……なんか、ごめん。触れて欲しくなかった?」
鹿子がそう問うと……蒔絵は、ほんのすこし考え込んで、それから屈託の無い笑顔を浮かべた。
「ううん。むしろ聞いて欲しかったよ。うれしい」
「そ、そう……なら、良かったわ」
余りの素直さに、鹿子は照れ臭くて思わず目を背ける。
いつもの笑顔に戻った蒔絵が、その肩をツンと突っついた。
「じゃあ。一つ助けたから、これで貸し一つだね、鹿子」
「そうね……一つ、借りておくわ」
◆
……少しのぼせた。
自省しつつ風呂から上がると、代わりに千鳥と花霞が風呂に入っていく。
蒔絵は五人のCHARMを点検すると言って、ろくたま髪も乾かさずに自分の作業スペースに向かってしまった。
リビングに改装されたガレージでは、真麻が一人机に座り、蒔絵が設置したのであろう無線機を弄っていた。
「ついさっき、状況が完全に収束したみたいよ」
鹿子に気づいた真麻が言った。あの戦場の、自分達が去った後の事を言っているのだろう。無線機の隣にあるノートパソコンには、ヒュージ被害に関する速報サイトが表示されている。
「ニュースサイトでも、通信上でも、私達の事は触れられて無いわ。最後に助けてくれたあのレギオンが、どういう報告を上げたかまでは分からないけれどね」
「同じガーデンのアタシが顔を見られたのはマズかったかもね。悪い意味でちょっとだけ有名だから」
「もし大事になったら……そういう不安がある?」
「全然。そん時ゃそん時で、どーにかするわよ」
本心から来る言葉だ。今更半端にビクつく位なら、最初からこんな事はしていない。こんな、馬鹿げた事は。
「それよりもさ、アンタにもお礼言わなきゃね」
「何の話かしら」
真麻が、微かに首を傾げた。
「蒔絵にお礼を言ったのよ、お風呂の中で」
「あら、すてき。裸の付き合いね」
「茶化さないでよ……ギガント級に奇襲された時、アンタにも助けられてるから……その、ありがとうって……あーもう、全然締まらないじゃない」
出会った時に啖呵を切っただけに、真麻に対しては素直になり辛い。
鹿子の心境を知ってか知らずか真麻は、にこりと笑った。
「お礼を言うのは私の方よ、鹿子。知っての通り、フェイズトランセンデンスを使った私はカカシ同然……だからこそ、貴女の力を頼りにしたかった。貴女に期待したから、私は自分のレアスキルを使う事ができた。そして貴女は、それに、応えてくれた」
「解ってる。自分の役割も、アンタがアタシに何を求めているかも。でも、こういうのはお互い様よ。だから、アタシも、アンタに感謝するの……上っ面だけなんかじゃくてさ、心から」
「……真面目なのね。思っていたよりも、ずっと」
「ちょっと、やめてよ、そういうの……」
真麻の態度は終始落ち着き払っていて、鹿子はどうにも、自分と同じ年頃の少女と話している気にはならなかった。
いかにリリィであるとはいえ同じ女子高生である事には変わらない筈なのに、この余裕の差はどうだ……感心と、僅かな劣等感。
沈黙が生じてその感情を悟られるのではないかと思い、鹿子はふと気になった事を、そのまま質問にした。
「……アンタはさ、なんでこんな事してるの」
「わざわざ、はみだしリリィを集めてヒュージと戦ってる事? 最初に自分の証明の為、と伝えたけれど……それじゃ、不満?」
「それは、アタシ達共通の目的でしょ。そうじゃなくて、アンタ自身のよ。花霞とか蒔絵は、判り易かったわ。アタシと一緒で、でっかいワクの中じゃ上手くやれないってカンジ。でも、アンタや千鳥……さんは、あんまりそうは見えないからさ」
「そうかしら? 私が周囲から浮く方っていうのは、当たってるわよ」
「まぁ……だと思ったけど。でも、だからって訳じゃないんでしょ。アンタは何か……別の目的がありそう。違う?」
「……」
言葉を選ぶかの様に、真麻はゆっくりと瞳を伏せ、沈黙した。
踏み込みすぎたかなと鹿子が思い始めた辺りで、真麻は、憂いを宿した表情で、口を開く。
「今は……言葉にはできない。無理にでも、言葉にすれば……きっと、永遠に伝わらなくなってしまう」
絞り出す様な言葉。それは真麻が初めて見せる、年頃相応の脆さだった。
「ごめんなさい。こんなのは、貴女の期待する言葉ではないわね」
「気にしないでいいわよ……興味本位で訊く方が、誠実じゃなかったかも」
鹿子の言葉に、真麻の表情があの穏やかさを取り戻す。
「これじゃあ、お姉様って認めてもらえないわね?」
「アンタが強いのなんて、もう解った。でも、まだこんなもんじゃないでしょ。アタシがグウの音も出ない位、強いとこ見せてみなさいよ」
鹿子という少女にとっては、それが精一杯の優しさだった。伝われと祈りながら、力いっぱい叩きつける、とても不器用な。
真麻は、鹿子の回答に……ふっ、と吹き出し、またあの余裕有りげな笑みを取り戻す。
「なら、今度は……本気を出さなくっちゃあね」
#4 ハマーウィッチ
それから一週間は、真麻からも、蒔絵からも音沙汰が無かった。鹿子は『燃えカス』の特待生を演じながら、夜中に寮を抜け出してはレグルスの扱いを訓練する、そんな日々を送っていた。
だが、その日は少し様子が違い、朝からガーデン中が妙にざわついた空気に包まれていた。緊急のヒュージ対処でもないのに、幾つかのレギオンが招集され、どこかへ出ていく準備をしていくのを見かけて、鹿子は食堂へ行こうとしていた足を止めた。
近場に行くには携行品が多い。ヒュージに対する迎撃で、遠征用のキャリーバッグは持っていかないだろう。
「あ……おはようございます」
ふと、近くにいた同級生と目があった。リリィオタクのリリィとして、ちょっとした有名人の生徒だ……鹿子自身はあまり話したことが無いが、人当たりの良さそうな物腰が微かに印象付いている。
この子がわざわざ見に来たって事はそれなりの状況か……と、鹿子は同級生の表情を伺う。
「なんか、慌ただしいわね」
「そうですねー、東北で大規模なヒュージの侵攻があったそうです。それで、ウチのガーデンからも増援のレギオンを派遣するらしくて」
「東北……」そのキーワードに、鹿子の表情が険しくなる。
「あっ……そうか、首里さんは」
「まぁ、ね。貴女はやっぱり知ってるんだ」
「はい……」
「“紅坂”なの?」
気遣いをさせぬ様、努めて穏やかな声色で鹿子は問いかけていた。それでも彼女は、少し居心地悪そうに頷いている。
気まずい沈黙が流れかけたので、鹿子ははたと、気になっていた事を訪ねてみることにした。この子なら、知っているかもしれない。
「貴女さ、濱真麻って名前、聞いたことある?」
「え……」
元々丸っこい瞳が、更に真ん丸に見開く。寧ろ、対峙している鹿子の方が驚く反応だった。
「何か知ってるの」
「ええと……」
明らかに、言葉を選んでいる。鹿子はできるだけ冷静に言葉の続きを待とうとしたが……
「首里さん。ちょっと、いいですか」
会話は、背後から呼び掛ける別の声に中断された。
振り返ると、そこには自分の担任教官が立っていた。担任と言っても形式的なものだが、それでもリリィとして前線での戦いを経験している全うな教官だ。
「お話があります。こちらへ」
教官の表情は険しい。鹿子は同級生との会話を打ち切り、促されるまま彼女について行った。
◆
「これを」
ガーデンの屋上まで出てから、教官は一枚の写真を渡してきた。
鹿子、それに真麻達四人の写真……先日の戦闘でヒュージと戦っている所を撮ったものだ。リリィか一般人かは知らないが、誰かの目に留まったのだろう。
わぉ。と、鹿子は心の中で呟く。写真には鹿子がCHARMを纏う拳を振り下ろし、ヒュージを叩き潰す姿が映画のワンシーンの様に劇的に、鮮明に映し出されていた。
「聞きたい事が沢山あります」「でしょうね」
鹿子はちらと教官の顔色を見たが、やはり険しい。そりゃそうだ、リリィとしての力を事実上喪失していた筈の生徒が、元気よくヒュージと戦っているのだから。それも、ガーデンの掌握外で、所属も判らない不明のリリィ達と共に。
「できれば貴女から事情を説明して貰いたいと思っています、首里さん。この写真のせいで場合によっては、貴女の立場が不利になる可能性もありますから」
鹿子がリリィとして戦える事を偽って、Y女学院に特待生となって入学している……などという可能性も見ているのだろう。
それは不自然な発想で無いにせよ、鹿子は落胆を禁じ得ない。自分がいまここに居るのは、“燃えカス”であるから故のお情けなのか。運命のあの日、あの時まで、命を燃やした自分の能力を見てではなかったのか。
「貰ったのよ。これなら、アタシにも起動できる」
鹿子は、何時もショルダーバッグに入れているレグルスを教官に見せた。彼女の表情が曇る。あの、真麻の名を聴いた同級生と同じ顔。
「……誰から」
問われ、鹿子は写真に映る真麻を指差す。今度は教官の顔が青ざめた。
「貴女は……何をしようとしているのですか? まさか、罪滅ぼしとでも……」
「どういう事? 言ってる意味がよく判んないんですけど」
「なら、どうして……!」
どうにも、話が噛み合っていない。
真麻が一体何だというのか。鹿子は、それさえ知らないのだ。
ただ、それでも確かな事は一つだけ有る。
「アタシは真麻の事はよく知らないし、今は知る気も無い。でも、あの人はアタシが必要だと言った。『燃えカス』のアタシでも使える唯一のCHARMを寄越してね。これでいい?」
「いいえ。貴女は明らかに事情を理解していません。一度、教官室でじっくり話をしましょう」
「いいわよ。アタシも、あの人のこと知りたいし」
その時はその時でどーにかする……と、真麻には言っていたものの、いざ大事になってしまった今、はてどう切り抜けるか。
そんな事を考えながら、鹿子と教官が場所を変えようとした時だ。
鹿子の携帯電話が鳴った。取り出して発信相手を確認すると……“マーサ”と書かれている。
鹿子は黙したまま、教官にその画面を見せた。彼女は頷き、電話に出るよう促す。
『ごきげんよう』真麻の声だ。
「ちょうどアンタが話題に上がってた所よ」
『あら、誰とのお喋り?』
「ウチのセンセー」
『そう。良い噂だといいけれど』
「まさかそれ、本気で期待してないわよね」
『少し位はいいんじゃない?』
「図太すぎでしょ」
電話越しの真麻の声は飄々としていて、感情を読み取れない。想像するに、大して慌ててはいまい。
「で、何の用よ」
『大きな戦いがあるの。とても大きな戦いが。死ぬかもしれないけど、一緒に来てくれる?』
今度の週末、着飾って街へ遊びに行こうよ……そんな誘いでもするかの様な口調で、真麻は言葉を紡いだ。
鹿子は、答えを迷わない。
「行く。でも、アタシいまからカンヅメ食らいそうなんだけど」
『私達との繋がりが知れたのであれば、そうでしょうね。いいわ、少し待ってて』
どういう事かを尋ねる前に、電話は切れた。
険しい表情の教官と、視線が合う。
「どこに行くつもりですか」
「戦いに」
「まさか、私が行かせるとでも……ううん、判っていて、貴女はそう言うのね。そういう子だった。かつて戦っていた、首里鹿子というリリィは」
「アンタにアタシの何が解るッてのよ」
「私に解るのは一つだけ。今の貴女があの場所に戻れば、死ぬわよ。確実に」
「何も解ってないじゃない!」
いつのまにか握ったCHARMを起動したのは、二人同時だった。即座に睨み合いと、間合いの取り合いが始まる。
頭に血を登らせながらも、鹿子は状況を正しく理解していた。
屋上の出入り口を塞ぎ、有利を取ったのは教官だ。その立場にあるからには、実力も当然彼女のほうが上。真っ向からカチ合えば、万に一つの望みも無く捻じ伏せられる事だろう。
だが。真麻は『待て』と言った。そして、今ならばその言葉に伏せられた意味を、なんとなく読み解ける気がした。鹿子は、それに賭けている。
ドォン。遠くで小さな爆音が聞こえた。瞬間、鹿子は一歩を踏み出す。
教官は手にしたCHARM、アステリオンを瞬時に射撃モードに切り替え、鹿子の進路を塞ぐように光弾を撃ち込む。容赦無し。
鹿子は、相手の思惑の通りである事を承知の上で、光弾をレグルスで叩き落とす。
案の定、教官は鹿子に生じた隙を突くべく、アステリオンを近接モードに戻した上で距離を詰めてきた。
「上等ッ……!」
鹿子は腹を括った。留めるべき足を更に一歩前に踏み出し、教官の剣戟を真正面から食らいに行く。
「なっ……!」
衝撃が来る直前、鹿子はガードシェードによる障壁で身を守ったが、それでも指の先から肩口までが持って行かれたかと思うほどの激痛が走る。
衝突に力負けした鹿子の小柄な体は、蹴られたボールの様な山なりの起動で、大きく吹き飛ばされた。
「首里さんっ!」
想定外の結果に、教官が驚愕の声を上げた。このままでは鹿子は、屋上のフェンスを超えて校庭に落下してしまう。
だが、それこそ、鹿子の思惑だ。
ドォン。再び爆音が響き、遥か彼方から飛来したのは真麻。
ポラリスの噴射機構を空中で巧みに操作しながら、真麻は鹿子を華麗に抱きとめ、そのまま再び彼方へと飛び去っていく。
……後には、屋上で呆然と佇む教官だけが取り残された。
◆
「正直、何回も乗りたいモンじゃないわね」
Y女学院の屋上から遠く離れた広場に降り立って、鹿子は大きくため息をついた。翼もついていない機械の推力だけでこの距離を飛翔したのは驚愕以外の何物でもないが、乗り心地については最悪の一言だ。
「慣れれば大したこと無いわ。誰でも最初は驚くけれど」
と、真麻は肩を竦める。
本来は推進機構のついた大槌……ジェットハンマーの形状であるポラリスは、槌頭がお辞儀する様に九〇度回転し、柄に対して並行に推力が噴射される様な形状に変形している。
真麻は器用にもこれに、横向きに腰を下ろす様に乗り、更には驚くべき事に鹿子を抱えたまま空を飛んでいた。
「飛行機能をもったCHARMなんて、初めて見たわ」
「飛行じゃなくて、飛翔よ。それに、仕様上想定された機能じゃないの。近接モードから射撃モードに移行する中間の形態が、たまたまそう使えるって、気づいたのよ」
「何かのアニメでそんなのあったわよね。ん……そういえば、“ハマーウィッチ”って」
「……え?」
不意に脳裏に浮かんだ単語を、鹿子は呟いていた。真麻が、微かに驚いたような素振りを見せた。
「ハマーウィッチ。なんか、どっかで聞いた事がある気がするのよ、そういう通り名のリリィを……アンタのこと?」
「……」
「ちょっと、真麻?」
真麻は、何度か瞼を瞬かせながら、しかし沈黙した。
そこにどんな思惑があったのか、鹿子には、判らない。
やがて、小さく息を吸い込んでから、真麻は鹿子の問への答えを紡ぐ。
「ええ、そうよ……ハマーウィッチ。私は、かつてそう呼ばれていた。貴女は、ちゃんと覚えて……ううん、知っていてくれたのね、鹿子」
「…………それ、重要なことなの?」
「私にとっては」
真麻の瞳は、微かに潤んでいる気がした。尋ねたい事がいくつも、鹿子の頭に浮かんでくる。
「でもね、鹿子。私はずるくて胡散臭い女だから……今は、話を逸らさせて。一番大切な話を、先にしましょう」
「そういう物言いができる図太さにビックリするってんのよ。まぁ、良いけどね。いつか話してくれるんなら」
「ありがとう。それに、ごめんなさいね」
「ちゃんと話してよ?」
「ええ。いつか、必ず」
それで、その話題は途切れてしまった。
だが、鹿子は本当にそれで良いと思っている。彼女と自分の、目的が合致してさえいるのなら。
「貴女は、私達と共に来てくれる。死ぬかもしれない戦場へ。それは、間違いない?」
「当然、イエスよ。細かい説明はいらない。“紅坂”なんでしょ」
鹿子の視線を正面から受け止め、真麻は頷く。
「友人から手紙が届いたの。戦況はもう絶望的……けれど、信じる未来の為に一人でも多くのリリィの力が欲しい、と」
「行くわ。アタシに断る理由はない」
『くれないざか』……そこに行く事の意味を、完璧に理解しているにも関わらず、鹿子は即答した。
鹿子は運命を信じていない。だが真麻との出会いと彼女の誘いに、偶然を否定して意味を見出す事を、気の迷いとは思えなかった。
この為に、自分は諦めなかったのだ。この為に、自分はもう一度戦う事を選び、今、ここにいるのだ、と。
「じゃあ行きましょう、鹿子。戦場へ。あの、紅坂へ」
真麻はそっと、鹿子の指先に触れ、手を取った。
鹿子は……その手を、力いっぱいに、彼女の手が潰れるかという程に、強く、強く、握り返した。
#5 紅坂
紅坂……と呼ばれる場所が、最初からそういう地名だった訳ではない。
東北某県の、某山間部から市街地に掛けて南北に連なる一帯。そこは、何年も前から、苛烈なヒュージの攻撃に晒され続けた日本有数の危険地帯だった。
連なる嶺の何処かから這い出たヒュージ群は、まるで整然とした戦略を持っているかの様に、人類の防衛拠点とその補給線を寸断しながらゆっくりと南進した。倒しても、倒しても、何度、何匹殺そうと、奴らは尽きること無く湧いて出た。一説には、ヒュージを生産する最上級ヒュージ、アルトラ級の潜伏もその可能性を論じられているが、確証には至っていない。
だが確かなのは、このヒュージ群の南進を許せば、いずれは関東圏の防御もが危ぶむという事。リリィを擁する東北地方の各ガーデン、そして防衛隊は徹底抗戦を決意し、ここに血みどろの防戦が始まった。
一人、また一人とリリィが倒れていく中、地元のガーデンは独自の戦術と気風を核として成長を遂げ、また関東からも無数のレギオンが増援として派遣されることで、防衛線は一進一退し、かろうじて守られ続けてきた。
そうした年月を重ね、血と炎に染まった戦場……紅坂の呼び名には、そういう意味がある。
つまるところ、首里鹿子が紅坂で倒れた事は、不幸な事故でも何でも無く、当然として起こる損耗の一端に過ぎなかったのだ。
その日の戦いは、紅坂の日常の中でも際立って苛烈ではあった。一帯を守る防衛拠点として唯一つ残った避難所を守るのは、当時中学生だった鹿子を含む十八人、二個レギオン。対するヒュージ群は、リリィ達の十倍以上という状況にあった。
当事者の鹿子でさえ……混迷を極めたその戦いの、始終を記憶している訳ではない。
……
「鹿子、もうやめて、鹿子ッ!」
背後から、仲間の声が聞こえる。
鹿子は、聴く耳を持たず、自分が展開しているガードシェードの障壁に意識を集中した。
「もう無理だよ、一度後退しよう! このままじゃ皆死んじゃう!」
やかましい! と心中で叫んだが、声にする余裕は無かった。
既に前と左右の三方は、ヒュージに埋め尽くされていた。背後には仲間達や、負傷した所を助けた名も知らぬリリィ達が、守るべき民間人達と共にいる。
動けるリリィはたったの数人。その場に踏みとどまれているのは、鹿子の持つガードシェードの力があったからに他ならない。
退けない理由はいくつもあった。これだけの人数で、負傷者と非戦闘員を護衛しながら移動するなど不可能だ。そして、鹿子達が後退すれば、眼前のヒュージ達はすぐ後方にある民間人の避難所へと雪崩込む。
じゃあ、ここで粘って援軍に期待するか?
バカじゃないの、と鹿子は自分自身を叱咤する。一番起こって欲しくない事が、一番起こって欲しくない時に起こるのが、ここの日常だ。自分の持ち場を離れる余裕があり、まして無事なレギオンが都合よく居るとは思えない。
「鹿子……っ」
鹿子の肩を抱き、その横顔を覗き込んだ友人が絶句した。
焦燥も絶望も無い。そこに浮かぶのは、ヒュージに対する剥き出しの敵意と、殺意。
「押し返すわよ。片っ端から叩き潰してやる」
ごく真剣に、そう言い放った。その希望が妄執であれ蛮勇であれ、無様に敵に背を向け為す術もなく全滅するよりは幾らかいい。首里鹿子とは、そういう娘だった。
「……わかった。貴女に賭けようか」
仲間達も、腹を括った様だった。全国各地から派遣されたリリィ達で臨時に編成されたレギオンとは言え、多かれ少なかれ気心の知れた仲間だ。
今や彼女達は鹿子に苦笑し、しかし共に覚悟を決めてくれる。だからこそ鹿子は一時の間、自分の心に巣食う恐怖を忘れ、最も危険な隊列の先頭に立つ事ができる。
「来るよ!」
ヒュージ達が一斉に熱線を放ち、鹿子達の視界に光が溢れる。鹿子は自らに内包するマギの全てを解き放ち、ガードシェードを展開した。
「こんのぉぉぉぉぉッ、止まれぇぇぇぇぇぇぇッ!」
ガードシェードの障壁は、強力だが無敵の盾では無い。
障壁は攻撃を防ぐ度に使用者のマギを燃やし、その作用が大きい程に身体的な負担をも……特に痛みを、代償としてもたらす。
百に届くかという数の熱線を一度に受け止めた鹿子は、気を失いそうな程の激痛に見舞われながら、なんとか意識を保ち、障壁を維持して見せた。
(これさえ防げば、反撃の糸口が開ける……皆が、攻撃できる!)
手にしたCHARM“ダインスレイフ”が負荷に耐えられず、その刀身に亀裂を生じさせた。だが、鹿子にはどうする事もできない。
(堪えろ! あと少し、少しだけでいい……!)
既に全身の感覚は無くなり、気力だけが障壁を維持していた。
鹿子は絶対に諦めない。その行動を支えるのは、絶対に勝ち、皆で生きて帰るという意志の力。それは、時として絶望を覆し、希望を創り出す、最大最強にもなり得る力だった。
……だが、それは、今日この時の事ではない。
次の瞬間、ダインスレイフはパキンという軽薄な音を上げ、硝子のように砕け散った。
「あ……」
一番起こって欲しくない事は、一番起こって欲しくない時に起きる……思い知った時にはもう、遅い。
マギの供給が絶たれた障壁が、無情にも霧散する。
そして光は、鹿子達へと降り注ぎ…………
……
回想はそこで途切れる。
揺れるマイクロバスの中で、自分の顔をまじまじと覗き込んでくる蒔絵と目があった。
「大丈夫? 鹿子、すっごい顔してたよ」
「大丈夫よ」
「本当? お腹痛いとかじゃない?」
「本当だって。ちょっと、昔を思い出しただけ」
「あ……そっか……」
会話が途切れると、鹿子は再び窓の外を見やった。
近づいてくるのは、今や防衛隊の駐屯地となった小学校だった。
そしてここが、この一帯における人類の最終防衛ライン、その中心拠点でもある。
「ひでぇな」
花霞が、目の前の光景に釘付けになりながら呟いた。
校庭にびっしり並ぶ土塗れのテント、行き交う担架、立哨は頭に包帯を巻いていて……ド素人でも、戦況が良いとは判断すまい。
「わたくしも以前に来た事がありますが、更に悪くなっています。一年前に比べて、最前線は二十キロも南に押し込まれたとか」
「よく二十キロで済んだ、って思うわよ……」
千鳥の言葉に、鹿子は静かに呟く。あの日から、鹿子は一日も欠かさずにこの地の戦闘報道をチェックしてきた。数多のリリィが鹿子の様に、時には鹿子以上に凄惨な形で斃れ、一方で残されたリリィ達は誰もが獅子奮迅たる戦いぶりを見せている。
「根拠地でこれだ。最前線はもっと凄いんだろうな」
と、花霞。蒔絵の方は花霞の背中から顔を出すような形で車窓の外を見つめ、溜息をついている。
「……鹿子、こんな所で戦ってたんだ」
ちらり、と鹿子の表情を伺う。当の鹿子は、あえて蒔絵と目は合わせなかった。
「そうね。毎日戦ってた」
「いつから?」
「中二の五月から」
「まぁ、そんなにお早く」千鳥が、横から感嘆を挟んだ。
「アタシ、優秀だったから」
「へいへい」
ひらひらと手を振るのは花霞。鹿子は、特に気にしない。
「アタシには……」
徐に、鹿子は呟いた。それで千鳥も、蒔絵も、花霞も、鹿子の表情を伺う。
「アタシには未練がある。ここでやった失敗を、取り返したい。それで初めて、この一年間に決着がつくと思ってる。でも……あなた達はどうなの」
「どうって、どういう意味さ」
花霞が、うっすらと笑いながら問い返した。
「ここがどれだけ酷い戦場か、貴女達がちゃんと解ってるって仮定して……どうしてこんな場所まで、真麻に付き合うのかってこと」
問われた三人は、互いに顔を見合わた。
千鳥が、微かに姿勢を正して、口を開く。
「付き合っている、というのは、少しばかり語弊が御座いますね」
「それって……」
そこで、車が停車した。目の前には、駐屯地の中でも一際大きなテントがある。
運転席の真麻が振り返った。
「到着したわ。お話中、悪いけれどね」
戦線の後方に位置するにも関わらず、確かにそこは戦場であった。
とっくに日は沈んでいたが、目の前を車両や人間、時に担架が目まぐるしく行き交い、怒号が飛ぶ。一つのレギオンが駐屯地から出撃して行ったほんの数分後には、別のレギオンが傷だらけで帰ってくる、そんな有様だ。
鹿子にとっては見慣れた光景だ。横目で仲間達をちらりと見たが、真麻は勿論の事、千鳥も、花霞も、蒔絵も、平然とその光景を受け入れている。
(今更だったかな)
もう一度、真麻を見た。鹿子と目が合うと、真麻はその心を見透かしたかの様にニコリと笑い、目の前の大きなテントに入っていく。鹿子は半ば慌てて、真麻の後ろに付いて行った。
「ヘッドクォーターだ! パソコンにも通信機器にもすっごいお金掛かってる」
蒔絵が小声ではしゃぐ。
テントの中では無線通信の送受機に、そのオペレーターや指揮官を含むであろう防衛隊の隊員達、そして何人かのリリィが慌ただしくやりとりを交わしていた。
状況が逼迫しているのか、鹿子達を見ても、彼らは余り気に留める様子がない……ただ、一人を除いては。
立ち尽くして真麻達を見つめたのは、リリィと思しき少女だった。制服ではない戦闘服を着ている様から、おそらくは学生ではない。ガーデンを巣立ち、真に己の全てをヒュージとの戦いに捧げる……一人前のリリィ、という訳だ。
それは何も服装だけではなく、高めの背丈と、少女と女性の過渡期にある大人びた顔立ちにもよく表れている。真麻の様に、しかし真麻以上に長い前髪で隠された瞳……それが今、困惑と驚愕に染まっているのが、はっきりとその態度で伝わってくる。
「真麻……」
「久しぶりね? 欄堂さん」
欄堂、と呼ばれ、そのリリィは表情を歪ませた。
二、三度言葉を発するのを躊躇い、それから漸く真麻に詰め寄る。
「また……来てしまったのね。どうして」
「光月よ。彼女が、便りを」
「そんな……」
「引き裂かれた双子星の、遺る片割れが落ちようとしている。私達が賭けた未来の、最後の欠片が砕かれようとしている。私が戻ってくるには不十分な理由かしら」
「そういう問題じゃないわ。そんな夢は、もう終わったのよ……今は貴女だけが、醒めない悪夢に囚われてる」
「悪夢? これは現実よ、欄堂さん……そして私は、一人じゃない」
そう言うと真麻は、背後に控える四人の少女を振り返る。欄堂は、青ざめた表情で肩を震わせる。
「正気だと、貴女はそう言うのね。何もかもが失われた、今この時にあっても、まだ」
「私は、私達は為すべき事を為しに来たの……自らの意思でね。それは、いまこの地で戦うリリィ達と何ら変わらないわ」
「でも! ……それでも。今の私には認められない。解るでしょう、真麻? 私はもう、貴女の……いえ、双子星のリリィではないの」
「あー、二人の世界を邪魔して悪ィんだけどさ」
と、割って入ったのは花霞だった。
「外野にも解るように話してくれよ。置いてけぼりだぜ、あたいら」
茶化す様な笑みを浮かべながら、花霞は書類が散らばる長机の上に、行儀悪く腰を下ろした。欄堂のみならず、いつの間にか周囲の防衛隊員達も眉をひそめ、花霞を睨んでいる。
「……話す必要は無いわ。貴女達に参戦を許可することも無い」
「許可ぁ?」
欄堂の回答を、花霞は鼻で笑った。
「勘違いしないでくれよ。許可なんて貰わなくたって、あたいらは勝手に行って勝手に戦うんだ。んでも、あたいらにヒュージのコト一つでも教えてくれりゃ、盾なり囮なりに使えるだろ? 自分の意志でここまで来たあたいらが、わざわざ面倒くせー小言を覚悟でここに顔を出したのはそういう理由……つまりよぅ、善意だぜ、善意」
「ちょっと、花霞」「黙ってな」
窘めるように口を挟んだ鹿子を、しかし花霞は制する。
鹿子はムッとしながらも、いつになく鋭い花霞の言葉に、腕組みして黙った。
欄堂は……絶望とも失望とも取れる、重い吐息を漏らす。
「貴女達も、真麻と同じ気持ちなの?」
「ここで戦いたいって意味ならな」
「ダメよ。貴女達が、どんな立場なのかを考えれば、とても承認できないわ」
「どういう立場って言うのさ」
「私が知らないとでも思うの? Y女学院から連絡があったわよ。技量未熟のリリィ達が、ガーデンの掌握外で行動しているって」
あちゃぁ、という内心は口に出さぬまま、鹿子は宙を仰いだ。
「はっ、言ってくれるぜ! 由緒正しい、おガーデンの名札がついてなきゃぁ用なしってかい。音に聞こえた紅坂のリリィも、結局は上っ面だけ見てるって訳だ!」
花霞は声を荒げ、自分が座っている机を拳骨で叩いた。
「真麻、コイツらァ駄目だ。負けが込みすぎて目が腐ってやがる」
周囲の防衛隊員達はとうとうどよめき、殺気立つが、欄堂は手を挙げて、それを制した。
同じように真麻も、花霞の拳に、そっと自分の手を添える。
「真麻……それが、貴女達の意思なの。これが……こんなのが……」
「そう。彼女の言葉は、私達の総意よ。それは決して、揺らがない」
「……残念よ……真麻、本当に。私達は……」
「これほどまで離れてしまった。そうね、私も悲しいわ、欄堂さん」
「こんな言葉は、口にしたくはなかった。でも、本当にもう。終わったのよ。今の葉玄女学園にはもう、何も残っては居ないの。貴女が解っていない訳はないでしょう、真麻?」
「ええ。だからこそ、私の魂が痛むのよ。貴女が私の、私達の世界から離れていった、この移ろいに」
それから真麻はくるり踵を返し、テントを出て行ってしまう。
「……え、終わり? 何だったのよ、ちょっ、真麻!」
慌てて鹿子が真麻を追い掛けると、花霞、千鳥、蒔絵と続いてその場を去る。
欄堂はその背を見送ると……唇を千切れそうなほど強く噛み締め、やがて目の前の状況へと、意識を戻した。
「どういうことなの?」
テントを出て開口一番、鹿子は真麻の顔を除き込み、尋ねた。真麻は、微かに瞳を揺らした……様に見えた。
「彼女と私は同じガーデンのリリィだったのよ。その学舎は、もう無くなってしまったけれど」
「そうじゃなくて……って、それはそれで大事なことだけど……私が訊いたのは結局これからどうすんのかって事よ」
真麻は鹿子の顔を見つめて、ふっと息を漏らす。
「な、なによ」
「気づかなかったのか? まだまだだな、一年生」
と、鹿子の肩をつついたのは花霞。にやにやと笑いながら、傍らに居る千鳥を指差した。
「これを蒔絵さんからお預かりして居りまして……」
と、千鳥は小さなメモリーカードを差しだし、蒔絵に手渡す。蒔絵はビシッと敬礼を決め、
「はい、コンピューターに挿すだけで目当てのデータァーを回収できるマキエ印の怪しいプログラァームが仕込まれております!」
「あの場で花霞さんが注目を集めて下さいましたので、楽に事を為せましたわ」
したり顔の仲間達に対して、鹿子はあんぐり口を開けた。
「……お行儀のいいお友達だこと」
「協力が得られないのは、悲しいけれど予想も覚悟もしていた。だから、せめてビーコンの受信コードだけは得ておきたかったのよ」と、真麻。
「ビーコン?」
「そう。この地に私達を呼んだリリィ……鍔木光月の、救援要請」
真麻の傍らで、蒔絵がメモリーカードを挿し込んだタブレット端末を、凄まじい手捌きで操作する。
「へい、お待ち」
差し出されたタブレットの画面には、紅坂一帯の地図が描き出された。
「この図は学校……ガーデンでしょうか?」千鳥が、地図を見て呟く。
「葉玄女学園。かつて紅坂の双子星と呼ばれた、二つのガーデンの片割れよ……そして、持ち主のCHARMと連動したビーコンは、今この時点においては、やはりまだ生きている」
「蒼芭と葉玄……」
そこまで聞けば、鹿子にも見当がついた。
双子星の蒼芭女子高等学校と葉玄女学園……それは、首都圏から遠く離れた、地方出身のリリィ達を養成する目的で設立された二つのガーデン。
そこに名門と呼ばれる程の歴史はなく、また綺羅星の様に輝く優駿ばかりが集った訳でもない。それでも、紅坂で戦ったリリィ達が二校の名を語り草とするのは、かつてはこの両校こそが紅坂防衛線の中核となって戦い、その維持に殉じたからだ。
文字通りの、意味で。
「やっと合点が行ったわ。アンタ……蒼芭女子の」
鹿子は、フードと前髪に隠された、真麻の瞳を見つめた。真麻もまた、揺らめく瞳で、鹿子を見つめ返す。
「双子星のガーデンは今、同じ末路を辿ろうとしている。周辺地域は全てヒュージの手に堕ち、ガーデンを守り通す戦略上の意義は失われた。司令部は葉玄女学園の放棄を決め、リリィ達には撤退を指示したけれど……」
「葉玄女学園は、それを拒んだ。アンタのガーデン……蒼芭女子高等学校が、一年前にそうした様に……」
鹿子の言葉に、真麻は、ゆっくりと頷く。
それは云わば、『意地』だ。
狂信的なまでの結束と愛校心……それが、紅坂に育ったリリィ達を、今日まで戦わしめた。例えそれが過ちだとしても、学舎を捨てて撤退などはしない、いや、できないのだ。
その頑なさこそを強さとして、彼女たちはこの地を守ってきたのだから。
「ガーデンがあって、レギオンがあって、同じ時を過ごす仲間がいた……それを失うのは、耐え難く魂が痛むのよ。彼女たちが撤退せずにビーコンを発したのは、助けを請うたのではなく、寧ろ諦めず最後まで戦い、あくまで勝って未来を得るのだという意思表示。せめて……その気持ちに、想いに、触れてあげたいの」
そこまで言ってから、真麻は出会ってから初めて不安げな表情を浮かべて、四人の仲間を見つめた。
「それが、アンタの『理由』?」鹿子が問う。
「単純にそうとは言い切れない。でも、そうね、確かな動機の一部」
一拍、間を置いてから、真麻は続ける。
「感傷的かしら」
「いいんじゃない。アタシ達全員、理に適う理由ではここに来てないんでしょ」
鹿子の言葉通り、異を唱えるものは一人も居ない。
「……証明してやるのよ、『まだ終わってない』って。『まだ、やれるんだ』って」
絞り出すように言葉を紡ぐと、真麻が頷き、やがて、花霞も、千鳥も、蒔絵も続く。
「険しい道のりになるわね」
そう言って、自分達が乗ってきた車へと向かう真麻。
その背を見て、鹿子はふと何かを見落としている様な感覚を抱く。
欄堂は、葉玄女学園には何も残っていないと言っていた。真麻なら、その意味が判るとも。
強烈な違和感、しかし消化することはできない。
疑問は追いやろうとしても鹿子の心中から消え去る事は無く、そのまま煙の様に燻り続けた。
#6 ガンスリンガー
ボクが、もっと強かったなら。
月明かりに照らされる怒涛の如き怪物の群れを前に、葉玄女学園のリリィ、初辻蜜葉はそれだけを想った。
(あなたは、生きて。どうか、笑顔で)
頭の中に木霊する、友の最期の言葉。
九人のレギオンのうち、生き残ったのはただ二人……そこから互いの背を守って、およそ半日の激戦を闘い抜いた。
今や半身とさえ呼べる存在となった最愛の友人は、しかし最後の最後で蜜葉を庇い、致命傷を負ってしまった。
握りしめた手は残酷に冷たく、固くなり、白く濁っていく瞳と、言葉を紡げぬ唇の動きが『行け』という意思を伝えた。
そこからは無我夢中で走り、戦い、斃し続けた。ただ一人、何も分からぬままに。
「八恵……ボクは……ボクはもう……」
少年とも見紛う凛と整った顔は、今や涙に濡れてくしゃくしゃに歪んでいた。
だが、お構いなしに密葉は両の手に一丁ずつの拳銃……愛用のCHARMを構える。
生き延びる為に……それが彼女の友、佐倉八恵の、最後の望みだったから。
『GIIIYAAAA!!』
ヒュージ達が、勝鬨とも言うべき咆哮を上げた。耳障りな音が共鳴によって大気を震わせ、密葉の体を直接叩く。
しかし密葉が恐れる事は無かった。たった独りになろうとも、紅坂は葉玄女学園のリリィである。
恐れるべきは死ではなく、志が潰える事。最後の最後まであがいて、例え敗れるとしてもその瞬間まで闘志を捨てなかったならば、それは誇るべき事だ。
即ち、不屈……それが、密葉の学舎である、葉玄女学園の唯一絶対の校訓だった。
『GYYYYYYYYY!!』
たった一人残った獲物を狩るべく、ヒュージ達は密葉を囲む様に移動し、急速に包囲を狭めてきた。
対する密葉は、両手の拳銃型CHARMを瞬時に発砲する。連続して放たれたマギの光弾は、八体連なって突撃してきたヒュージ達の、頭だけを正確に撃ち抜いて肉塊へと変えた。
「……っ!」
再び、発砲。後ろから迫っていたヒュージを、視線さえ向けずに仕留める。もう片方の銃で、上方から跳躍してくる別のヒュージを撃ち落とす。
密葉の持つCHARMである“トリグラフ”は、本来は合体分離機構によって遠近両距離に対応する、第三世代型だ。
だが、蜜葉はその分離させた片側のみを、敢えて二丁同時に取り扱う戦闘スタイルを取る。
全ては、画一的な威力と反応速度を求めたが故。二つのCHARMを同時に起動するレアスキル、“円環の御手(サークリットブレス)”による二丁拳銃で、正確かつ圧倒的な火力を実現する射撃役……それが、密葉の本来の役割だった。
「……ふっ、うぐ……八恵……ッ!」
闘いながら、蜜葉は泣いていた。嗚咽を堪える事すらなく、向かい来るヒュージ達を迎え撃つ。視界は涙で霞みながらも、限界を超えて昂った感覚がそれを補った。
光弾は嵐の如く、屍の山を築く。
だが……
「八恵……ボクは、もう……笑えないよ……!」
生死を共にした仲間は皆去り、今や密葉ただ一人が、不屈の信条をその身に背負い続けている。
その現実が、なんと魂を痛めつけることか。そして密葉は今、ともすれば絶望に屈してしまいそうな自らの影が這い寄るこの時間を、ただ一人で耐えている。
『GISYAAAAAA!』
「…………ッ!」
雑念が弾幕に穴を生じ、その隙をついてヒュージが密葉に襲いかかる。左の上腕が抉られ、激痛が走る。
不覚……左腕の感覚が重く鈍った。正確な速射を身上として闘う密葉にとっては、致命的だ。
「まだだ……まだ、ボクは……」
密葉は残る右手のCHARMを、眼前のヒュージに向けた。
数えることもできないヒュージの群れが、前後左右を取り囲んだ。
致命的な配置。それでも、密葉は葉玄の掲げる不屈の信条を、守り通した。
これが最期だ。次で終わる。だが、断じて諦めはしない。
蜜葉は、なんとか笑顔を作ろうと試みる……だが、徒労に終わった。
今の彼女はあまりにも孤独で……
『GYYYYYYYYY!!』
動いたと、そう思った、瞬間だ。
「お疲れさん。運が良いわよ、アンタ」
頭上から……そう、頭上から蜜葉の眼前に降り立ったのは、一人の少女。彼女は即座に、超常の力で周囲に光の障壁を創り出し、ヒュージ達の突撃を阻む。
「……リリィ?」
「そ。通り掛かったから助けてあげる。あー、もう一人、乱暴なのが来るから気をつけて」
言われて密葉は、空を見上げた。月の輝く夜空を裂いて、人影が落ちて……いや、降りてくる。
着地、次いで、巨大な爆音。密葉達のすぐ前方に砂柱が上がり、衝撃波でヒュージ達が木っ端の如く吹き飛ばされる。
烈風に混じって瓦礫が飛来するが、光の障壁はその主と、密葉とを守った。
「ちょっと真麻、巻き込むつもりじゃないでしょうね」
障壁を展開していたリリィが、爆風の中心へ向かって叫んだ。土煙の向こうから、鍔広帽子を被って大槌を携えた少女が現れる。
「貴女はきっと平気でしょう。鹿子?」
「ちょっとでも反応が遅れたら挽肉よ。こちとら、空中から地面に向けて放り投げられてんだから」
「あら、乱暴な子も居たものね」
しゃぁしゃぁと微笑むその少女……一目で蜜葉は理解した。
真っ黒の外套に、長い前髪、何よりも巨大な鉄槌のCHARM“ポラリス”は、無二の一品物。
密葉達、葉玄女学園のリリィにとってさえ、ある種の象徴的な存在だった彼女は……盟友・蒼芭女子の……
「ハマーウィッチ……濱、真麻さん」
「ごきげんよう、双子星は葉玄の同胞よ。助けに来たわ……我が友、鍔木光月の言霊が揺さぶった、この魂の求むままに」
真麻がスカートの端をつまみ上げて恭しく一礼すると、続いて新たに三人のリリィが、ヒュージを蹴散らして現れる。
「間に合ったな。あたいの言った通りだろ」と、大鉈の様なCHARMを携えた長髪のリリィが言う。
「いやいや、マキエの立てた作戦勝ちですな、これは」と、大きなリュックサックを背負った、おさげのリリィ。
「ええと、結果的に囲まれてしまった気がするのですが、これは作戦勝ちと言えるのでしょうか……」
最後に現れた矢袴のリリィは、目にも留まらぬ疾さで密葉の背後に周り、彼女を狙っていたヒュージを真っ二つに斬った。
なんともちぐはぐなリリィ達だ、と蜜葉は思った。着ている服はバラバラだし――そもそも制服ですら無い者さえいて――、CHARMも、戦い方も、蜜葉の記憶するどのガーデンの戦い方にも当て嵌まらない。
それでも。
「キミ達は……きみ、たち、はっ」
それでも、来てくれたのだ。
見捨てられた筈の戦いに、彼女達は。
「泣くのはあと。アタシの知ってる葉玄のリリィなら、それくらいはできるわよ」
最初に降りてきた小柄なリリィが、密葉の肩を叩いた。
「アンタ、名前は」
「密葉。初辻密葉……葉玄女学園の、二年生」
「そう。アタシは……」
「知ってるよ」
「え?」
密葉の言葉に、そのリリィは、微かに眼を見開いた。
あるのは微かな記憶。それでも、かつて戦場で見たその姿を、密葉は確かに覚えていた。そして彼女が、一度は戦場を去った理由も。
「首里鹿子。戻ってきたんだね……この、紅坂に」
「……お陰様でね」
鹿子は、淡々と応えた。
溢れかけた涙は、いつの間にか止まっていた。何故かはよく解らない。
闘うしか無いというごく当然の事実を、魂が受け入れたのだろうか。それとも……
「まずはここを切り抜けるのが先。密葉、アンタ怪我してるみたいだけど、まだ戦える?」
密葉は問に答える代わりに、鹿子の背後に迫る小型ヒュージ四体を、きっちり片腕のみの四連射で仕留めた。
「割と元気そうね」
「お陰様でね」
密葉は……笑った。
鹿子も、笑う。それから篭手型のCHARMを嵌めたまま、こきこきと指の節を鳴らした。
その足が踏み出されると同時に、蜜葉もCHARMの引金を引いた。
◆
……流石は葉玄のリリィね。
蜜葉の闘う姿を観て、鹿子は安心にも似た感嘆を抱く。
蒔絵の様なファンタズムの予知を交えたソレとは違う、しかし超人的な反射神経と正確さ。蜜葉の攻撃は視界に入った標的の急所を躊躇わず、また過たず撃ち抜く、機械の様に精密なキルショットだ。
いや……あるいは、それ以上。光弾の貫通は勿論の事、時に跳弾さえも計算し、密葉は一度の射撃で複数のヒュージを、当たり前の様に攻撃している。
何よりも恐るべきは、彼女が片腕を怪我しながら、残る片手の拳銃型CHARM一丁でそれを成立させている事だ。生半可な技量では無い。
「すっごい! ガンスリンガーだね」
蜜葉と背中合わせに立った蒔絵も、ダインスレイフカービンをシューティングモードに設定し、手当たり次第に撃ちまくる。死角を排した二人は弾幕を形成し、周囲を取り巻く有象無象のヒュージを次々と倒していった。
「ビリー・ザ・キッド的な?」
「そんな大層なものじゃないよ」
喋りながら、三度の発砲で五体のスモール級を仕留める。
「見えてる物を撃つだけ」
「じゃあ、マキエとおんなじだ」
マキエが放った光弾が、眼前のミドル級ヒュージを倒し、後に残ったのはラージ級と、取り巻きのミドル級が二体のみ。
倒されたミドル級ヒュージの巨体が地に伏せる前に、飛び出した花霞が片手で掴み、グイと持ち上げた。
「頂きだッ!」
ヒュージの体が光の粒子となり、花霞の内部へと『吸収』される。花霞は変換された大量のマギを直ぐ様ティルフィングへと充填し、射撃モードへと移行した。
「オーバーチャージ……行っけぇぇェェェェェェェェ!」
最早。光線とも呼べる程に巨大化したエネルギーの奔流が、ヒュージ達を襲う……かに見えた直前、ラージ級ヒュージが熱線を放つ。熱線は花霞の射撃と相殺し、塵芥の様に霧散してしまう。
「あぁ~? マジかよ」と呆れる花霞に、
「狙いが雑なのよ、アンタ。無駄撃ち」と鹿子。
「ンだとォ。お前はあのデカブツ倒せんのかよ」
「生憎、アタシの役割は……せっ!」
ヒュージの放つ熱線の次波を、鹿子はガードシェードを展開し、真っ向から防ぐ。
「千鳥さん!」
その名を呼ぶ前に、千鳥は動いている。圧倒的な加速からの跳躍でラージ級の頭上に迫り、隙だらけの顔面を横一文字に切り裂いた。
『GYUAAAAAAAA!!』
怪物は、天を仰いで絶叫する。
最後にとどめを刺すのは、真麻の役目だ。
千鳥が動くと同時に空高く飛翔していた真麻が、ヒュージの巨大な頭部めがけて急降下する。
位置エネルギーに加えて、噴射機構による加速を得た鉄槌ポラリスは異形の巨体を、文字通り跡形も無く爆散させた。
「なんて、威力……」
伝聞でしか知らなかったその力を目の当たりにして、蜜葉は目を丸くして立ち尽くす。
鹿子もまた、思わずその光景に足を止めざるを得なかった。フェイズトランセンデンス無しでこれだけの力が出せるなら……アイツの、真麻の本気は……
(アイツ、笑ってる……?)
深く被った鍔広帽子と長い前髪のせいで、遠目に映った光景が正しいかどうかは確かめようもない。
それから周囲のヒュージ達は、潮が引くかのように逃走を始める。
鹿子達は追わず、その場に留まった。そんな余裕は無いし、何よりも手負いの蜜葉が居る。
「引き際が良すぎるわね。アタシ達にビビった訳でもなさそうだけど」
レグルスにこびり付いたヒュージの欠片を摘んで捨てながら、鹿子は眉を顰めた。
「ま、なんかあるんだろうな。詮索したって、奴らの頭の中なんてあたいらにゃ判りっこないさね」
戦場に転がったヒュージの死体を片端から自分のマギに変換しながら、花霞が言った。
「……アンタは」
鹿子は蜜葉に声を掛けようとした瞬間、彼女の体はくらりと崩れ落ちた。
すかさず抱きとめ、地面に倒れ込むのを避ける。
「憔悴してるわね……当たり前か」
「……ごめん。少し、気が緩んだみたいだ」
掠れた声で、蜜葉が言った。少年の様に凛々しく整った顔立ちだが、それでもよくよくみれば、年相応の少女のそれだ。まして彼女は今、無数の傷をその身にも……心にも、受けている。
「休んでいいわよ……今はアタシ達が、いるから」
鹿子がそう言うと、蜜葉は目を閉じ、静かに泣き始めた。
……それからどれくらいの時間が経ったか、蜜葉が落ち着いたのを見計らって、鹿子達は彼女に手当を施した。蒔絵が慣れた手つきで応急処置を進めるのを見て、鹿子は意外というよりは心強く思った。
「ありがとう。本当に」
か細く呟く蜜葉の目は、真っ赤に腫れていた。しかし今なお、瞳の奥には煌々とした輝きが宿る。レギオンの仲間を全て失い、たった一人で戦った後なのに、だ。
それこそが、葉玄女学園の掲げる『不屈』の信念の賜物なのだろう。鹿子はその姿に……憧憬と、胸の痛むような感情を覚えた。
「私達は葉玄に行く。アンタは」
「葉玄女学園は……まだ、健在なんだね?」
蜜葉の問いに、蒔絵が例のタブレットを差し出し、言う。
「防衛隊が受信した救難ビーコン。発信者は……鍔木光月さんって」
「光月さんが……」
「面識ある?」鹿子が、問う。
「葉玄で一番のアーセナルだよ。今は、ガーデンに残って校舎を守ってるはずだ。それに……」
アーセナルとは、リリィとは別にCHARMの製造や整備を行う専門職の総称だ。だが、中にはリリィと同じように、ヒュージとの戦いに赴く者もいる。
密葉に見つめられ、真麻は手にしたポラリスと、それから鹿子のレグルスを順に見つめ……それから、小さく頷く。
「私達に葉玄の状況を知らせたのは、光月よ。彼女が……私を呼んだの。『叶うなら、もう一度会いたい』と」
「それで……貴女は、たった、それだけでっ……」
密葉は、声を詰まらせた。真麻は、答える。
「貴女だって、そうするでしょう? だって私達は双子星、葉玄と蒼芭のリリィだもの」
「だって……葉玄は、葉玄は、もう……それなのに……!」
再び肩を震わせる蜜葉。
ふと、鹿子は胸のざわつく様な、あの奇妙な違和感を思い出す。
まただ。このざわめきの、正体が解らない。自分は……こんな事を消化できない程子供ではない筈だ。
微かな不安を振り払い、口を開く。
「密葉……」
「答えは……最初から決まってる。ボクも行くよ、学び舎へ戻る」
密葉は、間髪入れず答えた。迷い無く、淀み無く。
「折角拾った命を捨てることになるかもよ」
「やるべきことがまだある。今、戦わなかったら、生き延びたって一生後悔するよ……だから、行く。ボクは、最後まで葉玄のリリィだから」
然して、その場の全員が、蜜葉の決断を受け入れる。
「心強いわ、蜜葉。案内を、頼める?」
真麻が問うと、蜜葉は頷いた。
「地上はもうヒュージの制圧下だ……今から葉玄女学園に近づくなら……地下鉄の線路を使うしか無いかな」
「地下鉄? 初耳だぜ」
花霞が、取り出した地図をにらみつける。
「あー、確かに線路は通ってるけどよ。コレ、駅はガーデンからかなり離れてないか?」
「地図の上ではね。でも、実際には緊急用の地下連絡通路がガーデンと駅を繋いでる」
「ヒュージが巣食っている可能性は?」
と、千鳥が問う。
「もちろん、ある。でも……」
「地上で四方八方囲まれる中を突破するよりは、なんぼかマシって事ね」
蜜葉を遮って鹿子が呟き、腕組みした。
「いいんじゃない? もとから楽に辿り着けるなんて思わないし」
鹿子が真麻に視線を送る。誰がリーダーと決めた訳ではないが、それでも近い立場にあるのは彼女だ。
真麻は、言葉を返しさえしなかった。ただ、いつもの様に仄暗く穏やかに笑って見せる。
それで十分だった。新たに蜜葉を加えた六人は、再び葉玄女学園へと足を踏み出した。
#7 アルファギガント
「嫌な予感はしてたんだぜぇ……今更だけどよ」
逆さまになった視界で辺りを見渡しながら、といっても何も見えないのだが、とにかく花霞は皮肉っぽくそう言った。
「地下鉄つったらまぁ、パニック映画とかの基本だしな」
持っていた懐中電灯を点けてみる。登山用の強力な一品で光量は十分だったが、辺りは瓦礫だらけの上、砂埃がもうもうと立ち込めるせいで周囲の状況は判らない。
「予感? それってマキエのより当たる?」
蒔絵が応えた。視界を探すと、器用に下半身だけが飛び出た状態で瓦礫に埋まっている。
「よく生きてんなお前」
「運には自信があるよ!」
「でもパンツ丸見えだぞ」
「いやん」
無意味に足をバタつかせる蒔絵。
かくいう花霞も、下半身が埋まったらしく身動きが取れない。
砂埃は薄れてきたが、蒔絵以外の仲間の気配は未だ掴めずにいる。
「あー、千鳥? そこにいるのか?」
「お側に居ります」
視界の下側……つまりは絶対的位置関係においては上から、千鳥が応えた。花霞と違い、埋もれている訳ではない……彼女の能力からすれば、それが妥当な結果なのだろう。
「蒔絵さんが教えて下さらなければ危うかったですね」
「えっへん。って言いたいけど……もっと早く気づけてれば、逃げ切れたよね……それか、テレパスだけでも」
「ファンタズムは本来、危険そのものを予知する能力ではありません。結果として皆の命を救って頂いたのなら、感謝しきれない恩恵です」
「千鳥、みんな生きてるのか? ここからじゃ全然見えんが」
花霞に問われ、千鳥は首を縦に振る。
「おそらくは。でも、真麻さんと鹿子さんが分断されました。彼女達は瓦礫の向こう側……地上に残されて、様子がわかりません」
「蜜葉は」
「君のすぐ下にいるよ……」
「うぉぁっ」
突然首筋の辺りから声が聞こえて、花霞は身じろぎした。
注意深く探ってみると、背後に生暖かい感触がある。花霞を抱きとめる様な形で、蜜葉が下敷きになっているらしい。
「わ、悪い」
「ううん、大丈夫」
千鳥がまず花霞に手を貸して瓦礫の山から引っ張り上げると、次に蜜葉も助け出される。
最後に蒔絵の上半身を『発掘』して、全員とりあえず二本の足で立つまでには至った。
「ボクこそ迂闊だった。アイツがいることを、もっと早く説明しておかなきゃいけなかったんだ」
「知ってたのかよ。ありゃァ一体、何なんだ。ゲンコツだけでラージ級ぐらいなかったか」
そうして花霞は、無意識に上を見上げた。あまりに強大な力と図体で攻撃されたせいで判然とはしないものの、アレはたぶん上から襲い掛かってきたはずだ。
地下への階段を降ろうとしていた鹿子達六人を、地上から、コンクリートを打ち抜いて直接に……
「ボクたちのガーデンが陥落した元凶だよ……アレは、間違いなくこの一帯のヒュージたちの中心的な戦力で、しかも指揮系統上の頂点にいる」
「今回のラスボスってとこかい?」
呟く花霞はどこか楽しげで、対する蜜葉は目を伏せ、声を低くする。
「アルファギガントって、ボク達は呼んでた」
「鹿子と真麻ちん、だいじょぶかな。無線機渡しておけばよかった」
蒔絵が、山積みのコンクリートを見つめて言った。
これで地下鉄への入り口は完全に塞がってしまった。鹿子達が無事にせよ、葉玄女学園に行くにはこのまま地下を進むしか無い。
「地上に引き返せたんなら、アイツらは……自前でどうにかするだろ。それよりあたい達は自分の心配しなきゃな」
そう言うと花霞は、瓦礫とは反対側、地下鉄構内へと続く通路へと振り返る。
電灯の光も途絶えた暗闇の向こうからは、怪物の息遣いと足音が聞こえてくる。
そして足音は少しずつ、こちらに近づいてきていた。
「気配が軽い。スモールかミドル級だ」
「とっとと片付けてお前のガッコにいくぞ、蜜葉。やれるか?」
「大丈夫、もう撃てるよ。足手まといにはならない」
四人は同時に構えて、臨戦態勢を取る。
「懐かしいですね、花霞さん?」
唐突に、ぽそりと千鳥がつぶやく。
「何が」
花霞は、目線だけを千鳥に向けた。同時に、拳銃のスライドを引く。
暗闇の袋小路でヒュージと戦うというのに、この娘は恐れるどころか、緊張すら感じさせない自然体のまま佇んでいる。矢絣袴を纏い、刀型の武器を構えるその姿は、並び立つリリィの中にあってさえ明らかな異様だ。
「初めてお会いしたときもこんな状況でした」
「あー」
「え、ナニそれ詳しく」蒔絵が食いついた。
「コイツ、日本刀でヒュージと戦ってたんだよ。昔は」
「うひょー、ジャパニーズサムライガール!」
「敢えてそこを挙げられますか……」
「あたいはマジでビビったぞ。頭おかしいのと出くわしちまったって」
「鉄砲一丁でヒュージと戦おうとしていた方とは、五十歩百歩かと」
花霞の脳裏で、過去の光景がチカチカと明滅する。
全てに見放されたと思っていたその頃は、そうする他になかったのだ。駄目なら駄目で、そんな自分はそのままくたばってしまえとさえ思っていた。
「……お前さんはおかしいと思うか、蜜葉?」
半笑いで、訊ねてみる。
状況にそぐわぬ質問かとも思った。案の定、蜜葉は戸惑うような表情で考え込んだが、それも一瞬のことで……彼女はごく真剣な表情で、答えを返した。
「……ううん。ボクもそうしたと思うよ。事情は知らないけど、それでもきっと、同じ立場なら」
「へっ、ありがとうよ。いいお友達になれそうだ」
一度だけ互いに視線を交わせば、二人共が笑っていた。
「来る!」
蒔絵が、暗闇に向けて発砲した。ヒュージの悲鳴が聴こえ、次いで密葉がCHARMの引き金を引く。
狭い視界に怪物の姿が露わになると同時に花霞と千鳥が踏み出し、暗闇での乱戦が始まった。
◆
「むぅぅ」
分断されたとはいえ、花霞達なら解決する力量はあるだろう。
問題はどう考えても、地上に戻らざるを得なかった自分達の方だ。鹿子は低く唸った。
「くそぅ、いくらなんでもデカすぎでしょ!」
心底から嫌悪感を込めて、鹿子は吐き捨てるように呟いた。
大きさから判断するなら、それがギガント級ヒュージであることは疑いようもあるまい。
空を仰ぐかのように顔を真上に向けてようやく、全体のシルエットが人型に近いこと、頭部は馬によく似た形状であることが判る。
例えるならば西洋のミノタウロスか、東洋の馬頭鬼といった所。ヒュージは特定の細胞が既存の生物に寄生し、変異されることで生まれるというが……これがどちらから変異したものなのかはあまり考えたくはなかった。
「真麻、動ける? ……ねぇ、真麻!?」
隣では真麻が、愕然とそのギガント級を見上げていた。始め鹿子は、それを自分と同じ様に相手の巨大さに驚いているのだと思い込んだ。
直ぐにその考えを改めたのは、真麻が明らかに動揺の表情を浮かべていたからだ。どんなときも薄ら笑いを浮かべていられるような鉄面皮の少女が、だ。
「アルファギガント……」
「……アンタ、このデカブツと知り合いなの?」
「知り合い? ……ふっ、ふふ、面白いわね、貴女は」
鹿子の言葉にようやく我を取り戻し、真麻は微かに口元を緩めた。
「ねえ、鹿子。今私たちが二人で力を合わせたら、こいつを倒せると思う?」
「まー、本気出したら……いや、訂正。シャレにしてもちょっと笑えない」
「逃げるしかないかしら」
「……常識的に考えれば、ね」
答えながら鹿子は心臓が高鳴るのを感じた。
まさかとは思うが、真麻は……いや、それ以上に。
仮に真麻が『そう考えている』として……自分のこの、鼓動は何だ。恐怖の様で違う、これは……
しかし、思考は、地鳴りを伴う轟音で途絶える。
目の前のギガント級が、空を割るかの如く咆哮したのだ。
もはや言葉を交わす必要さえなく、鹿子と真麻は同時に駆けだした。それでも真麻は微かに未練めいた表情を浮かべたが、構ってやるほどの余裕は鹿子に無い。
「兎に角走って。少し先に河川敷があるから、そこまで行けば!」
「そこまで行けば何なのよっ!」
「私に考えがある!」
先行する真麻に鹿子は追随したが、すぐに足を止めざるを得なかった。
眼の前の路地を塞ぐ、ヒュージの大群。恐らくは、アルファギガントの咆哮に引き寄せられたのだ。
「くそっ!」
「立ち止まらないで! 私が突破する!」
真麻は駆けながら軽く跳躍し、戦鎚ポラリスの噴射機構を点火して、前方のヒュージ群に突撃していく。
振り下ろされた鉄槌は爆ぜる様な衝撃波を生じ、スモール・ミドル級の入り混じった戦列に大穴を穿つ。
「駆け抜けて!」
「ああもう、どうなっても知らないわよ!」
もしも取り囲まれ、一時でも足を止めてしまえば絶対に助からない。だが、鹿子は真麻を信じた。
隊列の乱れたヒュージの間を縫う様に走り、その向こう側へ。
「真麻!」
振り返り、名前を呼ぶ。
真麻はヒュージの大群の中で再びポラリスを点火、加速して数体をなぎ倒しながら鹿子に追いついてきた。
「……ね、上手く行ったでしょう?」
「そうでもないわぁ……」
こちらを見上げて悪戯っぽく笑った真麻に対し、鹿子は空を見上げながら呆然と言った。
今しがた突破したヒュージの大群の向こう側で、巨大な山が……アルファギガントが口を開き、身構えていた。
「……ああ、やっばいわコレ」
気づいた時には、熱線が光の濁流となって鹿子と真麻を襲う。
迷う暇は無く、必然、鹿子は過去の恐怖を反芻することさえ忘れた。
「間に合えッ!」
突き出した掌の先に、ガードシェードの障壁が展開される。
少女の体内から練りだされたマギが、シャボン玉の様に薄く鮮やかな虹彩を持った光の壁となって、赤々と燃える熱線とぶつかった。
エネルギーの衝突で、地が裂けるかと思われるほどの轟音と振動が生じる。
「……くぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
激痛。あの時と同じ、全身の感覚が飛んでしまうほどの。
けだものの様に悲鳴を上げ、それでも正気を保ちながら、鹿子はこの余りにも圧倒的な殺意をほんの数秒、防いでみせた。
そう、ほんの数秒、それが限界だった。
……ぴきっ
鹿子の纏うレグルスに、亀裂が生じる。その音は、まるでCHARMの悲鳴の様にも聞こえて……
(ああ、もう……また……あの時とッ!)
その時に至り、初めて鹿子は恐怖を思い出す。
一年前……あの、紅坂の……
(もう……あんなのは……)
後になって思えば、死ぬなどとは微塵も想像しなかったのは大した甘ったれだった。
鹿子がただ恐れたのは、自分が再び力を失うこと。再び“燃えカス”となり、あの惨めな日常に戻ることだった。
(あんなのは……嫌……)
だが……その震える手に、もう一つの手が添えられる。
「大丈夫よ。鹿子」
真麻が、鹿子の手を握った。次いで、肩を抱き寄せる。力いっぱいに。
「大丈夫。私達は絶対に助かるわ。私が、助けて見せる……だから、今は」
囁くような、優しく、微かな声。
けれど、確かにその言霊は、鹿子に届いた。
「今は、貴女が必要なの。お願い、私達を……守って」
「……っ」
思わず鹿子は、ふっ、と吐息を漏らした。
私がもう少し強かったなら。こんなみっともない姿を、この人に見せずに済んだのに。こんなにも、気を使わせなくて済んだのに。
こんな弱くて甘ったれのクソガキは、初めて出会った真麻に、なんと言ったのだったか。
でも、今は……そんな自分の隣に、寄り添う者が居る事が、ほんの少しだけ、嬉しくて。
だから鹿子は、思わず笑ってしまったのだ。
「はっ、言われなくって……言われなくったってぇぇぇぇぇッ!」
きらり、と……レグルスのマギクリスタルが、最後の光を宿す。
障壁はいまや極彩の輝きを放ちながら、アルファギガントの熱線と拮抗し……やがて、押し返し始める。
そして……
「おぉりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
……とうとう、熱線は途切れた。同時にマギクリスタルが粉々に砕け散り、レグルスはその機能を停止する。
鹿子もまた、力尽きてその場にへたり込みそうになったが……真麻がその体を、しっかと抱きとめ、支えた。
「どうよ、真麻……」
「鹿子……貴女は、貴女、本当に……」
「もーやりきったわ。悪いけど、アタシはここまでね……」
皮肉混じりの言葉だったが、真麻は瞳を潤ませながら首を振り、一層強く鹿子を抱きしめた。
「いいえ。今度は私の番。命を懸けて、貴女を護る」
真麻は鹿子を片手で支えたまま、ポラリスを箒の形状……即ち、飛翔形態へと変形させる。
可能性は低い賭け。けれどもう、やるしかない。
鹿子が今、そうして見せたように。
「出来るだけ強く掴まっていて、鹿子。貴女はマギを発動していないから、落ちれば死ぬわよ」
「落ちれば……って、え。あの、真麻さん、何する気です?」
鹿子が引きつった笑みを浮かべる。対して真麻は、美しいまでのアルカイックスマイルを返した。
「……正気?」
「実はね。少し頭がおかしいっていう自覚はあるの。恥ずかしいから、今まで黙っていたのだけれど」
「そっかー」
鹿子は疲れ切った顔で、しかし何かを悟ったようだった。
「……ま、どのみちアンタしかいないからさ。頼むわ」
「ええ。任せて」
真麻は鹿子を抱えたまま、レグルスに腰を下ろす。
背後ではヒュージの群と、アルファギガントがすぐにでも次の攻撃を始めようと移動を開始した。
「追いつけっこ無いわよ。ハマーウィッチにはね」
瞬間、真麻はフェイズトランセンデンスを解放し、ポラリスを起動する。噴射機構が宇宙ロケットのごとき爆炎を上げながら、暴力的なエネルギーの加速を得て空に飛び立った。
あっというまに地面が遠のき、ヒュージの群は豆粒の集合体となる。唯一、どれだけ離れようと決して見失うことはないであろうアルファギガントの巨大さが、鹿子の距離感を狂わせた。
アルファギガントは追撃を決して諦めず、大きく身を震わせて熱線の第二波を放つ。
「ちょっと真麻、後ろ後ろッ!」
掠めただけでも消し炭と化すであろう熱波が迫る中、振り落とされないよう真麻の身体を力いっぱい掴みながら、鹿子は叫ぶ。真麻はそれに答える代わりに、鹿子の身体を強く、強く抱きしめる。
「……っ!」
背筋に電流が走るような感覚。次の瞬間、真麻の身体は眩い輝きに包まれた。
一時の間だけ許された無限のマギを放出しながら、ポラリスは更に、更に加速し、アルファギガントの熱線をとうとう振り切ってしまう。
「凄い……!」
「口を閉じていて鹿子、舌を噛むわよ!」
呼吸さえ困難になる風圧に曝されながら、真麻は巧みに姿勢を制御し、ポラリスの噴射を繰り返して遙か彼方へと飛んでいく。
白み始めた夜明けの空は雲ひとつなく、二人を妨げる者は最早居ない。
うっすら見える地表の景色に、一際大きな建物が見えた。グラウンド、体育館にプール……
それが学校で有る事は、遠目にも明らかだった。何よりもその建物は、鹿子も、真麻も、見たことがあるのだ。
「真麻、あそこ! 葉玄女学園の校舎!」
「ねぇ、鹿子……」
はしゃぎ立てた鹿子に、真麻は一際穏やかなトーンで答え、ゆっくりと、空中で振り返る。
二人を載せた箒は噴射をゆっくりと絞りながら、上昇速度を緩めていた。
その箒の上で真麻は一層強く、鹿子を抱き締める。
「真麻……?」
真麻は柔らかく微笑み、自身の頬を鹿子の額に寄せた。鹿子は戸惑い、体を微かにこわばらせる。
「ちょっと、どうしたのよ……」
「聞いて、鹿子……私ね」
掠れる様に囁く声に、鹿子はそれまでとは違う心臓の高鳴りを感じた。
真麻の体が、しなだれ掛かるように鹿子に重心を預け…………
「あの、ま、真麻……っ?」
「……もう電池切れなの。このまま二人で落ちちゃうわね」
「……あー」
我に帰る。フェイズトランセンデス……
気づくと共に、二人を載せたポラリスは急速に上昇力を失い、放物線の軌道で落下を始めた。
「ぁぁぁあああああいいいいいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
二人がリリィであることなど今は関係ない。
CHARMが停止し、リリィを超人たらしめるマギの化現が失われた今、二人はただの女子高生であり、この高さから地面に叩きつけられれば苦しむ間もなく地上に赤いシミを作るのである。
「……真麻っ!」
しかし曲がりなりにも、実戦を潜り抜けてきたリリィである。
鹿子は、今度は自分から、今やぐったりと脱力する真麻を抱き寄せ、ポラリスを強く握りしめた。
(できるか……アタシに。今のアタシに!?)
恐れも迷いも許されない。鹿子はポラリスの起動を試みる。マギクリスタルの登録者は真麻であり、その機動を試みる鹿子は『燃えカス』だとしても、やらずに諦めるなんてありえない。
「動け!」
そして淡い期待ほど痛烈に裏切られるのが、紅坂の不文律。マギの発現に障害を残す鹿子の全身全霊の呼び掛けに対し、ポラリスは無情にも微かな発光を返すのみ。起動させるなど夢のまた夢にさえ感じさせた。
だが、鹿子に諦める気など一切ない。そんな無様な決断は、首里鹿子というリリィにあってはならない。
狂ったように、しかし一心に、鹿子はポラリスにマギを送り続ける。
「動けッつッてんでしょこのッ、この腐れトンカチぃぃぃぃッ!」
ぐんぐんと高度が下がり、地面が迫る。ポラリスは起動しない。
だがその時、鹿子の手の甲にそっと、柔らかな掌が触れた。
ポラリスを握る鹿子に、真麻が手を添えたのだ。
「……真麻」
「……っ」
言葉を発するのも辛いかの様に、真麻は苦しげな笑みだけを返す。
だが、次の瞬間……ぶん、と、ポラリスが振動し、マギクリスタルが光を宿す。
それが真麻のマギによるものなのか、鹿子のマギなのか、或いはその両方だったのかは、判らない。
今この時、そんな事はどうだって良かった。
「来たァァァッ!」
鹿子は反射的に、ポラリスの噴射口を地面に向けた。
同時に、死にものぐるいで姿勢を制御し、わずかでも自分たちの着地点を、ある一箇所へと近づけようとする。
目指すは、葉玄女学園の敷地にある訓練用プール。紅坂のガーデンのプールは全て、救助訓練の為にかなりの水深を取ってあるはずだった。
あとは、着水で叩きつけられる直前にポラリスで減速できれば……!
「って……ああもう、どこで点火すんのよコレぇぇぇぇ!」
振ろうと叩こうと念じようと、ポラリスの噴射口はうんともすんとも言わず。
苦笑する真麻が鹿子の手を握りしめる。
(セーフティーがあるのよ)
多分、そう言ったのだと思う。
真麻の手に導かれるまま、柄の中央にある小さなスライド式のボタンをずらした。
ドォン。
刹那、ポラリスはプールの水面に向けて、あの強烈な推力を噴射した。
衝撃で身体が浮き上がり、姿勢が崩れる。
鹿子と真麻は天地も判らぬまま、水面へと叩きつけられた。
◆
……!
水中で自分の位置を把握した後、真っ先に思い浮かべたのは真麻の顔だった。
水底に沈んでいく真麻の身体を後ろから掴み、水面へと上がっていく。真麻は脱力したまま反応を示さず、そのことが鹿子に、恐怖と焦燥を抱かせた。
「ぶあっ!」
プールサイドに真麻を押上げてから、自分も這い上がる。
薄汚れた水を吐き出し、倒れ込みそうになったが、かろうじて地に手をついてそれをこらえた。
肺が潰れるかと思う程に荒んだ呼吸を落ち着かせながら、真麻の顔を覗き込む。
「真麻、ねえ、生きてる!? おい、返事しろっ!」
意識がない。呼吸も。
全身に走る悪寒を無理矢理に抑え込み、反射的に心肺蘇生を行った。
胸骨圧迫と人工呼吸を何度か繰り返す。消耗しきった身体が、あっという間に重くなっていくのを感じる。
幸いにも……そう間を置かずして真麻は水を吐き、目を開いた。
「……かの、こ?」
「……………っ!」
生気を取り戻した真麻と視線が合った瞬間、鹿子は一瞬身体を硬直させ、それからどっと脱力して彼女の隣に寝転んだ。何かを言おうとした筈だったが、言葉は一瞬で忘れてしまった。
「また、助けてくれたのね、貴女は」
「また?」
「ええ、また」
真麻は寝転んだまま、鹿子の手を握った。その指は冷たいが、それでも確かな温みが残っている。
「お互い様よ……流石に死ぬかと思った」
「怖かった?」
「全然」
その答えの、半分は冗談混じりの強がり。そしてもう半分は、正真正銘の鹿子の本心。
鹿子は自分が自然と笑っている事に気がついた。
それが何故かも、はっきり実感できる。
「……おかげで思い出したわよ。これがアタシ達の戦いだって」
何度もこんな危険を、命からがら、或いは幸運にも、時として犠牲さえ払い、くぐり抜けて来た。
それが鹿子の、鹿子達の日常だった。
断じて面白くなどない。それでも、この危険を懐かしく、また愛おしく思うのは――
「そうね。これが……私達の、あるべき姿」
真麻は臥したまま、ほんの気持ち、鹿子に身を寄せる。
鹿子は真麻の手を握り、暫くそのまま動かなかった。
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