橘しのぶ詩集『水栽培の猫』 

 

『水栽培の猫』

 交流のない存命の詩人の詩集を、私は殆ど読まない。作品と人とは分けて考えられるべきものだと思うが、その人の命の欠片とでも言うべき言葉の結晶たる詩を、丁寧に丁寧に織り編まれた詩集を、その人となりを知らぬ上で私は読む気がしない。人にひかれないと、その人の詩、詩集に触れたいと思えないのである。本来は詩を読み、その人を知るべきであろうが…。

 主宰する『夢みたものは』の詩友を通じ、橘しのぶさんと知己を得た。SNS上での呟きからも優しいお人柄や細やかな視点を感じていたが、やり取りの中で、しのぶさんのしなやかさ、センスのよさ、愛猫への眼差しのあたたかさに胸を打たれた。『水栽培の猫』という不思議な書名についての私の不躾な質問にも丁寧にお答えくださった。

 どの作品も、不思議なおとぎ話のような感じを心に残す。
 眠る前、祖母が語る美しい話に耳をそばだてる。頭の中に情景を思い描くのだけれど、実体が掴めない。優しさとか、恐ろしさとか、美しさとか…眠りと共に夢の中に引きずり込まれてゆく直前に一瞬強く刻みつけられるもの。夢から覚めてもずっと頭の隅に留まっている、どこかで見たような、懐かしさと新鮮さをあわせ持つ…そんな不思議な心象風景が、読後数日もたった今も漂っている。

 「ごっこ」「花影婆婆」「押入れ」「レプリカ」…しのぶさんの意図とは読み取り方は異なるであろうが、思春期に差しかかる時期の思いを、当時のままに、胸奥に深く刻んだまま歳を重ねている私にとって、ゆめでもなく、ごっこでもなく、これらの詩は特に私の胸に突き刺さった。
 私はこの「ごっこ」の只中にあり、決して覚めぬゆめの中に生きていると再認識させられた。
 しのぶさんの詩に救われた気がしている。

 古典を材にとったものも趣深いものがあった。…「りぼん」は恋人の夢をみたいがために夜の着物を裏返しにして眠るという小野小町の歌を素地としているのだが、思いを込めた衣は見事なりぼんに仕立てあげられ、ゆわえられ、古歌との織り合わせが誠に美しかった。

 「あとがき」に「抱きしめすぎて毀れてしまった人形のような風景が、心に降ってくることがある」とある。詩を書くとはそれを言葉に置きかえることだと、しのぶさんは記している。
 言葉は優しく語りかけてくれた。しかし、私にはとても難しかった。
 見たもの、感じたものをそのまま言葉にする詩しか書けない私にとって、しのぶさんの詩は、そおっと慎重に言葉の後をついていき、一挙手一投足、じっと見つめ、噛み締めているつもりなのに、ふわっと佳い香りの風に気を取られてしまい、それまでの世界とは全く知らない処に連れ去られてしまったような…そんなことが度々であった。その感覚がとても心地よかった。

 しのぶさんの愛猫の次郎くんがこちらをじっと見つめている。

 僕のことは書いてくれないの?
 ご主人さまの詩、しっかり読んでよね…
 君んちの小太郎と仲良くやってるよ…

 訴えるような眼差しに吸い込まれる。
 鈴の音をたよりに、また読み返そうと思っている。

 金木犀もそろそろ香る頃だろうか。

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