我が家のイギリス旅行記#19(完結編) 千と千尋の神隠し
2024年の夏休み、家族4人で出かけた初めての海外旅行からもう2ヶ月が過ぎた。
思い出をできるかぎり記録しておこうと思い立ちnoteにだらだらと書きつけてきたけれど、書きとめておきたいことはあらかた済んだ感じ。
後まわしにしていた観劇の話をして、イギリス旅行記はおしまいにしたい。
観劇の話
イギリス旅行が決まったときから、ロンドンではなにか演劇を観ようと考えていた。
別に特段演劇好きということもない。
ただロンドンらしい、ヨーロッパらしいもの、というくらいの感覚だった。
最初はクラシックコンサートも考えていた。
ちょうどThe Proms プロムス の時期でもあった。
でも最後はロンドンといえば演劇、というただイメージだけで演劇を観ようと決めた。
当然、外国語での舞台ではなにをしゃべっているかがわからない。
その前提で、それでも楽しめそうなものを考え、探した。
LION KING(Lyceum Theatre)
THE PHANTOM OF THE OPERA(His Majesty's Theatre)
Harry Potter and the Cursed Child(The Palace Theatre)
The Mousetrap(St. Martin's Theatre)
このあたりなら楽しめそうだ。
なかでも、「The Mousetrap」は気になっていた。
あまりメジャーではない演目のようだが、ロンドンでは100年近く(!)もロングランが続いているアガサ・クリスティ原作の舞台だそうだ。
しかも歴史のある、500席ほどの小ぢんまりしたシアターでの公演。
せっかくならそういうやつが良いかなとも考えた。
千と千尋の神隠し
あれこれ悩んでいたそんなあるとき、家族が思わぬことを口にした。
「『千と千尋の神隠し』をロンドンでやっているらしいよ」
まったく初耳だった。
夏にかけてワイドショーなどで話題になったが、6月頃の日本国内ではまだそれくらいの認知度ではなかったかと思う。
『千と千尋の神隠し ~Spirited Away~』は昨年日本で舞台化されて上演、それがこの春ロンドンに進出していた。
主役は上白石萌音、橋本環奈、川栄李奈、福地桃子などで、8月は萌音が出るという。
日本語での上演(英語は字幕スーパー)とのことで言葉の心配もない。
千穐楽が8月24日ということでタイミングもぴったりだった。
「イギリスらしさ」を追求したい気持ちもあったけれど、そこまでハードルを上げる必要もあるまいと考えた。
LONDON COLISEUMの公式Webサイトで、チケットを購入。
UPPER CIRCLEの後ろすぎず、端っこすぎない席を選んだ。
価格はひとり£90ほど(約18,000円)だった。
UPPER CIRCLE F40-43
£87.75+fee£3.25=£91.00 × 4=£364.00
観賞当日
2024年8月21日(水)、18時。
ロンドン・コロシアムにやってきた。
近くのPRET A MANGERで夕食用のサンドイッチを買い、建物前の行列に並んでしばし待つ。
18:30開館。
おみやげショップでプログラムなど購入し、UpperCircleに上がる。
ホワイエにあるバーで水分補給。
19:00、劇場の扉が開く。
座席は舞台に向かって中央やや左寄りのブロック。
価格設定の境目の席で比較的観やすい位置だったし、端から4席確保していたので出入りで人様に迷惑をかけることがなく、気兼ねなく観劇に集中することができた。
19:30、開演。
21時くらいから20分ほどの休憩をはさみ、グロスで3時間ちょうどの舞台だった。
22:30、終演。
感想文
長い舞台だったがとてもおもしろかった。
すごかったし、感動した。
もうちょっと気の利いた感想文に仕立てようと、旅行記も一番後まわしにして練ってみたけれどけっきょく整理がつかないので以下、思ったまま書き散らかしておく。
イギリス人と一緒に演劇をみるというレアな体験ができて、よかった。
彼らはとてもリラックスしていた。
目の前で起きていることに素直なリアクションをとっていた。
アメリカ人ならもっと大げさかもしれない(実体験はなく個人のイメージです)が、日本人以外は皆こんな感じなのだろうかと思う。
舞台について、
上白石萌音は千尋そのものだった。
小学生にしか見えなかった。
夏木マリも大奮闘、大活躍だった。
この舞台は映画(アニメ)の世界観を忠実に再現しようとしていた。
そのなかで湯婆婆と銭婆のアニメならではの顔のばかでかさばかりはどうにもならないからどんなものかと思っていたけれど、夏木マリの存在感がそれを補ってあまりあるものだった。
この二人が、人間としては際立っていた。
しかしながら、私には人間ではないものたちがより印象深かった。
カオナシは人間の大きさで登場し、急にでかくなり、また元に戻った。
それが自然な感じで、ほんとうに大きくなったり小さくなったりしているように見えた。
等身大カオナシのコミカルにして不気味な動きも「得体の知れないなにか」感をじゅうぶんすぎるほど表現していた。
緑の顔?やカエルは人間の演者と人形のコラボで、もっと小さな生き物(生き物でないものも)は黒衣に操られて、それぞれ舞台を動きまわり、人間と絡んでいた。
黒衣が人形を操るのは歌舞伎由来。
カオナシの巨大化とかは全日本仮装大賞の流れ。
(かな?)
とにかく、人間の大きさや姿かたちと違うものを表現するということに日本人はこだわり、そういう技法を磨き上げてきた。
あるいはアニメもそのひとつなのかもしれない。
「八百万の神様」的な、あらゆるものが魂をもち人間と向き合っている、という前提の文化が育んできたものなのだろうか。
西洋では人間以外のものはいったん人間に置き換えるか、もしくは舞台に登場するものではない(魂をもって人間とやりとりするものでない)と割りきってしまう。
ということだとすると、この舞台はきわめて日本的だ。
このあたりはまったく適当に言っているので本当かどうかは疑わしい。
けれど、とにかく映画(アニメ)の世界観そのままの舞台だった。
この舞台を観て宮崎駿監督作品を語れるか?でいえば断然、YESだと思う。
物語について、
私は映画の「千と千尋の神隠し」をちゃんと観たことがなかった。
金曜ロードショーとかでも、両親が豚になるところくらいまで観てやめてしまっていた。
今回の観劇のためにメルカリで映画のDVDを購入し、出発直前に初めて全部を観た。
夢オチだった。
ひとりでは何もできなかった女の子が、ふと異世界に迷い込み、いろんな出来事に巻き込まれ、自分の力で乗り越えてたくましくなって、まわりの他人を救えるまでに成長する物語。
と思ったらそれらのできごとはぜんぶ夢だった、という話。
どうりで、千尋が迷い込んだ世界でどのくらいの期間いたのか、何日間のあいだに起きたできごとなのか、時系列がものすごくあいまいに描かれていた。
そこがもう、夢そのものだ。
あるいはもしかしたら、この物語は大人になった千尋が見た夢ではないか。
子供の頃にあったことを夢で見ることは、よくある気がする。
でもそれが本当にあったできごととなのか、空想の世界のことなのか、よくわからなくなる。
あとから考えたら絶対あり得ないようなことも子供の頃のできごととして夢に見たりするけれど、千尋にとっての夢はほんとうに現実で起きていたことなのかもしれない。
忘れてしまっていた「現実のできごと」を夢のなかで思い出した、それがこの物語というのはどうだろう。
銭婆の「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」というセリフが心に残った。
私はこの舞台を、ストーリーも含めて新鮮な感動で味わうことができた。
素晴らしい舞台だったと思うし、ロンドンで観られて良かった。
いい思い出だ。
帰国の日のできごと
「千と千尋の神隠し」を観賞したのは旅行の2日目、8月21日のことだった。
そのときことをこの旅行記の最後にまわしていたのには、実は意味がある。
私たちはロンドンでの長いような短いような4日間の滞在を終えて、8月25日にロンドンを離れた。
その日の朝早くホテルを発ち、ヒースロー空港を9:10に出発するブリティッシュエアウェイズ便で日本に向かった。
その飛行機には、往路と比べるとずいぶん多くの日本人が乗っていた。
その日本人乗客の多くは、お互いに顔見知りのようだった。
私の席の近くにも日本人の仲間どうし数人がかたまって座っていたが、他にも同じようなかたまりがあり、その人たちどうしも通路を通るたびに声を掛け合ったりしていた。
日本人の「なにか」の集団が、この便にどっさり乗っているように思えた。
それも、見るからにふつうのサラリーマンとかではなかった。
ときどき赤ちゃんを抱っこしあやしながら通路を通りがかる人には、なんとなく見覚えがあった。
すべての疑問がとけたのは羽田空港に着いたときだった。
飛行機を降りて通路を歩いていくと、その途中のスペースで赤ちゃんをベビーカーに載せよとしている夫婦がいた。
その夫婦に向かって、仲間と思しき日本人が声をかけた。
「『お兄さん』、お疲れ様でした!」
それでようやくわかった。
どこかで見たような赤ちゃんをあやしていた男性は「おばたのお兄さん」だった。
謎の日本人集団は「千と千尋の神隠し」のスタッフの人たちだったのだ。
(おばたのお兄さんはカエルの役をやっていた)
入国審査場をすぎバゲージクレームまで来た。
そこで全容が判明した。
スタッフどころか、演者の方々も皆そろって同じ飛行機に乗って日本に帰ってきていた。
おばたのお兄さんだけでなく、「顔」の人、「カオナシ」の人、「坊」、「りん」、みんな揃っていた。
しかし、あの舞台は8月24日(の夜)が千穐楽である。
その翌朝の便で帰国するとはまったく予想外だったし、芸能人のスケジュールのタイトさにびっくりした。
千尋のお父さん役をつとめた大澄賢也さんもいらっしゃった。
賢也さんは学校の先輩でもあり(もちろん面識などないけれど)それを伝えたくて、思い切って声をかけてみた。
きっとお疲れのところだったろうけれど、気さくに応えてくださった。
母校の、地元のつながりが大きかったのだと思う。
ありがとうございました。
主演の萌音は、荷物を待つ場所にたむろする集団の中にはいなかった。
でもしばらくおいてどこからともなく現れ、演者仲間の皆さんに声をかけながら通り過ぎていった。
萌音は小さくて、舞台の影響もありもう子供にしか見えなかった。
演者さんたちの集団も、荷物が出てくるごとに少しずつ減っていった。
名残惜しそうにお互いに挨拶しながら、大きなことを成し遂げた充実感みたいなものを身にまとって空港を後にしていった。
そんな皆さんの姿を偶然にも見届けることができて、思い出がますます色濃くなった気がした。
あとがき
子供たちが子供の頃、家族4人で出かけることはよくあった。
よくあった、というよりはそれが当たり前のことだった。
その頃の私は、家族4人がひとかたまりであり、それが永遠に続くものと信じて疑わなかった。
そのぶん私は家族との時間をすこし軽んじていたような気がする。
でも、家族は永遠ではない。
子供はあっという間に大きくなり、最近は親の相手などしてくれない。
そしてそのうち、別の家族をつくって親元を完全に離れてしまうだろう。
親だって遠からずこの世からいなくなってしまうだろうし、そうしたら家族なんてあっという間になくなってしまう。
そのように考えるようになったのはようやく、最近のことだ。
私も元の家族からずいぶんあっさりと離れてきてしまった。
あのとき自分の親はどう思っていただろう?などと今さらながら考えてしまう。
そんなこんなで、私はこの家族旅行を贖罪のようなものだと思っていた。
贖罪というとちょっと重すぎるけれど、今までできていなかったことを反省し、遅ればせながら取り戻したかった。
あるいは、家族のつながっている貴重な時間を大事にしたかった。
最初から最後までドタバタした旅行だったけれど、家族4人がかたまりでこんなに長い時間を過ごしたのはほんとうに久しぶりな気がした。
子供ふたりにとってみれば、お金を出してくれて海外旅行に行ける大チャンス、ということで付いてきただけかもしれない。
まあそんなもんだろうし、それでも良かったと思う。
ただ、家族4人で過ごしたこの旅行のことを、いつか少しでも思い出してくれたら良いなと思う。
いや、きっとどこかで思い出してくれるに違いない。
「一度あったことは忘れないものさ。」
おしまい。