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友人が父親のことをオヤジと呼び出したときに僕の思うこと

人は、なかんずく十代後半の男子というものは、ホルモンバランスの乱調に起因するのか、とかく「不可解行動」が目立つ生き物である。私も当時は何かと物狂おしい思いに駆られていた。脱いでフルチンになる瞬間の快感を覚えたのも十代後半だった。誰もいない秋の海岸沿いを全裸で歩いたりしていた。

「最低」「恥ずかしい」「うちの子があんなのになったらどうしよう」とされがちな「典型的小悪事」をあえて「体を張って」やり続ける「男子」が世の中には一定数いる。「愚連隊」だとか「不良」だとか「ツッパリ」だとか「ヤンキー」だとか時代によって呼び方は様々だが、それはいつの時代にもそんな連中がしぶとく存在していたからだ(私の通っていた田舎の高校ではヤンキーという呼称が通常だった)。

彼らは意味もなく喧嘩を売りあったり、髪を派手に脱色したり、公園で野糞をしたり、道端であからさまに端を吐いたり、女と無理矢理セックスしたり、度胸試しで万引きをしたり、「ノーヘル」のままバイクで街中を疾走したり、校舎裏でタバコを吸ったり、嫌いな教師を殴って退学処分を受けたりして、ようするに誰の目にもわかる具合に跳ねっかえり悪ぶるのだ。尾崎豊の詞の世界を地で行きたい生き物なのだ。彼らは狭い小集団のなかで頭一つ抜けることに精力の大半を傾ける。「堅実な人生設計なんか糞食らえだ」という未熟ゆえの捨て鉢ポーズは切なくも愛おしい。

地方新聞の社会面を騒がせるような事件をヤンキーが起こしたとき、失うものがない奴は最強だね、なんて周囲の「大人」は眉根を寄せて呟くが、彼らヤンキーは「今後の人生」という何よりも重くて替えの利かないものを賭けているのだ。どう考えても失うものが大きすぎる。人生の安定以外に願望を持たない社畜どもはそんな理不尽な勇気からは最初から見放されている。だから気が付かないのだ。ヤンキーにあっては、「人生を棒に振るかもしれない」という危機意識が瞬時に背徳的ゾクゾクエネルギーに転換されるのだ。

ねがわくば私もそんなゾクゾクを得たい人間の一人である。私はついのヤンキーにはならなかったが(なれなかったが)、「ヤンキー的なもの」への憧れはいつでも根強くあった。

金髪願望はあるし、人前でタバコは吸いたいし、ギャル男みたいなファッションでナンパもしたいし、殴り合いの喧嘩をして傷だらけにもなりたい。この滑稽なリストは果てしなく続けることが可能だ。私にとって「ヤンキー的なもの」はどこまでも紋切り型であって、だからこそそれを演じている自分の姿は想像しやすく、同時に興奮もできる。

自分の肝っ玉の小ささと知性の未熟さに今更ながら呆れます。どうしましょう。わかるわかる、という人が一人でもいれば、こんな文でも書いた甲斐があったというものだ。

人は「演じる生き物」であり「背伸びする生き物」である。ヤンキーは自分がいかに大人たちに不服従を貫いているかを過剰に見せたがる男子のことだが、その真逆のことを実践している男子もいる。「優等生」「真面目君」「いい子」呼称はなんでもいい。だいたいにおいてそんな連中はヤンキー的なものを「ださい」と言い捨てる。が、どこか憧れている気味もある。彼らは一見気づかれないようなちょっとした「反抗」でせめてものヤンキー気分に浸ることが多い。

たとえば二十歳を超えて実家を離れている男子が父親をいきなりオヤジと呼び出すあのよくある光景を思い出そう。とうの父親に向かってはどうか知らないが、仲間内ではいきなりそんな言い方をする男子は実に多い。たぶん、こうした呼称の変化のなかには「反抗」への意志がある。私の見立てだとそれも「ヤンキー的振舞い」の一種。つまり「俺はもうあいつに養ってもらっている子供なんかじゃない。同格の男なんだ」という独立宣言のつもりなのだ。聞いているこちらとしては些か恥ずかしいけどね。お前ただの全うな大人じゃん。ホームドラマみたいなセリフほざくなという感じ。といって、「え?ちょっと前までお父さんって呼んでたよね」なんて茶々を入れるのも野暮だろうし。こんなときは気が付かない振りをして受け流すのが紳士の作法。ただ本当に背伸びプレーをしたければ実家でやってくれよ、とは思う。仲間内でやってもただのオナニーですよ。私は「オヤジ」「おふくろ」なんて永久に言えないだろうな。けっきょく私は中途半端な人間なのです。

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