強迫神経症たけなわ
集合住宅(ワンルーム)住まいの私はいま、隣の老人Aに苦しめられている。一方的に苦しめられているという被害者意識の膨張をどうすることも出来ない。壁を隔てた隣室にAが存在している気配を感じるだけでも不快になる。消えてほしいと願っている。どうしてこれほどの嫌悪に駆られなくてはいけないのだろう。
「他者ノイズ」へのこうした異常な囚われは、いまになって始まったことではない。もうすでにこの厄介な症状とは六年以上も付き合っている。だから病識は人並み以上にあるつもりだ(威張るな)。専門家の診断を受けたことはないが、関連書はそれなりに読んできた。残念ながら症状はいっこうに軽くならない。むしろそのしつこさが増してきている。
気にすれば気にするほど、苦しくなってくる。生活に支障が出るほど囚われている。あまりにいかんともしがたく、発狂寸前に追い込まれたときは、こうした分析作業によって問題を客体化し、腑分けすることにしている。
壁のほんのわずかな隙間から、タバコ臭が漏れ出ている。この鼻が感知しているのだ。敏感すぎるこの鼻が。その臭いが感知されるたび壁に鼻をあてる。自らすすんで嗅いでしまう。くんくんくんくん、「オッケーいつも通り」「そうだ、これが私を不快にしている臭いだ」と確認する。そうしないではいられないのだ。その「不合理さ」はよく分かっているつもりだが、やめられないのだ。くんくんして、この「被害者感情」を刺激させないではいられないのだ。下手したらそこに「被虐的な快感」さえ見出しているかもしれない。そう思うとさらに不快感は増幅される。こうした強迫行為には、いろいろなかたちがあるらしい(手をいちいち洗わないではいられないとか、外出前に電源プラグをコンセントから抜かずにはいられないとか)。こうした反復行動によって自分は「真の狂気(自我崩壊)」を免れているのかも知れない、とさいきん考えている。それでも辛いものは辛いのだけど。
つねに生存不安をかかえ、行動範囲も人間関係も狭い私にとって、そこはとなく侵入してくる異臭は、「制御不能な運命」の象徴としてある。「他人」はつねに不安を呼び起こす存在、臭う存在なのだ。他人のタバコ臭が感知されるとき、私は、「他人と同じ空気を吸っている」という不快感にさらされる。招いてもいないのに、他者という悪霊が私の体のなかに入ってくる。消臭剤や芳香剤ごときではこの悪霊は退散しくれない。
Aががさつにドアを閉めるたびいちいち憎しみを抱いている。「どんッ」がこわい。「いつもお前を監視しているぞ」「俺はここにいるぞ」というメッセージを「どんッ」のなかに感じてしまう。「もっと静かに閉められないのか、こっちはわりと気を遣っているのに」と「不公平感」にさいなまれてしまう。生命ポイントを奪われている気になる。単なる不満では済まない。「いますぐ報復したい、この胸の締め付けられるような不快感を味わわせてやりたい」という強い被害感情が湧いてくる。これを、「まあまあ、気にない気にしない」と抑止するのに多大の神経を費やす。自分を宥めるということは実に大変なエネルギーを要することで、それはただ怒りに任せることよりもずっと心身を疲弊させることなのだ(怒りの自家中毒)。
また、下品な声出しあくびが聞こえるたびにも、いらいらし、動悸がする。私はある時期から、人間の体由来の音に、耐えがたさを覚えるようになった。好みの若い男ならともかく、他人が口から出す音を、耳にいれたくない。私にとって寝起きする空間は聖域であって、いかなるかたちであれ他人はそこに侵入してはいけないのである。とくにあくびやくしゃみや咳といった口腔経由の音は、暴力的に不潔である。聞くと、耳元をなめられているような不快感におそわれる。
ちなみに、あくびは伝染するといわれるが、嫌いな人間に限っては、そうではない。「いや、やめて、はいってこないで」という拒絶感情がおこるだけだ。私は音を出してあくびをするような人間とは仲良くなれない。それはどのように解釈してもこちらには「不快な自己主張」でしかなく、子供の奇声と並んで地上から撲滅させるべき害音なのである。「おやじ」と呼ばれる一群の男たちと一緒にいるとだんだん気が滅入ってくるのは、おそらくそのためだろう。
やはり、分析というより、愚痴に終始してしまった。私の心の狭さと意地悪さがまたひとつ、見えただけだった。すみません。