「迷惑系ユーチューバー」の「迷惑」ってもっと物凄いものだと思っていた
もともと僕は全裸で外を歩きたい願望のひときわ強い人間だから、暑い季節なんかにフルチンのままベランダに出て酒を飲んだり放心したりすることをひときわ好んでいる。一糸まとわずフルチンでいることはどうしてこんなに気持ち良いのだろう。同居人がいるとなかなかこうは行かないだろう。オナニーだってそう好き勝手には出来ない。そうした不自由さに今の僕は我慢できそうにない。
社会生活上まとわされている何もかもから解放されたいと人はたぶんいつも考えている。陰毛を風でそよがせながら瞑想妄想にふけるあのひとときは癖になる。世の変態男子変態女子どもにおすすめです。
いちおうサンシェードも申し訳程度にかかっているので「公然わいせつ罪」というあの野暮な法律に問われる気遣いもない。そもそもベランダは僕の私的領域であって、「不快なものを見てしまった」なんて言ってくる奴が万一いたところで知ったことではないのだ。「人の全裸快楽に水を差すな」と怒鳴り返して終わりだ(「徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」(判例)なんかには該当しない。元アイドルグループのメンバーの起こした全裸騒動や例の黒タイツ芸人の露出騒動でさえ該当する水準に達しているとは思えないぞ)。そもそも三十超えた男のむさくるしいフルチン姿なんかいったい誰が見るんだよ。自分だって見たくない。ただフルチンでいることが好きなんだ。。
本質的に文明は剝き出しの野生を好まないとはいえ、今の日本ほど「露出された性器」に神経質にならねばならない理由、僕にはサッパリわからない。エロ動画のモザイク処理なんかはむしろ「性器の猥褻性」をより強く演出する道具立てとしか思えないのだけどね。ようするに隠せば隠すだけ「隠すな、見せろ」という見る側の反応を引き起こすことになる(正のフィードバック)。人前では性器を露出すべきでない、という規範が強く内面化されていなかったなら、全裸になる瞬間のあの侵犯的興奮もありえなかっただろう(銭湯や飲み会で服を脱ぐときに誰もがきっと感じてるあれ)。してみるとベランダにおける僕の全裸快楽も文明的規範の産物ということになる。皮肉なことです。
話はここで変わります。
へずまりゅう、という「ユーチューバー」の初公判がこの前話題になっていた。「悪名高い」らしいその名前だけは辛うじて知っていたが、じっさいに観たことはなかった。彼はみずから「迷惑系」を自称していたらしい。どんなに壮大かつ痛快な「迷惑」を社会に与えたのか興味があった僕は、いくつか彼の動画を観てみたのです。
はっきりいってビックリした。
共演による売名目的でチャンネル登録者数の多いユーチューバーに押しかける動画がその主たるもので(「凸撃」というらしい)、あとは会計前の刺身を食っただの、首里城再建の寄せ書きに落書きしただの、Tシャツの恫喝返品だの、失うものがほとんどない都会のゴロツキやチンピラやキチガイが日常茶飯やってそうなことじゃないか。彼はただその一部始終を自分で撮影してネット公開したに過ぎない。
僕はもっとはるかに過激なイタズラで世を騒がせたものだと勝手に思い込んでいた。
とても文章にできないような、えげつなく卑劣で「非人間的」なイタズラをやらかしたに相違ないと思い込んでいた。
すくなくとも、暴力団の事務所に爆竹を何ダース分も放り込むとか、菅義偉はじめ政府の要人に遠くから卵を投げつけて失政の不満を喚き散らすとか、「皇居のお堀で泳いでみた」「むかしよく虐待された親を虐待してみた」「近所のパトカーのタイヤの空気をぬいてみた」「妹を犯してみた」みたいな動画をアップしたとか、その程度の小悪事はしているものだと思い込んでいた。
私は「迷惑系ユーチューバー」というものを大きく誤解していた。社会通念上「悪質」と言われかねない部分はあるにしても、彼の行為のほとんどはありふれた「迷惑」なのです。
人間というか生物はただそこに生きているだけで、周囲世界に多大の迷惑を与え続けている。「善良なる市民」であることを自ら疑わぬ連中が豚肉や魚を何食わぬ顔で食っている様子を見るたび、私の心は「生き物殺し」と叫んでいる。ああああ僕も純然たる「生き物殺し」なんだ。
生き物を日常的に食うことに微塵も疚しさを感じていない点で、僕もそいつも「迷惑な恥知らず」でしかない。ふつうに生きている、というそれだけでもうすでに暴力なのだ。食うものとして生きているというだけでスリーアウトチェンジなのだ。存在するものは他者の空間や資源を「必然的」に奪っている。つねに分解困難な廃棄物を排出し続け、同時代生物にも将来世代の生物にも迷惑を与え続けている。なにかにつけて「コスパ最高」だの「お買い得」だの喜んでいる日本の消費者もほとんどが「迷惑な恥知らず」であることを免れ得ない。そうした低価格が外国の安価な労働力の搾取の上で維持されていることを、彼彼女らはあまり考えようとはしない。「家族を愛する素朴な労働者」も、もし戦争が起これば軍需産業に雇用され「おめおめ」と銃弾製造に勤しむことだろう。その銃弾で内臓をえぐられる人間の被る「尋常ならざる迷惑」のことなど僅かばかりも考えない。「家族を食わせるため」という大義名分のもと一体どれだけの「迷惑」が世の中に加えられ続けたのだろう。だからさ、ただの糞尿製造機の分際で善良な市民面するなよ。お前らなんてもう生きているだけで大迷惑なんだぜ、ともっとお互い叫び合おうじゃないか。お前ら生き物なんか全員、ほんとうに救いようのない存在なんだ(でもそのことに絶望して自殺まではしなくてもいいと思う)。思索でも革命でも生活でも、その自覚の上ではじめようではないか。「親に迷惑をかけたくない」とか「社会に迷惑をかけるな」とか、そんな狭くてみみっちい迷惑談義はもうウンザリなんだ。
「迷惑系ユーチューバー」をめぐる一連の騒動を思うとき僕は、歴史に名を刻むという目的のためだけに神殿に放火したといわれている古代ギリシア人ヘロスラトスをつい連想する。ヒトラーやスターリンのように絶大な政治権力を利用して「人類史を混乱させること」が出来ない凡人にとって、罰金程度で済むような迷惑行為がせいぜいのところだ。世界にはこれだけ多くの人間がいるのだから、どんな卑小な手段を使ってでも有名になりたいという「向こう見ず」も一定数含まれているだろう。そのために必要なのは人生を棒に振る蛮勇だけだから。秀でた知性も超人的肉体も持続的努力も全く不要である。名を竹帛に垂る欲望の根はある程度誰にでもあるのかもしれないが、衆目を引く派手な「犯罪」を遂行してまで名を得たいという変態欲望の持ち主はごく少数派ではないだろうか。へずまりゅう、はそうした少数派のなかの「小物」に属していたという、ただそれだけのことなのだ。次回はもっと「反体制的」な「迷惑行為」をして「大物」を志してみてはどうだろう。三島由紀夫くらいには崇拝されるかもしれないよ。