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他人基準の指導方針
子供をメインに空手を指導するようになった頃、
「子供を空手に通わせる親は何を望むのか?」
を考えました。
・挨拶が出来る子にしたい。
・返事の出来る子にしたい。
・親が甘くしてしまう分、道場では厳しくしてほしい。
・他の習い事だと、子供が練習中に騒いでも軽く注意をする程度なので、厳しくビシビシと指導して欲しい。
など、実際に保護者に聞いた要望もあれば、自分も親なので、親目線で考えもしました。
もちろん相手は子供なので、基本は優しくではありながらも、上記の内容を全部採用していました。
当時は人生デザインなど学ぶ前でしてので、稽古中に子供がお喋りをしたりすると、「その子が悪い!」の視点でしか捉える事が出来ませんでした。
そんな悪い子供を放ってはおけないので、叱り飛ばして恐怖で黙らせていました。
時には涙を流す子供もいましたが、「男が泣くんじゃない!」と、言わないまでも思いつつ、厳しく指導するのが俺のスタイル!と思っていました。
正直なところ、当時の指導スタイルは、保護者には評判が良かったと思っています。紹介が紹介を呼び、労せずして人数が増えたので。
しかし、保護者に満足して貰おうとやっていたスタイルは、私のスタイルではなく、そもそも私のスタイルとは何だ?
と考える時期がありました。
何となく教えてはいるものの、自分の中にしっかりとした指導理念がなかったかのように思われます。
「空手を教える」「護身術を教える」「礼儀を教える」etc...
色々と思うところはありながらも、具体的に「何を伝えたいのか」がはっきり定まってはいませんでした。
そんな心情で、「何となく」教える指導者に教わる子供達は当然、「何となく練習に通う」のです。
そんな事とはつゆ知らず、やる気の無い子供には厳しく接し、見せしめのように我が子には特に厳しくしていたのでした。(結果は以前お伝えした通り、長女は空手をやめてしまいました)
そんなさ中「自分デザイン」に出会い、目の前の現実は全て自分の脳や潜在意識や思い込みなどから「自分でデザインしている」と知りました。
これは空手の指導でもそっくり当てはまるぞ!
そう思った私は、今までの自分の指導スタイルは、「保護者が何を求めているか」の他者基準であったことに気付いたのです。
自分は何を子供たちに伝えたいのだろうか?
「空手を教えたい」「礼儀を教えたい」「挨拶を教えたい」・・・
こんなことでは無かったのです。
私は「空手を教えたい」のではなく、空手「で」教えたいのでした。
では何を?
・空手を通して、今まで出来なかったことが出来るようになった時の喜びや達成感。
・最初は難しいと思っていても、続けていると出来るようになる事。
その指導理念を自分の中に設定した途端に子供達の稽古に励む姿勢は変化したのでした。
今回の教訓:「指導者の指導理念の定まっていないと、生徒の目標も定まらない」