鳥のいない鳥かご

ジュール・ルナールの『博物誌』のなかに、「鳥のいない鳥かご」という小文があったのを思い出した。小話みたいなものなのでそのまま引用したほうが楽なのだけど、本が手元にないので、ごく大雑把にまとめてみると、鳥のいない鳥かごを窓にかけているフェリックスという男が「ここに僕はほんらい鳥を入れてもいいのだけどあえて空にしておくんだ。そうすることでほんらい空を飛び回るはずの鳥が少なくとも一羽は自由でいられるのだから」と言うもの。

ユーモアともアイロニーとも付かない、なんとも不思議な余韻に浸らせてくれる。私はこういうの好物です。学生時代、これに触発されて、「赤ん坊のいないベビーベッド」という模倣作を書いたくらい。個体として生まれることで不自由極まる社会内存在として苦しむくらいなら、意識のない非個体的状態で「永遠の自由」を謳歌する方がより「自然的」ではないか、という気持ちが芽生えたのはその頃だった。

それ以来、このことは私の「思索勤行」における中心的問題となりました。昔に比べて私の思考作法はずいぶん「慎重」かつ「批判的」になったと思うし、慢性的厭世気分に起因する自己愛もずっと洗練された。だから当時に特徴的だったチンカス臭い嘆き節にはとうぜん我慢できない。それでも私はその問題意識の発生のなかに「命懸けの飛躍」を認めたいのだ。

「世界が存在すること」よりも「世界がそのように存在していること」にばかり目を奪われている「鈍感さ」を前にすると、私は虚しくなって発狂しそうになる。唯一の重大事は「現象の内容」ではなくて、「その現象がまさにあること」なのに。グランドキャニオンとか月の表面を見てはじめて「世界は神秘で溢れている」なんて吃驚している連中くらい馬鹿馬鹿しいものはない。そもそも何かが既にあること自体が吃驚すべきことであって、その「事実性」のほかはみんな些末事なのだ。およそある人間の知的鋭敏さは、その人間が何に対して驚くことが出来るのか、という点に掛かっている。

もっとも、この俗世の大部分を構成しているのは「驚かない才能」に恵まれた人間であって、「驚く才能」に恵まれている人間は、むかしからごく少数なのだ。「驚かない才能」に恵まれた人間にとって世界は「既成事実」のカタマリであって、「人生」の風景は「自明なこと」「当たり前のこと」で満たされている。「子供を作る」ということにしても、「この残酷宇宙で意識ある個体を発生させることは暴力そのものではないのか」などと慎重に思索する感性はそこには無い。「そもそも私はなぜ自殺しないで今日ものうのうと生きているのか」とも考えない。「人類史」とはこうした「無神経さ」の堆積に他ならないのです。

「驚かない才能」に恵まれた者にとっては、「平均的人間」であることを常に意識し続けることこそが「喫緊の課題」となる(その「平均的人間」なるものが虚構であるにしても)。「皆がしていること」「誰もがしてきたこと」という「既成事実」がそのまま「私がすべきこと」の根拠となってしまうのは、そのためだ。私はそんな「既成事実」などを一切知らない「ふり」をしたい。なんというか、そんな「おとぼけ」の身振りなくして、思索も文学も不可能だと信じる。

そろそろマスかいて酒のみたいので、を今日はこんなところで。

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