美青年もウンコする、美青年だからこそウンコする、文明社会は猛烈なウンコ差別の上に成り立っていることの再説
働こうとしない息子に「そろそろ労働しろ」と言い続ける親の心性は、召集令状を受け取って意気消沈している息子に「お国の為に頑張って来い」とか言いながら戦地に送りだした親の心性とほとんど何も変わらない。そのときの親の目に涙の滴が光ってようがなかろうが、そんなことはぜんぜん問題にならない。「やりたくないことをやらせる」ということがそもそも大問題なのに、しかもそこに「死と苦痛」が絡んできたら、もうこれはなまじっかな糾弾や非暴力運動では間に合わない。どうする「べき」か。
というふうな、「既成事実的暴力」にまつわるモラル論考を書くつもりだったのだけど、寒くてとっても虚しい心地なので、今日はスカトロジカルな雑考を少しだけ書いてみたい。
そのむかし「吉永小百合はトイレに行かない」なんていう冗談半分の伝説がもてあそばれていたけど、「綺麗な人」とウンコは出来れば結び付けたくないという人間は今も案外に多い。ああ、なんて軽佻浮薄の輩なんだ。ウンコを見下すのも加減にしろよ。人間とウンコを比べればウンコのほうがずっと偉いに決まっている。人間はウンコを焦らせることは出来ないけど、ウンコは人間をいつでも焦らせること可能だ。熊公八公のウンコ、紳士淑女のウンコ、カリスマ教祖のウンコ、天皇皇后両陛下のウンコ、スターリンのウンコ。ウンコというウンコは誰構わず所嫌わずその気になればトイレへといつでも駆け込ませることが出来る。人類史なんかウンコ史に比べれば屁みたいなものだ。ウンコはホモ・サピエンス以外の肛門からもひねり出されていることを忘れるな。ウンコを愛せない奴らは便秘になって爆発すればいいんだ。
ある人に一目惚れしてもうその人のことしか考えられなくなったとき、あの素敵な人はいったいどんな色のどんな質感のどんなサイズのどんな臭いのするウンコをケツの穴からひねり出すんだろうなんて考えてめっちゃ興奮するだろう? あの素敵男子のウンコを受け止める肉便器になりたい、なんていう家畜人ヤプー的妄想を他人事として気味悪がっている人間はいまだ性愛の妙味を知らない(性愛は必ず極端表現を取るのだ)。
あくまで直観的に、「若くて綺麗で童顔の男」ほどウンコは大きそうだし、臭そうだ。屁も臭そう。ついでに足の裏もキンタマもぜんぶ臭そう。
そう願うのはきっと私がいわゆる「ギャップ萌え」というものにすこぶる弱くて、「若くて綺麗で童顔なのにあんなに立派で臭くて男らしいウンコを出すのか」という胸キュン体験を真摯に追い求めているからだろう。性癖や対象のいかんにかかわらず、「ギャップ萌え」のあるところには、「矛盾のカタマリのような何かに侵食されたい」「世の中の硬直した二分法を破壊したい」という黙し難い究極願望があるような気がする。
「男らしさ/女らしさ」「文明的/野性的」「優しさ/厳しさ」「正義/悪」「知性的/反知性的」などの対立観念群にすっかりウンザリしてしまったとき、ある種の人間たちはその両極的価値を体現した何かを「幻想」に求め出す。「正真正銘のあるがまま」というファンタジーに実存的救済の糸口を求め出す。「可愛い顔なのに毛深い」「優しそうなのに残酷」「いつもツンツンしてるのに突然デレデレする(ツンデレ)」「女性なのに男性的」というふうな対象に興奮を覚える「性癖」が世にありふれている「理由」を説明しようとするとき、私はそんなことを考えないではいられないのです。まだこの研究は緒に就いたばかりなのでいずれもっと詳しくやりましょうや。黙って俺についてこい。
文明の飼い慣らしによって、人は「糞便を嫌う作法」をほとんど無自覚のうちに学び取る。しかし人間はなによりもまず「動物」であり、その偽らざる動物性の象徴こそ、糞便なのだ。フロイト用語でいうところの「肛門期」の幼児にとってウンチは自分の「子供」であり、それは養育者へのプレゼントなのである。ウンチは養育者と幼児の間のコミュニケーション・ツールであり、幼児はそのことをオムツを代えてもらいながらいつも全身で実感している。ひるがえって、ウンチを我慢することは反抗の意志の発現であり、そんなとき養育者はひどく迷惑する。ウンチを通して幼児は周囲の大人たちにその影響力をいかんなく行使するのだ。あるいはその身体的未熟さのせいで、ウンチを通してしかその影響力を行使できないとも言える。
おのれのウンチ権力に味を占めたそんな幼児にとって、「ウンチは臭い」という一般通念は存在しない。幼稚園児や小学生にはおおむねスカトロジーの趣味が色濃く認められるが、それはいまだウンチの威光をどこかで信じているからに他ならない。隙あらばあのときの権力快感を取り戻したいのだ。「うんこドリル」なるもののあの異様な大売れ現象はそんな幼児願望なしでは有り得ない。「ドリルや勉強は敵だが、うんこは味方、だからうんこドリルは味方、苦しゅうない」というわけ。単純至極。
ちなみに、「学校では大便できない」というあの不思議な現象は、ウンチと親しみを持ちすぎた幼児時代の反動なのである。「一人前の大人になるにはウンチなどをいつまでももてあそんでいてはいけない」というわけで、「衛生」にまつわる諸々の社会規範を内面化しつつある子供は次第に「反ウンチ派」へとあっさり転向する。「うんちは汚い、ゆえに臭い」という新原則が強固に打ち立てられ、たいていそれは死ぬまで変わらない(もっとも、超高齢に及んで自分が何ものなのかも分からなくなった老人がしばしば排泄物によるアクション・ペインティングに目覚めるようだけど、今日のところはそういった前衛的芸術方面には立ち入らない)。
だから、ある時期を以て子供は「うんち」という愛称をかなぐり捨て、やがて「糞」などとぞんざいに呼び捨てるようになり、ついには「ちょっとお手洗いまで」的なエチケット的曖昧語法によってその存在は巧妙に覆い隠されていくだろう。あたかも自分は排泄行為などしませんよ、と言わんばかりに。
ああ、いったいウンチくらい極端不当な嫌悪感を以て遇されてきたものはそう多くはない。世の中にはもっと「不潔」なものは沢山ある。何ものかをあえて排除しないと集団的結束感を維持できない人間の心性など、不潔さの極みじゃないか。そんな人間の卑劣な弱さを差し置いて、ウンチ臭いだの、おしっこ臭いだの、黙れ小僧ってんだ。まぎれも無くウンチは、肉体とのあまりの近しさゆえに憎まれている。ウンチを不潔視することを覚えない限り、人は「まっとうで善良な社会市民」にはなれない。「クリーンで明るい未来」という共同幻想を維持し続けるためには、ウンチは制度的に排除されなければならない。ウンチはあまりにも根源的であり、カオス的であり、人間の動物性をなまなましく語り過ぎる。人間の羞恥心を刺激し過ぎる。善良な市民個々人のケツの中の秘密をシリ過ぎている。
でも、それじゃいけない。人間という動物存在は、ウンチも含めての存在なのだ。美しいフィギュアスケート選手が氷上に舞うとき、ウンチも一緒になって躍動している。大統領が檀上で就任演説しているとき、ウンチもそこで演説しているのだ。二人の接吻はウンコとウンコの接吻でもあり、二人のセックスはウンコとウンコのセックスでもあるのだ。ある人が素敵に見えるのは、その人のウンチも同じく素敵であるからだ。あなたがある人間のことを毛嫌いするとき、あなたはその人間のウンチのことも同じくらい毛嫌いしている。
人を肉感的に好きになるということはだね、その人間の体から排泄されるあらゆるものをも愛するということに相違ないのだ。違うかい?
思慕恋情も極限まで進行すれば、相手を食いたくなる。必ず。そうならないと嘘だ。相手を食って同一化を果たしたい。神話研究界隈には「イエスは弟子の十二使徒に食われた」なんていう異端邪説的仮説があるけれど、それが「神との合一」を果たす一番の近道のように思えるのもまた事実。宗教的カニバリズムというのは人類史上けっして珍しいものではない。カトリック教会の聖餐式においてパンとワインがそれぞれイエスの肉と血を象徴しているのは周知の通り。
愛するからこそ食わねばならぬという衝動は、猛烈な愛に駆られた信者にとっては、ごく普通の感覚ではないか。オウムの麻原彰晃だって自分の血とか風呂の残り湯なんかを「ミラクルポンド」などと称して弟子に売っては飲ませていた。あんな汚いおっさんの体液なんか数億円もらっても飲みたくないけど、信者は尊師に夢中だからもう何でもありがたいように見えてしまうんだね。ああいう盲愛への志向性は、誰の中にも一定量がある気がする。その対象がブラフマンになるか創造主になるか天皇陛下になるかグルになるか観世音菩薩になるかサークルの先輩になるかグラビアアイドルになるか、その程度の違いなのだ。人間の崇拝欲動にとって対象は何でもいい。
とどのつまり、愛の狂気の目的は、その狂気そのものなのだ。世のなかの結婚生活というものがどれもこれも不潔で卑小に見えるのは、愛する人を食うか愛する人に食われるかしていつか同一化を果たそうという神話的狂気を微塵も感じさせないからなのだ。いままで生きて来ていろんな夫婦みてきたけど、どいつもこいつも取り返しがつかないほど所帯染みていて、以後二十年も三十年ものうのうと可もなく不可も無く同居するつもりでいる。よく化石化しないと思うよ。「恋人同士」もそうだ。どうして二人はおたがいに別個体であることに我慢できるのか? どこかで完全に合一し、そのまま消滅したいとは思わないのか? 「子供という愛の果実」なんか作らないで、この地獄的世界を離脱するための一世一代の盲愛的跳躍の契機を模索し続けるほうがずっと素敵で重要ではないか。放っとけ? ごもっとも。
乱文御免。