研精会OB連落語会と、小はぜさんの「百川」の話
研精会OB連落語会
三遊亭歌彦 真田小僧
春風亭一花 花見小僧
入船亭扇橋 高砂や
三遊亭わん丈 お多賀さん
〜
柳家小もん 浮世床 -夢-
林家つる子 お菊の皿
柳家小はぜ 百川
20230407
日本橋社会教育会館
この日の研精会は小はぜさんの初トリと銘打たれていたのですが、直前に抜擢真打の発表があり、その話題で大盛り上がり。賑やかな会でした。
抜擢昇進の報告に関しては、この日も含めなにやら一悶着(?)あったようで。
個人的には、当事者に対して仁義を通していらっしゃるなら、たとえ立ち会ったその日の発言にウーンと思うことがあっても、いずれ、高座のうえで嫌味のない笑いに変えてくださるならば、それでいいんじゃない? という気がするけれど。わたしは当事者じゃあないしね。
この日話してくださった天どん師匠のエピソードのように、心おきなく笑える話題に変わる日を楽しみにしたいところ。
* * *
さて。久しぶりにこの方のことを書いても、いいのかな。
初トリというおめでたい回なのに、真打昇進の話題にすっかりホールが沸いて、さぞやりづらいのではないかしら……と思ったけれど、「百川」の世界へときっちり連れていってくださった小はぜさん。
雲助師匠がトリのときにご自分のことを「おそうじ役」とおっしゃっているのを思い出し、客が使う言葉ではないのは承知のうえで、言い得て妙だなあと思ったこの日。
脂ののったものもそれはそれでもちろん美味しいし、ハレの日さながら華やかなもので目を喜ばせたいときもあるけれど、一番最後に味わうなら、一日を締めくくるなら、わたしは、こういう落語がいい。
トリが小はぜさんだから、前の方々も安心して大暴れ(?)できたのではないかしらん? なんて思うのは、さすがにちょっと贔屓目かな。
小はぜさんの「百川」、彼の人の口演で聴いた落語のなかでも、特に大好きな噺。もともと好きだったこの噺に、新しい観点を与えてもらって、最初に出会ったときの目が開かれたような感覚は、ちょっと忘れられそうにない。
「百川」は田舎者の百兵衛さんの訛りと、それに対する江戸っ子の早合点によって生まれる行き違いが楽しい噺だけど、そもそも、田舎者と江戸っ子では体内の時間の流れがことなることに気づいて。小はぜさんの高座をきっかけに、「百川」という噺の面白さに改めて出会えたように感じている。
前半、百兵衛さんの発する謎の言葉たちに翻弄されるときは、せっかちな江戸っ子もひたすらペースを乱されて、座敷のなかで相対したまま、空気が停滞している。
反対に、百兵衛さんの正体が明らかになってからは、完全に江戸っ子のペース。それまで止まっていた時が一気に流れ出すと同時に、店の座敷から長谷川町へと、場も動き出す。
時間の体感と、場の動きが連動していて、高座のうえに確かに立ち上がった噺の世界に、違和感なく連れていってもらえるような。終わって「ああ、いい時間だった」と、気持ちよく現実に戻ってこれるような。そんな落語。
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完全に憶測に過ぎないけれど、小はぜさんの高座を拝見していると、全体的に演出的な意図をこめて構成しているというよりは、一人ひとりの登場人物を丹念に描き出そうとした結果として、場の空気感までもが生み出されているような印象を受ける。
まだ江戸に来たばかりの百兵衛さんが、慣れない土地で奮闘する最初の一歩。はじめての奉公で、お客さんへの対応もこなれていないから、とにかく今持っているものだけでぶつかっていくしかない。
"田舎者"が、江戸の地や奉公勤めにある程度慣れてからでは、起こり得ないエピソードなんだ、ということに改めて気づく。
どれほどまでに、噺のなかの要素を細かく噛み砕いて、ひとつひとつ、よりたしかに積み上げようと苦心すればこういうことが可能になるのか、素人のわたしには想像もつかない。ただ、その胆力に驚嘆してしまう。
胆力って、その場かぎりの度胸という意味合いではなくって。愚直なまでに地道に向き合うことを引き受ける覚悟や忍耐力。のようなもの。
器用貧乏っぽい自分に引け目を感じてきた人間としては(大して器用でもないのに!)、こういう方の高座に、二ツ目時代に出会えてよかったな、としみじみ思う。いや、実際のところがどうなのかは存じ上げないけども。あくまでも高座から受ける印象のはなし。
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言葉の意味合い。声や身体の表現が意図する所。
そういった表現者の計画線上にあるものや、受け取り手の予感を超えて、予期せずみえてくるものをとらえることが、ごく稀にある。
それを勝手な思い込みだとか、主観の拗らせだとか、馬鹿にしたい方もいるようだけど、直接描かれていなくともみせてしまう、それを成せるのが芸のちからではないかしら? と僭越ながら思ったりするわけであります。
実際には一人ひとり細部は違っていたとしても、束の間、同じ景色を共有する。
この目に見える以上のものをまなざすために、この幸福な幻との出会いのために、わたしは「表現する人びと」を見つめようとし続けているのかもしれない。
と、ちょっと大きな話に飛躍してしまった。
小はぜさんの「百川」を初めて聴いたとき、高座の上にいるその人と観客であるわたしが、なんだか空間も距離をも超えて、上手に握手ができたような、そんな心持ちになったのでした。
きっと、これからも聴くたび、思い出すんだろうなァ。