扇遊師匠の描く"女たち"が気になってしかたがない|入船亭扇遊独演会
入船亭扇遊師匠の独演会にお邪魔するのは、今回が初めて。
寄席以外で最初に拝見したのは、たしか2020年夏の紫演落語会だと思う。紫綬褒章を受章しているさん喬師匠(2017年)、雲助師匠(2016年)、権太楼師匠(2013年)の三人で開催されていた会に、2019年に受章した扇遊師匠が加わって、最初の会だった。(そしてそれ以来、いまだに再開されていない涙)
聴いたのは「寝床」。旦那の怒りのボルテージの上がり方があまりに鮮明なのにすっかり取りこまれて、ずっと笑っていた。怒りの表現のなかでも品が失われることは決してなく、「端正な芸」とはこういうことを言うのかな、なんて思ったのをよく覚えている。
その後、二人会やホール落語などにちょくちょく足を運ぶようになってもその印象は変わらなかったけれど、今回は「こんなに明るいんだ」という新しい感覚を得てきた。
「明るい」といっても、照りつけるような夏の陽射しではなくて。強い光が当たれば、周縁には自然と影が生まれるけれど、そうではなく、足元の隅々まで届きそうな、やわらかな陽だまり。
扇遊師匠が今回話してくれた落語のなかに住む人びとは、そんな陽の気配のなかに在って、心にも、人と人の間にも、影が差すことはなかった。
噺小屋 弥生の独り看板
入船亭扇遊独演会
扇ぱい 道灌
扇遊 棒鱈 / 三井の大黒
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扇遊 明烏
20230325
国立演芸場
扇遊師匠の描く「女」が気になって仕方がない
今回の三席がどれも明るくて良い噺だったのも、受けた印象に多分に影響しているだろうとは思う。
しかしながら前回も、朝日名人会で扇遊師匠の「鰍沢」を聴いたときに、女性に向ける目が随分とやわらかいな、と思ったのである。
これまでわたしが聴いたことのある「鰍沢」の演者さんが、それぞれ大変鮮烈にお熊の変り身を演じられていたからかもしれない。扇遊師匠版は、お熊さんがもっとも終わりまで、ただの「人間の女」だった。
「女」といえば、今回も「棒鱈」の芸者さんたちが印象的で。
田舎侍の例の唄に対して、芸者さんたちはお決まりの微笑みを浮かべるのだが、そこには馬鹿にしたような含みが一切表れない。よくある「ちょっと!笑っちゃダメよ、(一応)お客さんなんだから」的な、珍獣を見るような目ではなかった。
心がきれいだからなのか、それとも彼女たちが接客のプロだからかはわからないけれど、「棒鱈」はデフォルメ化した田舎者をとことん揶揄した噺だと思っていたので、芸者さんたちの意外な態度に驚いた。
田舎侍をバカにする隣座敷の町人と同じように、芸者さんたちにも他所者を嘲笑う態度を透けさせるのは、流れとして特別違和感は感じない。
にもかかわらず扇遊師匠は、女たちの職業人としてのプロ意識や人としての分別を、こんな細かな部分ですら(意識的にしろ無意識的にしろ)流すことなく描き出してくださったんだ……!そう思うと、とても嬉しかった。
だって、単なる肉塊としての女ではなく、そこには彼女たちの人格を見出せるような気がするのだもの。
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そんなふうに師匠の描く女たちを見つめていると、披露興行の挨拶などで語られる、扇遊師匠は大変な色男だというお噂と、ふと繋げてしまう。
初めてお噂を聞いたときは「そうなんだ、意外〜」(超失礼)と思ってしまったものだが(ちなみに、火野正平好きの友人は「あたし結構わかるわ〜」と言っていた。渋すぎやしないか)、基本的に高座にはその方の見ている世界の一部がどうしたって出てしまうのではないかと思っているので、女の人のかわいらしさや愛すべき部分を強めに抽出して描いていらっしゃるのをみると、もしや……? なんて、下世話なことに思いを巡らせてしまう。
「青菜」や「短命」、「厩火事」などクセの強いおかみさんも、扇遊師匠で聞いてみたいなァ。このあたりはやっぱり、長屋のぞんざいなおかみさん像なんだろうか?
ちなみにわたしは白酒師匠のまくらを全部鵜呑みにしている、生粋の桃育ち落語ファンなので、師匠のお酒にまつわるお噂もチラホラ耳にしている。
こちらに関しては、扇遊師匠ご自身がラジオご出演の際に「たとえ下戸の方が酔っ払いの描写は上手いと言われても、やっぱり『金がなくてもどうにかして酒を呑みたい』という気持ちは酒呑みでないと」(意訳)というようなことをお話しされていたので、まちがいなさそうだ。お酒の噺にも出会うのが楽しみ!(まだ「試し酒」くらいしか聴けていないのだ)
扇遊師匠の陽に包まれた高座のいい話でまとめるはずだったのに、なんか変な話を書いてしまったね。。エヘ。
ともあれ、これから師匠の高座を重ねて観て聴いて、今回感じたことがどう変化していくのか、そんなことにもワクワクしている。
来年あたりには、土下座で頭が地面にめり込んでるかもしれんぞ。