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2024年10月 わたしと他者のこと
京都に移り住んでからちょうど2年が経った。2年前の10月は、本当にどうしようもない奴だった。苦しい現実に、希死念慮ばかりを頭に思い浮かべて、明日のことも考えられなかった。
昨年の10月。以前と変わり始めていた生活に慣れ始めていた。京都という街に少しづつ順応していきながら、握れなかったカメラを徐々に持ち始めた。短歌という世界を知り、それから空に青。さんのお写真と短歌のコラボ作品も作らせていただいた。
今思えば、昨年の10月から少しづつ変わり始めていたのかもしれない。きっかけなんて後にならないと気づかない。
なら今を精一杯に生きるしかない、後になった時にまた気づけるように。
1,変わりゆく自分の進む先
自分の中で、心が変わりゆく感覚があった。胸をつかえていた悪いものがボロボロと欠け始めていたから。環境を変えると目に触れている世界も変わる。単に視野が広がっただけかもしれない、けれど今まで感じてきたような感覚とは明らかに違っていることだけが分かった。
今思えばずっと頭の中は過去に縛り付けられていたと気づく。あの頃の方が良かった、楽しかった、幸せだった。そういったことを頭に巡らせていたばかりいたような気がする。良かった過去というものがゆっくり色褪せていく中で、変わりゆく自分の進む先が不明瞭でありながら、見えてきたような気がするのだ。
僕の1ヶ月記録の中で、「気がする」という言葉がよく出てくるが、その「気がする」ということがとても大切で、感覚的なものを感じ取ることがきっかけになるし、そこから全てが始まっていくと思っている。
2,他人軸
自分が置かれている立場や立ち位置。その場所を把握するためには「客観的に自分を見る」必要がある。今まではこの「客観的に自分を見る」という行為の解釈を間違っていたことに気づいた。どういうことかというと、客観的に見るのはあくまで自分だけであって、『過去の自分』と『今の自分』を見比べること。簡単なことを言っているようで、これがすごく難しい。なぜなら、客観的に自分を見るという過程の中で、「第三者が見る自分」まで考えてしまうからだ。『自分を見ること』と『自分を見ている人のことを考える』ことは近しいようで違う。つまり、フォーカスが自分にあるか、第三者にあるか。今まで僕は第三者にフォーカスが合っていた、ということになる。
どれだけ自分が他人軸で生きてきたかを思い知った。
3,これからの意識
ちょうど一年前の1ヶ月記録にも残していたけれど、「第三者が見ていた、過去の自分に対する固定概念」というXでのポスト。当時の自分を見た時に、いかに他人軸で生きらされているか、というのがよく分かる。自分のことを見ていながら、常に誰かのことを考えている。もうそんなことを気にせずとも、他者は勝手に自分を良いようにも悪いようにも解釈するし、勝手に評価を付ける。他人の感情まで意識していたらもういよいよ何も出来ない。
第三者が見ていた「過去の自分に対する固定概念」は、絶対に剥がすことのできないものだから、それらを全て受け入れて生きていくしかない。どれだけ今の自分が良い方向へ変わっていたとしても、ベースになる部分は塗り替えられない訳ですから、背負っていくものは少しづつ増えていく。
— 佐野夜 (@sano_yoru) September 28, 2023
結果的に得られたことは、僕がやりたいことはやればいいし、やりたくないことはやらなくていいということ。僕が起こす行動に誰かが責任をとってくれるわけじゃない、全ては自分に帰化するから。そこにお金が発生していないのであれば、好きなタイミングで自分が撮りたいものを撮って、作りたいものを作って、その度に世に出せば良い。
要するに、自分らしく生きていいということ。もっと自由に、今までよりも自分を大切にしたほうがいいということ。自己中心的なことではなく、他人にフォーカスを向けてピントを合わせるのではなく、ピントはあくまで自分にありながら、ファインダーの中に誰かが居るという程度の状態にするのが一番良い。誰かはボケていたって良い。鮮明にする必要はないから。
そうして意識するようになってから、かなり生きやすくなった。そして今月はかなり実感した。
4,他者に対しての割合
今が一番自由なはずのに、ずっと縛られていた。その縛りをかけていたのは紛れもなく自分自身だったし、その縛りはずっと透明で見えなかった。いや、本当は見えていたはずなのに、見えないようにしていたのかもしれない。
自分と向き合う為に書いているこの1ヶ月記録でさえ、誰かに見られることを意識していた。世に出すものなのだから見られるということは少なからず意識しているけれど、そう考えてもなお他者というものに対しての割合が高すぎたことに気づいた。
なにより今月一番感じたことは、バカにしたり、舐めてくる人間には容赦しないこと。自分も、自分の大切なものや人を傷つけようとする人間に慈悲などいらない。僕はそれらを守る必要があるから。優しい人間であること以前に、後先何も考えずにものを言う人間を大切にすることは一切しないし、僕にとって必要なくなった。
先月の1ヶ月記録に書いた、『どんな状況に置かれてもないものねだりで、その中間のちょうどいいバランスを保てる生活に変えていきたい』ということについて書いた。今月も来月もまだそれは出来そうにない。まだやらなきゃいけない問題が残っていて、年内に終わりそうな目処が立っているから、あと少し、あと少しの間追い込んで、ちょっと無理をして生きていこうと思っている。こうなりたい、こんなことをしたいを実現する為に。
これから出会っていくであろう全ての人が、幸せに生きて、幸せに死んでいくその道中に、僕という存在がいられるように。
また来月。