見出し画像

日記/珈琲とくるまの娘❷

「生きている珈琲」を出て河原町の歩道を歩く。この日は清々しい正午だった。本を読むのは会社の事務所で読むことが多い。土日の勤務のみ1人で店を回すので、1人になれる時間が多いから。きっかけはなんだったのかわからないけれど、家の中で本を読むことが出来なくなった。家に1人の空間はない、いつも家族の誰かしらが家に居るから、かえってそれが心を苦しくさせてしまっている。家族。「くるまの娘」も家族がテーマである。この本は私の為にあるのだと書いていて思う。

河原町の歩道には屋根がある。雨が降ったとしても濡れないし、陽の光を直接浴びる必要がない。撫でるように風が肌に触れる、薄いTシャツの隙間を通っていく風に夏を感じて、結んでいた唇が少し緩んだ。
河原町の歩道沿いを真っ直ぐに進むと四条大橋が見えてくる。橋を渡り、南座の横をさらに歩いていく。祇園四条は昔からよく訪れているから、この辺りの地形は知らない間に分かるようになっていた。1つ目の信号を右に曲がると、看板が見えてくる。「ラテン」という喫茶店。二度目の珈琲はここで飲む事にした。

店に入ると、母より少し歳上ぐらいの方が案内してくれた。どの席でも構いませんと言ってくれたので、右奥の席に座る事に決めた。後ろの席に文庫本を読んでいる女性が居たからだ。本を読んでいる人が居る喫茶店にハズレはない。堂々とカバンから「くるまの娘」を取り出して、続きを読み始める。熱い珈琲の良さを「生きている珈琲」で知ったので、今度はあえてアイスコーヒーにした。お腹が空いていたので、サンドイッチも頼んだ。背の向こう側で本を読んでいる女性を感じながら「くるまの娘」を続きから読み始める。そうこうしている間に、珈琲とサンドイッチが届いたので大きな口で頬張った。

*

文学の世界に入り込んでいる人を見ると、独りではないなと感じる。小学生の時「ファーブル昆虫記」が好きでよく読んでいた。本の世界に没頭する事も好きだったし、知らない世界を知る事に楽しみを感じていた。
授業間の休み時間に毎回本を読む子が居た。
’’根暗な奴’’というレッテルを貼られるのを見たり聞いたりしていると、人前で本を読む事が出来なくなった記憶がある。「独り」になるのが怖かった。

高校に上がると、写真部は”根暗”だと言われていた。「写真」と「本」を好む人間は根暗に見えるという事から、徹底的に避けた。大人になった今、その両方を好むようになった。時々私は、根暗なのだろうかと考える事がある。私は、独りなのであろうか。時々何者なのかわからない時がある。

*
かつてブッダは、孤独は悪いことでは無いと説いた。彼は、孤独や孤高とい
った状況を良しとする言葉を多数残している。

「孤独に歩め。悪を成さず、求める所は少なく。林の中の象のように。」

法句経23章330節

押井守監督の映画「イノセンス」。作品の中で、素子がバトーに放った、ブッダの一節である。

背もたれの向こう側で本を読む知らない女性、学生時代の記憶に、素子が言ったブッダの一節。「くるまの娘」を読み進めていた時、それらに付随して記憶媒体の中枢から押し出されるように、押井守監督の言葉を思い出した。

「たとえ一緒に居なくても、遠く離れていても、触れ合うことが出来なくても、それでも互いに存在を感じあえるという関係こそが理想ではないか。というテーマを描いた。」


いいなと思ったら応援しよう!