【劇評】何歩も踏み込んだ『逃亡』|2024/8/15|三人之会|『逃亡』再演のための試作上演
・高行健の『逃亡』
『逃亡』とは、ノーベル文学賞を受賞した作家である高行健が1989年に脱稿した戯曲である。
1989年6月4日、北京の天安門広場で民主化運動に参加した学生や市民たちが軍隊によって強制退場を迫られ、多くの犠牲者が出た。後に「六・四天安門事件」と呼ばれるこの事件をフランスで聞いた高行健は、異国の地でこの『逃亡』を執筆した。
『逃亡』のストーリーは比較的シンプルで、時空の定まらない廃墟に中年・青年・娘の三人が抗議運動の参加者を狩る軍隊から逃げて隠れ、最後に見つかって殺されてしまう物語である。『逃亡』という会話劇は象徴的ではあるが、登場人物三人の関係とそれぞれの人物像を緻密に描いており、当時の中国社会と中国人像を反映した一作とされている。
高行健自身もそれ以来中国に戻ることが無く、事実上逃亡生活を迫られた。このため、この戯曲、特に劇中の中年役を彼と重ねて解釈されることが多い。
・三人之会と『逃亡』
今回『逃亡』の試作上演を企画した三人之会とは、演出家の奥田知叡が生きているうちにどうしても一回は仕事をしたいアーティストニ名と組む三人組ユニットのことである。
ただし、三人之会の活動に伴って関与する人の輪が広がっていき、奥田知叡氏の手掛ける企画に参加する人数もだんだんと多くなっていく。
もしかしたら、群衆の「衆」が中国漢字で「众」と書くように「三人」とは不特定多数の人を意味しているのかもしれない。
去年(2023年)10月、三人之会はストレートプレイの形式で『逃亡』をSCOOL(東京・三鷹)で上演した。200リットルの本水を使用したセットで、陰湿な廃墟の雰囲気が効果的に表現されていた。
その時「三人」の一人として企画に加わった映像作家・田詩陽は知る者ぞ知る現在の北京の風景をプロジェクターで映し出し、『逃亡』の話を現実と結びつけた。後に奥田氏に聞いたところ映されたのは中央戯劇学院の裏門で、『逃亡』の時空が1989年の北京であればそこが舞台になったかもしれないという。
今回の試作では、前回娘役を演じた新上貴美氏が再び出演した。演出助手を務めた三谷亮太郎氏がハンドパン・ハンドドラムの奏者として参加し、新たに能楽師・清水寛二氏が音声出演の形で加わった。
様々な表現手法が試された実験的な上演だったが、筆者から観ればしっかりとまとまった試作と言えよう。
・確かなる感覚
今回の試作上演は一日の午後に三回行われた。毎回の長さは30分ほどしかないが、三回とも充実した30分だった。
演劇空間全体の暗転から始まり、観客の目が暗闇に慣れると同時に清水寛二氏の重みのある声が聞こえてくる。作者の高行健が天の声のようになって台本を一人で読み上げているかと思っているうちに、照明が明るくなる。
清水氏による声の出演は終始ただならぬ存在感を示し続けるが、目に見えるのは舞台空間の上手に座る新上氏と、下手でハンドパンを手にする三谷氏の二人しかいない。
簡素な人員構成ではあるが多角的に観客の感覚を刺激したといえよう。
上演の中心となった感覚は聴覚だった。
清水氏の声は役に固定されずにセリフを読み上げていた。最初は映された字幕と対話していたが、新上氏と対話することもあった。
「人民」や「人格」「殺し」など重要と思われる言葉は清水氏によってお能の謡のように発声され、一層重々しく感じられた。
透き通ったハンドパンの音は舞台空間に深みを与え、ハンドドラムと効果的に組み合わさっていた。時にセリフの作る世界に観客を没入させ、時に観客をぞっとさせて注意を引き戻す。
このほか、新上氏が本をめくる音、小さな舞台のような紙細工に墨汁を絞る音も劇場内に明白に響いていた。
視覚面では多くの情報が観客に与えられた。
セットの上手には俳優の新上氏が座って一冊の厚い本を読んでいる。隣にはヴィデオカメラが固定され、小さな紙細工を撮影しそれをプロジェクターで拡大して映していた。
紙細工には文字の書かれた細長い紙切れが密集してぶら下がっており、劇場の暗幕を想起させた。
プロジェクター上で読み上げる声と共に高行健の『ある男の聖書』の一節が映し出された時には、各行の文字が重なり合い、まるで血が流れるように徐々に下へ流れて展開していった。
上演が終盤に近づくと、新上氏が点けた煙草の匂いが空間内に漂い、様々な感覚が満たされ一種のクライマックスを迎えた。
しばらくすると音声が途絶え、照明も暗くなり再び何も見聞きできない無に戻った。
最初に感覚が徐々に増えていったのと同様に、終盤では感覚が次第に消えていく。今回の試作に対する理解は人それぞれと思われるが、この感覚の変遷は観客と共有できたように思う。
・メタ演劇的な観方
『逃亡』の登場人物である中年・娘・青年は、プロジェクター映像や清水氏の声、新上氏の演技を通して異なる形で表現されており、流動的な存在となっている。
ヴィデオカメラで撮影されていた紙細工に新上氏が墨汁を絞り入れたり、手を入れて墨汁で手を汚すことで舞台空間が重層的に表現されている。つまり、最も外側に位置する演劇空間に映し出されているのは最も内側の紙細工の中で起こっていることである。さらに新上氏の手は映像と実際の手と同時に見ることができるため、異なる空間を跨いで存在するように見える。
このような重層的な表現は、メタ演劇的な観点を示唆している。
筆者が観劇して理解したのは、高行健の『逃亡』をベースに内包されたもう一つの物語である。
それは静かな夜に一人の女性が高行健の『逃亡』を繙く話だった。
黙読された『逃亡』の部分が清水氏の声として具現化し、時に女性が声を出して心の中の声と会話する。いずれにせよ、本を読む女性は『逃亡』の中の娘役に重ねて解釈するのは難しいように思われる。実際、女性が声を出したセリフの中で、娘役のものは少なかった。
この女性は、ただ『逃亡』という戯曲を読むだけではなく、墨汁を紙細工の舞台に絞ったりもしていた。これは声を出したセリフと同じように彼女が『逃亡』をインプットしながら、自分なりの何かをアウトプットしているように見えた。
終盤に近づくと、墨汁を絞って触った女性はまた本を手に取った。流れる音声と共に彼女は流し読むように本をめくる。まるで『逃亡』の最後を焦って知ろうとするように。
・何歩も踏み込んだ試作
今回の試演では、観客は女性の役者とともに『逃亡』のどの人物の立場にも立つことができた。
今回の試作では、プロジェクターで映される文字化けしたような長文があった。
面白いことに、演出の奥田氏がその長文の漢字を一部中国語読みで読み上げた。
これは、日本語を勉強し始めた中国人が読めない漢字を中国語の発音で読む様子を想起させた。中国語を勉強し始めた日本人も同様に分からない漢字を日本語で読んでしまうのだろう。日本と中国は漢字の文化を共有しており、この文字化けの映像と言語混淆の音声が表現するように、互いに何かの理解を持つと同時に誤解も持っている。
とはいえ、理解しようとすることには意味がある。今回女性役の新上氏が『逃亡』を読もうとすることも、SCOOLで『逃亡』を再度舞台にしたことも。
六・四事件以降、政府の誘導で多くの中国国民は経済の発展に注意の重きを移している。政治について意見を言うことは検閲されると同時に、必要でない、賢くないこととみなされている。
日本の状況は中国とは異なるが、政治に関する話題は日常で敬遠されることも多い。高行健が『逃亡』の舞台となる時空を曖昧化したのは、さまざまな国で上演される際に、その国の人々にとって自分を見つめ直すための鏡となるよう意図しているのかもしれない。
今回の試作は、一日の午後で三回も行われた。特に二回目では墨汁を絞る音が大きくなったり、映像の墨汁が赤く見えたりしたように、細かい違いも見られる。
表現の手法といい題材の理解といい、今回の『逃亡』試作は、前回のストレートプレイより何歩も踏み込んだと言えよう。
衛かもめ(小説家・ライター)
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