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中国文学・演劇との関わり|2023/8/20|奥田知叡

(以下の内容は、2023年8月〜10月に実施した三人之会の第二回公演『逃亡』クラウドファンディングに際し、「作品制作」と題し7回に分けて発表した文章をまとめたものです。編輯:衛かもめ、奥田知叡)

 こんにちは。

 三人之会主宰の奥田です。

 今日は私と中国文学、演劇の関わりについてお話ししてみようと思います。

 初めて中国文学を読んだのは小学1年か2年頃でした。小学校に置いてあった「三国志」にハマり、一時期は絵本、小説、伝記と様々な「三国志」を読み漁りました。

 同じ頃、無料で開催されていた中国語教室に通い始め、字幕付きで中国ドラマを見るようになりました。まず見たのは1996年に制作されたCCTVの「三国志」。そのスケール感、ロケ地の広大さ、動員された人数の膨大さは今見ても圧倒されるものがあります。その後も「大明王朝」「孫子兵法三十六計」「铁齿铜牙纪晓岚」「雍正王朝」など、中国語で「老戏骨」と呼ばれるベテラン俳優が多く出演しているものを見るようになりました。普通、時代劇の見どころの一つは戦争シーンなのですが、「大明王朝」、「雍正王朝」の二つは大きな合戦シーンがなく、ほとんどのシーンが会話で進行していきます。

 私の演出では俳優の身体以外に、音楽・美術・映像といった様々なメディアを使用しますが、台本には詩ではなく台詞で書かれた戯曲を選びます。「台詞」への憧れが、私の演出、演劇観の根幹になっています。

 さて、そんな中国ドラマ好きが高じて、大学では中国文学科を専攻したかったのですが、教職が取りやすいという両親の意向で国文学科を受けることに。ちょうど大学生の頃地元の演劇サークルに参加するようになったのですが、そこは「リアリズム」と呼ばれる明瞭なセリフ、リアルな演技を目指しており、いろいろあって(割愛)演出を志すことになりました。




 セリフを聞いたり読んだりするのが何よりも好きだったのに、なぜそれを自分で発することを諦めたかはまたの機会に置いておき、演出をしっかり学びたい私は、中国の演劇学校に留学することを考えました。

 もともと中国ドラマが好きだったので、そこに登場する俳優たちがどのような訓練を受けていたかも調べるようになったのですが、その際いつも目にするのが、中央戯劇学院という学校です。

 この学校は三人之会で上演する『逃亡』の原文にも登場しますが、北京の東城区に位置しており、天安門や故宫、什刹海といった北京の中心地にも近く、(現在は機能の多くを昌平区という郊外に移転しています)、文字通り中国を代表する、国立の演劇学校(大学)です。学部、大学院(修士から博士)があり、演技専攻・演出専攻・舞台美術専攻・舞踊専攻といった多くの領域に分かれています。日本でもよく知られている中国の俳優の多くが、この学校の出身です。

大学食堂での写真


 2018年春、期待に胸を膨らませながら北京での留学生活を始めたのですが、そこから私の演劇観は大きな大きな変転を遂げることに…


 私が2019年から通い始めた日本の養成所 劇場創造アカデミーは、「アングラ世代」と呼ばれる演出家たちがカリキュラムを組んでおり、私が大学生の頃、そして中央戯劇学院で学んでいた「リアリズム」とは大きく異なる演劇論のもと指導を行っていました。

 いわば水と油。

 それに、もともと私は中国の話劇と呼ばれるリアルな会話を重視する演劇を好んでいたのですが、今回三人之会で上演する「逃亡」の作者、高行健は話劇とは正反対の演劇観を持つ作家です。話劇の革命者と呼んでいいでしょう。

 リアリズムの重視から、実験・前衛・アンダーグラウンドへと、いわば大きく「転向」したわけですが、なぜこうなったかはまたの機会に。

 引き続き北京の演劇学校、中央戯劇学院に留学していた時のお話をしようと思います。

 中央戯劇学院は東城区の旧校舎、昌平区の新校舎に分かれており、昌平区は北京郊外に位置しているため交通の便は悪いものの、広大な敷地を有しており、日本で言えば総合大学並みの規模を誇ります。

 それが国立の大学で(現地の人にとっては高額ですが、一年の学費は日本円で約30〜40万ほどです)、舞台芸術(演劇のほか、舞踊やミュージカル、伝統演劇の専攻などがあります)と映像芸術が専有しているわけですから、日本では考えられない厚遇といえますが、中国語には「天下没有免费的午餐」(タダで食えるご飯はない)という諺があり、演劇で何を表現するか、どう表現するかを政府が管理したいからこそ、多額の資金を費やして教育の環境を整えるわけです。

 私の好きな中国の俳優に王学圻(ワン・シュエチー)(多くの映像作品に出ていますが、実は林兆華が日本で『ハムレット』を上演した際出演しています)という人がいますが、彼は「中国人民解放軍空軍政治部話劇団」という劇団の出身です。これは中国の軍隊である人民解放軍に設置された劇団で、設立年はなんと1950年。日本の自衛隊にも楽隊はありますが、劇団があるという話は聞いたことがありません。

 軍隊が演劇の劇団を抱えており、しかもその中からトップクラスの舞台・映像俳優が出ています。この辺りの事情を知ると、中国政府が演劇をどうみなしているのか一発で推測できます。


 さて、話を中央戯劇学院に戻します。コロナ以前の話なので今の状況はよくわかりませんが、2018年当時は学部生とおそらく博士課程が昌平区で活動しており、一部の学生と修士の学生が東城区の校舎で学習していました。

 東城区校舎は南鑼鼓巷(この通りはあとで出てきます)と呼ばれる北京の有名な観光街そばに位置しています。通りは京都で言えば河原町、東京でいえばそうですね…渋谷の交差点(通りではありませんが)なみに混雑しており、土日は学校から出るのも一苦労なのですが、その観光街から左右に無数の細道が走っており、そこには胡同と呼ばれる北京の古民家が広がっています。景観を保護するため北京の中心部一体は高層ビルを建設することが許されていません(京都みたいなイメージですね。よく、中国の北京と上海について、東京と京都のイメージ?と聞かれるのですが、実は真逆です。北京は古い都市なので、京都と同じように都市全体が正方形の形をしており、東西南北がしっかり分かれています。あまり知られていませんが、終戦時はまだ城壁が残っていました。一方上海は比較的新しい都市で、近代になって建てられた西洋の建築物も非常に多いです。東京に似ているでしょう?)。中心の大通りは観光地のためゴミゴミしていますが、一歩脇に入れば古い街並みが広がっており、とても居心地のいいところでした。

 中国の大学はどこも全寮制のため、校舎の敷地内に中国人学生の寮と、留学生用の寮があります。昌平区の方に行くと、留学生は巨大な団地みたいなところに入れらるのですが、東城区の方はわずか三階の古いビルで、こぢんまりとしています。朝になるとビルの外から滑舌練習のための早口言葉が聞こえ、夜になると課題が終わった筋肉ムキムキの学生たちがバスケに興じます。食事の写真は前回の記事でお見せしましたが、大学の食堂が基本朝昼夜、そして土日も(おかずはほんの少しになります)食事を提供しており、食住に困ることはありません(衣の方も中央劇学院は面白い慣習があるのですが、機会があればまた書きます)。

 敷地には二つの寮のほか、東側はピアノを備えた小部屋が7、8?ぐらいが並んでいました。中央には古い稽古場があり、一階には卒業生の写真がずらり。二階にいくつかの稽古部屋があり、そこが一番古い建物ということでした。北側の方には食堂と、2、3建物があるだけ。学生も多くなく、非常にこじんまりとしていました。


 演劇に集中どころか没頭できる環境ですが、外部との交流が禁じられることはなく、日本の養成所では養成期間は外部への出演が禁止されることが多いと思いますが、中央戯劇学院の学生は期間中ドラマや映画に出ることもよくあります。(このあたりは『逃亡』でも言及があります)そして4年間が終われば、制作専攻は国立の劇場に勤務し、俳優の専攻者は事務所や公立系(給料が発生する!)の劇団に所属して活動を続けます。日本の演劇専攻が置かれている大学では卒業後演劇に関わる人は少数で、多くは就活をし一般企業に就職をしたがると聞いたことがありますが、この辺りの事情も真逆です。

 何より重要なことですが、日本の場合、(舞台)俳優になりたいと親に言うと(食っていけるか)心配されることが多いと思いますが、中国では舞台俳優の地位が非常に高く、老師(先生)と呼ばれて尊敬されています。Twitterでも書きましたが、中央戯劇学院の学生は一専攻につき、一学年20人。そして演技専攻の場合、私が行った時は応募者は2万人。中国全土から集まってくるわけですから、身体条件が優れているのは当たり前。それと、これも日本ではあまりない現象だと思いますが、中国ではすでにドラマや歌などでブレイクした若い俳優が中戯(略称です)の学部生として入ってくることもあります。すでに売れているわけですから、4年間大学に通う必要はないように感じますが、中戯にはそうした人たちがきます。


「俳優の卵」と聞くとつい、昼はオーディションを懸命に受け、夜は遅くまでアルバイトをする苦学生のイメージを抱きますが(私が古すぎるだけかもしれませんが…)、『逃亡』に登場する娘はこういう苦学生のイメージとはむしろ正反対に描かれている可能性があります。

 もちろんこの戯曲が書かれた1980年当時はここまで倍率がイカれてはいなかったと思いますが、それでもこの中央戯劇学院に入った時点で、その人は俳優として(さらに社会的にも)「勝ち組」に入るのです。在学中は様々な現場に顔を出せますし、北京の中心部に位置していますから娯楽や流行に遅れることもありません。キラキラとしたイメージがピッタリ合うでしょう(面白いのはキラキラ度は専攻によって変わるそうで、一番オーラがなく不健康さを醸し出しているのは映像(カメラ)専攻だそうです)。

 つい、脇道が長くなってしまいました。本当は私と師匠の(ポスターとの)出会いまで話をしたかったのですが、それはまた今度。写真をあまりお見せできず申し訳ないのですが、とある事情で留学中の写真は食事以外ほとんど削除してしまったのです…

 今日は前々回のアップデートでお話しした中国・北京の国立の演劇学校(大学)、中央戯劇学院について引き続きお話します。
 聞いたことがない方が大多数の学校だと思いますが、実はこの学校、日本のとある「種」の演劇と密接な関わりがあります。


 一つは劇団四季。
 中国や韓国出身の俳優・ダンサーが多数活躍していますが、劇団四季の創設者であった浅利慶太は中国公演にも熱心に取り組んでいました。現在の状況は分かりませんが、コロナ前は劇団の北京事務所もありました。


 実は、浅利は中央戯劇学院と深いつながりを持ち、中央戯劇学院の受験に際しては、浅利が外部試験官として招かれ選考に関わっていたというぐらいですから、中国側からも名演出家・名教育者として信頼されていたのでしょう。
 真相は不明ですが、中央戯劇学院と浅利とで生徒の取り合いになり、それ以来受験に浅利を呼ぶ事はなくなった、という話を留学中に在学生・OBから聞きました。中央戯劇学院にはミュージカル専攻があり、そこの卒業生で四季に所属した人も多いのですが、四季に入る前、中央戯劇学院を受験したが結局劇団四季を選んだ人もいたとのこと(四季のファンでこの話を知っていた人もいたので、案外有名な話かもしれません)。


 中央戯劇学院と縁の深いもう一つの劇団は、SCOT(Suzuki Company of Toga)。劇団四季に比べれば日本での知名度は演劇界に限られ、一般への浸透はそこまでかもしれませんが、おそらく中国(特に北京)で演劇活動をしている人間は全員聞いたことがあるのでしょう。浅利慶太との関係が薄くなってからも、鈴木忠志とは密接な関係性を築いており、実はわたしも留学中に、日本人なんだからお前はスズキメソッドについて書け!とスズハラ(スズキメソッド・ハラスメント)を受け、無理やり報告レポートを書かされました。
 お読みになりたい奇特な方もいられるとおもうので、当時の文章を置いておきます。

 日本人全員がスズキ信者と思うなよ!と声を大にして言いたかったのですが、私が日本から来たと知った多くの学生がまず聞くひと言目は、「君は鈴木忠志を知っているか?」、二言目が「君は能を知っているか?」だったのです。


 やっと大事なところまで辿り着きました!!
 スタニスラフスキーシステムに基づいた演出を学ぶため中国に留学していたはずの私が、なぜ正反対に思える「前衛」や「実験」のアプローチに関心を持つようになったのか、全ての元凶が彼らのこの質問だったのです。
 スズキメソッドについて聞いた事はあったものの、もちろん目にした事はなく、日本にいたときは関心を持つ事はありませんでした。ながらく田園都市線沿いに住んでいたこともあり(田園都市線のとある駅に、劇団四季の本拠地があります。私が地元で演劇を教わった先生も、実は四季のご出身でした)、身体へのアプローチよりむしろいかに戯曲を解釈し、それをどうセリフへと反映させるか、ということに重きを置いていました。その対極にあるのが、下半身を徹底的に鍛えるスズキメソッドと呼ばれる訓練法です。
 まさか中国に来て、中国におけるリアリズムの聖地とも呼ぶべき学校で、そのリアリズムを打破することに生涯を捧げた演出家の名前を聞くことになるとは…!
 夢にも思いませんでした。
 そんな思わぬ状況に呆然とする中、もう一つの出会いが私を待っていました。
 さあ、やっと師匠の(ポスター)との馴れ初めについてお話しできるところまで辿り着けました…!


しばらくの間、私が2018年に留学していた中国・北京の中央戯劇学院(略称:中戯)について話をしてきましたが、本レポートを最後に舞台を日本に移せたらと思います。

 前回、浅利慶太と鈴木忠志と中戯の関わりについて述べました。私と特段関係のないこの二人に長々と時間を割いたのは、中国の(特に)北京で演劇活動を行いたい場合は中戯と接触を持つことが最も有効であり、現に北京で大きな影響力を持つ二人の日本人演出家がそうしていることをお伝えしたかったからです。

 劇団四季と中央戯劇学院の関係については述べましたが、実は北京の郊外、古北水鎮には長城劇場という、なんと鈴木忠志のために建てられた(!)野外劇場があり、2015年から鈴木忠志の劇団SCOTがここで公演・ワークショップを行ない、記者が大勢訪れるなど大きな注目を浴びていました(その余波で、留学中の私までが鈴木メソッドについて報告レポートをかかなければならなかったわけです)

https://note.com/sannninnkai3/n/n67e359be2646

https://www.theatre-oly.org/blog/detail.php?id=17(長城劇場に関する記事)

https://performingarts.jpf.go.jp/J/pre_interview/1903/1.html(鈴木忠志へのインタビュー)


 劇団四季も劇団SCOTも華々しく北京で活動していたわけですが、ここで舞台を比較的な地味な中央戯劇学院の東城区校舎へと戻そうと思います。

 この建物を出て、左側、胡同の方に入っていくと、歩いておそらく1分程度で、とある劇場に着きます。

 名を蓬蒿剧场(「ポンハオ劇場」)。

 2008年に建てられた100名ほどの小劇場ですが、中国で初めて建築された完全インディペンデント(営利を目的としない)の劇場でもあります。(面白いことに中国の劇場史は日本とほとんど真逆の経過を辿っていて、まず公立と国立の劇場が立てられ、その後様々な企業の名が冠された劇場がーービルの中などにーー建てられ、21世紀になってやっとインディンペンデントの民間劇場が建てられるようになりました)

 中戯から非常に近いため、学生たちもよくここでワークショップや公演などをやっており、私もよく訪れていました。

 そんな中。

 劇場の公演記録を見ていた私は、何年もここで演出をしているある日本人がいることに気がつきました。

 こんな小さな劇場で、それも毎年。一体誰だろうこんなにコンスタントに訪中をしているのに、なぜ中戯の人たちは誰も何もいってなかったのだろう?と思い、その演出家について調べたのが、ことの始まりでした…。

 中央戯劇学院のすぐそばには南鑼鼓巷という観光ストリートが位置しているのですが、その通りの名を冠した2017年南鑼鼓巷演劇祭というフェスティバルに、この演出家は自分の作品『絶対飛行機』を出品していました。さらに調べていくと、2016年に『終着駅』、2015年に『站2015・北京』、2014年に『中国の1日 2014』を上演(鈴木より早い…だと!)、中戯の目と鼻の先で上演をしているにもかかわらず、学生たちの話題に登ることはなくー鈴木が中央戯劇学院でほとんど神の如く崇め奉られていたのとは大きな違いでしたーそれでも100人の小劇場で毎年のように上演をしていた彼の行動は、私には何か、強い信念を持ったもののように感じられました。

(付け加えておくと、コロナ禍後、北京を拠点としているあるインディペンデントの中国人コリオグラファーと知り合いましたが、彼女はその演出家の名ーー佐藤信ーーと、『絶対飛行機』という作品を知っていました。ですから公立・国立の劇団や劇場で活動したいと考える人たちのアンテナには引っ掛からなくても、インディペンデントアーティストたちには彼の作品と活動はしっかり知られていたと思います)

 この演出家について詳しく知るためーGoogleやYahooにつながりにくい中国のネット環境の中でーVPNと呼ばれるシステムを立ち上げながら必死に調べた私は、彼が鈴木忠志と同じくアングラ演劇と呼ばれる演劇運動の担い手であったこと、今は(2018年当時)座・高円寺という劇場の芸術監督であること、そしてその劇場で劇場創造アカデミーという演劇養成所を設立していたことを知りました。その時はそれ以上詳しく調べることはしなかったのですが、この演出家の名前と、養成所の名前は頭の片隅に残りました。


 数多あるリアリズムのテクニックの中でも、スタニスラフスキーシステムと呼ばれる最も古い体系ーそれを基調とした演出を学ぶため、ソ連時代から演劇交流が盛んで社会主義を宣伝するためリアリズム劇が発展した中国の演劇学校を訪れた私を待っていたのは、「君は鈴木忠志/スズキメソッドを知っているか?」と、「能を知っているか?」という生徒たちの思いもよらぬ問いかけであったことは、前回レポート「中国文学・演劇との関わり その3」で述べました。

 スズキメソッドについては概要のみ知っていましたが、能については見たこともなく、私のアンテナの中には能の「の」の字も入っていませんでした。スズキメソッドは能の足拍子の身体性を取り入れていることから、おそらく「能・狂言」についても見たほうがいい、という先生の勧めがあったからだと思いますが、中国の若い学生がリアリズムではなく、日本の最も古い演劇に関心を持っていることの衝撃!をうまく言い表せないのですが、本当に頭をガツン!とやられたようでした。日本のアングラ、能。それまで一切触れることがなかった私にとっては、まさか中国の若い俳優たちが関心をーもちろん中央戯劇学院の生徒たち興味は「アングラ」演劇ではなく「鈴木」演劇でしたがそれでもー持っているとは夢にも思わず…。

(おそらく、日本の能を海外で知る日本人というのは一定数存在しているはずです。文学や演劇で言えばフランス留学中に能楽師の渡欧公演に接触した渡邊守章、ドイツ留学中に能についての修論を書いた多和田葉子、それにやや古いですが『鷹の井戸』を舞った伊藤道夫もそれまで能を学んだことはなく、日本から仕舞型付の本などを取り寄せて舞ったはずです)

 夏季休暇と訪中公演の通訳の仕事のために一度帰国した私は、2018年の夏、座・高円寺で上演された『ひとつの机とふたつの椅子』という国際共同の演劇プロジェクトを見、そこで初めてポンハオ劇場に毎年訪れていたあの演出家の作品をーー実はこの人の作品を見たのは人生二度目だったことが後にわかるのですがーー目にしました。結局、秋に中国から完全帰国した私は、さらに半年後、劇場創造アカデミーーという魔窟を訪れ、そこに2年間も所属することになるのですが、それはまたのお話に。


 ここまでお読みいただきありがとうございました。リアリズムを学ぶための中国留学のはずが、まさか日本のアングラ演劇との出会いになるとは、本当に夢にも思いませんでした。

 リアリズムへの憧れと、アングラ演劇が標榜していた前衛・実験。一見両立しないように見える二つの要素ですが、二つとも私が作品を創る上での大きな原動力です。なぜこんな厄介な症状を抱えるようになったか、ここまで長々と説明をしてきました。中国文学・演劇との関わりシリーズは今回が最終稿です。

 これらの要素が、2023年10月の公演、そのの作品(高行健『逃亡』)にどのように反映するのか、稽古内容や今私が考えていることなど引き続きアップデートを更新していきますので、どうぞ見守っていただければと思います。

 それでは。

三人之会 奥田
2023年8月20日脱稿

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