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「映画感想」流浪の月





降りしきる雨の中を傘も差さずに更紗(広瀬すず)は声を掛ける。

「あの、私……」


彼女と二人、相合い傘で帰る文(松坂桃李)に更紗は、その先何を言いたかったのだろう? 
振り返り、暫くの沈黙の後、濡れネズミの更紗に文は言う。
「最近、店によく来てくれるお客さんですよね」
この時の松坂桃李の知っているのに知らんぷり感がいい。

文は10歳の頃の更紗を家に連れて帰り、一緒に暮らしていた。それは更紗に家に帰りたくない事情があったからだ。


マンションへ入って行くまで二人を見届けた更紗は
「良かった、良かった…」
と涙ぐむ。
見上げた空に雨雲の隙間から月が覗く。
何が良かったのだ?
文の幸せを願う気持ちは分かるが、それで自分だけ不幸せでも構わないのか?
私の中でモヤモヤとした感情が湧き上がってくる。

瞬間的に時間は巻き戻され、場面は幼い日の更紗と文になった。
「ロリコンって辛いよね?」
幼かった更紗が文に問う。
「ロリコンじゃなくても辛いよ…」
文の答えが切なく哀しい。

文も更紗も病んでいる。それは事実に違いないのかもしれはいが、一番病んでいるのは、普通のサラリーマンを装う更紗の恋人 亮(横浜流星)だ。
「愛」を嫉妬と束縛と猟奇的な暴力で解決出来るものだと勘違いしている。
この横浜流星の初の汚れ役?は、とても素晴らしかったが憎たらしくて堪らなかった(苦笑)

この役のために痩せた松坂桃李の身体は薄っぺらいが、心も行動も決して薄っぺらくはないと感じた。 
これを「普通の人々」は罪と呼ぶのだろうか。
だとしたら、普通って薄っぺらいんだな。

心を病む事は罪ではない。

病ませた要因とそれに絡む人達が悪い事に何故気付かないのだろう?亮(横浜流星)の両親も祖母も姉もそうだ。亮の方が病んでいるのに更紗を色眼鏡で見る。「可哀想な環境で育った娘」
だから息子の病的な「愛」から逃げ出さないとでも思っていたのだろうか。

広瀬すずは、いつも輝いていて少女と大人の間の可愛さを美しさを持っていたはずだ。でも、この映画の中の広瀬すずは、いつもより輝いてもいなければ可愛くも美しくもない。あの美しい顔を血だらけにして街を彷徨い歩く。
「生きる」ことに苦悩する一人の女性だ。

それを亮は「可哀想」「許す」と言う上からの視線で見ている。
何もかもが釈然としない暗い映画だ。

そして警察は、また女児を預かっていただけの文を逮捕するのだ。
あの時と同じだ。
「文、文〜〜!」
と泣き叫んで離れたくなかった更紗のように、また女児も「文くん、文くん」と手を伸ばす…

長い長い伏線は此処で終わる。
真の闇は、文とその母親にあった。文は母に言う。

「お母さん、お母さんは昔、育てていた庭の苗木を育ちが悪いからと言って、引き抜いて捨てましたね」
母は動かない。文と視線を合わせない。

「僕はハズレだったんですね」

文の本当の苦悩がラスト間近に暴かれる。
「更紗だけが大人になって、僕だけが大人になれない」
文は性器が成長しない病気だったことを更紗に告白する。

だから…
だから…

全ての伏線が回収された時、初めて二人に幸せな時が訪れたのではないかと私は思う。
レビューを閲覧すると「泣けた」「涙が止まらなかった」と言う人が多いが、私は泣けなかった。この社会の不条理に対する不満と「傷を舐め合う」ような愛し方や生き方が認められてもいいのではないのか?と思っただけだ。

一つだけ解決しない疑問が残った。
それならば何故、健康な大人の女性の恋人が文に居たのだろう?
多分、「本屋大賞」を受賞した凪良ゆうの原作には書かれているのかもしれないが、私は読む事はないだろう。
辛く哀し過ぎる愛の完結を既に観てしまったから…

松坂桃李の演技が絶賛に値する映画。
でも二回は観ないと思う。そこまで私のメンタルは強くない。







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