「絵が旨くても漫画が描けない人。絵が描けなくても漫画が描ける人」

先日、フェイスブックにおける僕の書き込みによる「ネーム切れる切れない問題」をもとに盛り上がり、各先生方がご意見くださったスレッドの僕の部分だけの抜き書きになります。著作権に慮り、僕のコメントだけにしましたがフェイスブックは全公開なので、もっと詳しく他の先生のコメントもお読みになりたければ、そちらをご覧ください。https://www.facebook.com/masaharu.nabeshima

鍋島 雅治
9月19日 14:17のフィールド記事スレッドになります。

以下、抜粋。
鍋島 雅治
9月19日 14:17 ·

先日、漫画家さん二人に「いかにネームが切れない人は切れないか」を力説した。
これは本当にこともなげにできる人はできるから、漫画家さんに納得してもらうのが難しい。

いいね! · 返信 · 1 · 9月19日 16:43「ネーム切れる切れない問題、もっと詳しく」です。
自分のネームがこともなげに切れる人は「マンガを読んで理解できるんだからできるだろう」という。
それは初聴で楽曲が完コピできるのに近いかもしれない。スキー教室で「ほら私の後について私が滑るように滑って来てください。あれ?なんで出来ないのですか?」というのに近いだろう。
先日の会でも、何十年も編集者を続けていてヒット作を出したある名編集者が「ネームが切れない」事を不思議だととある漫画家さんがいうので、恥ずかしながら30年の原作者キャリアのこのボクの四コママンガ挑戦作「うーたん先生」シリーズを見せたら。「ホントだ」と納得してくれた。(悲)(笑)
これが不思議なものでマンガを幼い頃から読み慣れていて、ネームがすいすい切れる人もいれば、何十年も読んでいて切れない人がいる。なにかの脳の機能の差としか思えない。
さらに不思議な事に「絵」は超絶上手いマンガ好きな人はたくさんいてマンガを描くことに挑戦する。もしくは編集者がマンガを描かせせようとすると、だが、これが、描けない。
その理由のほとんどは「ネームが切れない」せいだ。
それで漫画家さんに「ネームの切り方」を習おうとする。
ところが漫画家さんはそれを自然に出来るので、口や文章で説明して教える事はできない。
なので、多くの「ネームきれる人」にどうしたら良いか、解決策を求めると「模写をたくさんしなさい」ということになる。これは大正解である。確かに正しい。模写をしながら、「ネーム出来る人」ほどではない脳の一部の機能を育てる事はできる。確かに確実に上手くなる方法であり、お勧めである。
ただし、それは「何となく手癖として、脳の機能として育てた」だけなので、修行の結果、ある日、突然のように悟り「ネーム切れる人」になったとしても(ある日突然訪れるらしい)「最初からネーム切れる人」と同じようにまた「ネームを切れない人」を指導することは出来ない。
「模写しなさい。私のように」と言うしかない。ただ修行過程に気づきやそのメソッド化があったために、「最初から出来る人」よりも説明が上手なようだ。
ただ非常に興味深い事に「ネーム切れる」漫画家さんだけでなく、ネームが切れないはずの、手練れの編集者やマンガ教師や、原作者の一部(一部ですよ)にも、出来上がったネームに「どうして、ダメなのか、ここを、もっとこうすればいい」というコマ割りや、ネームの切り方を指導、説明、改善することは出来る。(サジェスチョン)
むしろ編集者やマンガ教師は、これが仕事の重大な一部であったりする。
実はこのボクもネームは切れないが(サジェスチョン)は出来る。これは自慢ではなく確実に出来る。事実である。
さらにこれは自慢だが、ネーム制作者の本来表現したい意図を、制作者より深く酌んでアドバイスすることも出来る。と思うし、読者側には分かりにくくなってしまっている部分をより分かりやすく改善することは、ぼくはかなり上手いと自負している。
あるマンガさんは「鍋島マジック」とさえ呼んでくれた。ボクは「岡目八目」と呼ぶけどね。
しかし、再び言うがゼロからネームは切れない。「下手」ではなく切れないのだ。
このネーム切れる切れない問題は、ボクも研究途中なのだけど、「ネーム切れない人」が「メール切れる人」になるには、またそれを指導するには「模写」意外にも言葉による理論、メソッドが必要なのではないかと思っていた。
実際にアシスタントさんに、それらメソッドを伝授してきた漫画家さんたちもいる。かつてボクと一緒にネットテレビでそれをやろうとした一色登希彦先生は確実に意図的な「視線誘導」や「構図の演出効果」をメソッド化していたし、太田垣康男先生がかつてネットであげていらしたアシスタントさんにむけての「ご自身の作品ネームの解説」は目から鱗のすばらしさだった。
かつて一度開かれた「小学館マンガスクール」で弘兼憲史先生の背景と人物のパースの付け方や構図やネーム展開の技法も素晴らしいものだった。
本当はそれら、各先生がお持ちの技法やメソッドを総括して「ネームの切り方技法」というテキストが出れば漫画家志望者のために素晴らしい福音になると思うのだけど、というか僕自身が座右の銘して勉強したいのだけど、残念ながらまだ無い。
今、一番それに近いのはボクも前期に受講させていただいた喜多野土竜先生の「ネーム講座」だと思う。教えてもらったからそう思うのではなく、手放しで素晴らしい。
あれだけ洗練されて、高次元で理論化された物はそうそうないと思う。例題や事例も充実している。その収集分析は、微に細にいたり、正直マニアックとさえ言えるというか「ばかじゃないの?いい意味で」と思うくらいだ。それくらい、しつこい。だけどそれだけにすごく説得力がある。
今、次期を募集中なので、提灯ではなく心から受講をお勧めする。
ただ、易しくはない。学習はかなりヘビーな頭脳労働だと覚悟して、それだけはご注意を。ボクなど最初の一度で知恵熱が出た。(マヂに)
ボクもいつかこれまで見聞きしたり自分でもやってみた「ネーム技法」を著してみたいが、とても喜多野先生にはおよばないし漫画家さんたちにはとうてい及ばない。
浦沢直樹先生の「漫勉」などを見ると、鳥肌が立つ。
なので漫画家の皆様も、苦労の末に身につけた、誰にもあかしたくない秘伝であるかもしれないが。ぜひ、これからネット漫画に移行していく前に、お持ちの「紙の見開きの漫画表現技法」を、どこかに銘しておかれたいと拙にお願いする。
ネット社会になっても「紙の技法」は廃れることはないと信じているし願っているが、もう一度発掘しようとした時には、その技法が失われてしまっているということは、文化歴史上によくあることなので、ここに警鐘とともにお願いしたい。


おっしゃるとおり、ここでボクが不思議におもい取り上げているのは「何を描くか(What)」は決めっているのに、いざ紙に向かってネームを切ろうとしたときに「どのように構成するか(How)」が分からない。という問題です。
「マンガが描けない問題」と「ネームが切れない」問題は別個の物、もいくは段階的に「マンガが描けない問題」の次の段階の問題に位置づけて明確に分科した方がよいかもしれません。
そしてお言葉を返すようで誠に恐縮ですがどんなに「描きたい物」があって漫画が描きたいも情熱があっても「ネームが切れない」上手い下手ではなく最初の1ページや一コマに何を描いて良いか分からない。という層が確実に少なからずいると、ボクは感じています。企画や秀逸で文章で表現できれば、それが「君、原作者でやってみない?」って事になってそれはそれでラッキーなのですが、やっぱり漫画が好きな人は、漫画が描きたいんですよね。それでも努力しても(模写を勧めているくらいなので無駄ではないし努力は最も有効手段なのですが)絵は確実にかなり分かりやすく努力が形になりますが、構成力だけはなかなかついてこないものと思っています。言い換えると、他のマンガに必要な能力の中で飛び抜けて理解と進歩が遅いと思います。そしてどんなに内容が良い、画期的な企画や優秀な企画でも、構成力、演出力がない漫画家さんが作画するとその良さが伝わらなかったり、そがれたりする場合を多々見ています。マンガで実はもっとも重要なのは「ネーム力」なのではないかと思っている次第です。次に「発想力」次に「感動力」「取材力」「画力」の順番でしょうか。若輩が僭越に申し訳ありません。

ボクの原作は一コマの台詞字数は考えて描くようにしていますし、そう指導しています。そしてアオリや、メクリの意識も、原作者の中には、重要なせりふや叫ぶ台詞を、大きな文字で書く!とう事をしておられることもあります。ただそれを指摘すると、漫画家さんの演出領域を侵すようで、ボクはなかなか踏み切れません。たまに、この台詞、このような構図の絵で入るといかがでしょう?などとご提案することはあります。あくまでご提案です。
ご指摘のように大事な事ですよねマンガの場合はフキダシも絵の一部ですから。

このやりとりからふと思い出したことがあります。この流れからの私の推論の一つとして、現実に起きている出来事、3Dで動きがあり時間軸がある事象を撮影することは、人間の記憶以外のメディアでは、写真であれ映画であれフィルムの一コマに焼き付ける事になりますよね。(データーしかり)
なので、現実(芝居を含めて)を切り取る時に、そしてそれを焼き付けた物を編集する際に、カチンコの音とともに「カット!」というかけ声で現実を切り取り、その現実を焼き付けたフィルムを編集段階で、物理的に切った貼ったりしながら「このシーン、カット(ボツ)ね。」というような行動に、伴う言語がくっついたし、逆にカットという言語が行動や作業を定義つけたのかもしれません(すいません、ここややこしいでしょうが丸山圭三郎門下生なので)


なので映画、アニメ方面からのマンガ言語では「ネームを」「絵コンテやフィルムのように現実事象から切り取る事と同じように」「切る」=「ネームを切る」となったのではないでしょうか?感覚的にも

いいね! · 返信 · 9月20日 13:38 · 編集済み
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鍋島 雅治
鍋島 雅治 また逆に「ネームを入れる」のは、頭の中に3Dのように映像や事象が起こっているのではなく、すでにキャラクター背景ともども2D化されておられるタイプの作家さんは、頭のそれを紙の中、コマの中に入れ込むだけなのでそれを卸す作業を「ネームを入れる」という表現の方がぴったりくるのではないでしょうか?
いいね! · 返信 · 9月20日 12:53
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鍋島 雅治
鍋島 雅治 と、いうのはこれまで、これらの問題に興味を持って、合う人ごとに、漫画をネーム入れの前にどんな形で思いつくか、聞き回った事があります。
これはボクの独自の訊き方なのですが、小学校の夏休みの宿題「絵日記」の「絵」から描いた?「文章」から書いた?です。

Aタイプ・絵描きさんやイラストレーターさんは圧倒的に「絵」から先。まず目を閉じて風景を思い浮かべないと何も思い出せない、誰が何をしたか言ったかはその後。というひとが多かったです。この場合の絵はすでに切り取られた写真のような2D。
中にはすでに自分のタッチの絵になっている人も多いようです。

Bタイプ・映画監督、漫画家さんは割と絵と日記が同時というか3Dで空間と時間を動きのある映画のように思い出す人が多かったのですが、Aタイプの人もCタイプの人もいました。エッセイや解説を得意とする漫画家さんにはCタイプが多かった印象もあります。実際にまずテキストを書くというのがエッセイ漫画を上手くかく秘訣であり、漫画家の多くは台詞と絵を一緒に考えようとするから書けなくなるんだ。ともおっしゃってました。

Cタイプ・そして何があったか時系列、もしくは印象的な出来事を文章として台詞としてしか思い出せず、その後に絵が来る人。こういう人の場合は絵も描けない。という人も多く、描いても文章を後付で説明するような補足的な絵が多かったです。
いいね! · 返信 · 9月20日 13:05 · 編集済み
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鍋島 雅治
鍋島 雅治 推測私見ですが、Bに属するほど「ネームがもとから切れる人」でAは「絵は描けるけどネームが切れない人」Cも「ネタや台詞は書けるけどネームが切れない人」と分類できるかもしれで、ネームをどのように思いつくかの例ですが、
・自分が主人公を演じているドラマに出ている人。
・映画のように頭の中に浮かぶ3Dの事象を監督のように、カット!といってある処で止めて、見る角度を吟味し、決定するという頭の中に3Dアニメ制作ソフトがある人、
・最初から数枚のシーンの写真で浮かぶ、というひと、自分のタッチのイラストで浮かぶ人。その数枚の絵や写真を切り貼りして間をつなぐ人、
・最初から見開きネームが浮かんでいる人。
面白いのには、
・自分以外の漫画家さんの絵と構成で、浮かぶ人。が少なからずいたことです。その自分以外の漫画家さんは、師匠だったり、大好きな作家さんだたりするのですが、中に言われ見れば「ああ、なるほど!」と言う人もいれば、「まったく分からない違う絵柄。でも構成は言われてみれば」という人もいます。たぶん公にしないほうがいいことなので個人情報は絶対にあかしませんが。その手があったかぁ。と感心しました。




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