スタジオシップ狂想曲 後編
スタジオシップ狂想曲 後編
漫画原作者 鍋島雅治
2019/11/02 17:50
さて、経理部経理主任をシップの女帝、K総務部長の鶴の一声で拝命したボクだけど、小池社長のブレーンであり新コミック編集部編集長のOさんの引きにより同時に新コミック雑誌編集企画室にも所属することになったた。デスク待遇だった。
やっと念願のマンガ編集者になることができたのだ。
それも新創刊の雑誌である。スタジオシップは、それまでに発行していた一部では有名なコミック雑誌「コミック劇画村塾」を休刊し、劇画村塾出身以外の作家も取り入れた新しいコンセプトの雑誌を立ち上げようと言うことになったのだ。ボクは燃えた。色んな作家さんに会いに行き企画を出した。
それまで刊行されていた「コミック劇画村塾」は「小池一夫の弟子たちによる新しい才能の結集」を歌い、毎回、当時既に少年サンデーの看板で多くの熱烈なファンのいた高橋留美子先生の四色カラーが表紙だった。
(これはスケジュールの都合ほかから、本誌に高橋留美子先生作品は載っておらず、羊頭狗肉である。とさんざんクレームを受けたのだけど)それでも、今から思えば、田中圭一の「ドクター秩父山」西村しのぶの「サードガール」が載っていて、後に「シグルイ」の山口貴由、「鏡の国のアーニス」の山本貴嗣などなどで花開く作家たちを擁していた。一部ヒットもあって「ドクター秩父山」西村しのぶの「サードガールの単行本はよく売れていた。しかしそれが雑誌全体の部数に繋がらず苦戦していた。
そこで今度は「登竜門」的な要素を廃して徹底的に商業誌的な「採算のとれる雑誌」を目指したのだった。
「コミック劇画村塾」を立ち上げた時には取次(発行部数を決める本の問屋さん)へ小池社長自らアジテーションを行ったそうだ。
「コミック劇画村塾は、全員が高橋留美子クラス、各誌エースクラスとなる才能の卵が集結した雑誌である。売れないわけがない」とにかく小池社長は演説が上手い。
「コミック劇画村塾」立ち上げの時の小池社長は、大ヒットメーカーであり名伯楽であるという絶大なる信用が出版界にあった。
しかし、この演説に騙されて各社期待して扱い部数も多く立ち上がったものの実際はそうは皮算用のようにはいかなかった。
各作品に力はあっても雑誌は売れない。という事もある。単行本も面白い作品なのだけどなかなか火がつかない。雑誌というものは難しい物である。
「コミック劇画村塾」の時にダマされた取次各社の仕入れ担当者も新雑誌に対しては、二度目となれば信用してくれない。ばかりか疑いの目でかかってくる。これを少しでも説得力にするには企画書と数字しかなかった。
編集者たちは、まだ大ヒットは出ていないものの売れそうな内外の作家にかたっぱしから声をかけた。
アタゴォオル戦記のますむらひろし、唐沢なおき、御茶漬海苔、沖一、石川優悟、西村しのぶ。やまさき拓味、かなり渋好みではあるが悪い陣営ではない。
しかし問題は経費である。作家の頭数だけ合わせても机上の空論なのである。
この場合、どう考えても編集費(原稿料)が圧迫して制作費が捻出できなかった。
そこで、一考を案じ最期に発行を決定づけた切り札は、判型であった。
雑誌において、原稿料以上に重要なのは印刷費と、実は紙代金なのだ。
どれくらいの重さの紙を(実は紙の質や値段はおおよそ重さで測られる。重い紙ほど良い紙とされる)印刷会社や紙会社とさんざんやりとりし、軽く安い紙でも納得のいくものを探し出し、そして思い切ってそれを、通常雑誌のB5版よりもひと回り小型のB6版の雑誌としてその代わりにページ数を増やし分厚い特別版とした。
これは思い切った戦略だった。今でこそ同じ判型で厚みのある、いわゆるコンビニ廉価版の単行本がコンビニに多く並んでいて、もはやコミック単行本の主流であるが、これまでは単行本はおろか雑誌でこの判型だったのは極めて希だったのだ。いやボクの記録にあるかぎり、他に見たことがなかった。
三十年早すぎたアイディアだったといえよう。
社内でも取り次ぎ相手にでも喧喧囂囂の会議と交渉が行われた。
だが内容の充実と読み応え。というマンガ好き。クリエイター資質でセンスの良いO編集長の要望と、コストの軽減を実現するにはそれしかなかった。
原稿料などの編集費を削らず、良い作家を集めるには制作費を落とすしかない。紙質を下げ、判型を落とす。判型を小さくすれば同時に製版代金と印刷費のインク代も下がり、何よりトラック輸送において一度に多く運ぶために輸送費も下げられる。そこに取次とのの交渉の余地もあった。
本を全国の書店にあまねく運ぶには膨大なトラック輸送費がかかる。運ぶのも重要だが、本が思ったより売れずに返品率が高いと、それを回収して積んで帰ってこなければいけない。これにもまた輸送費がかかる。この運送費の高さ、返品率の高さを取次は大変に嫌がるのだ。
いかに納入数と売上数の差を無くすか、取次はそれを第一に考える。
売れすぎて足りなくても、仕入れすぎて余らせてもそれは失敗なのだ。
自然、新雑誌ともなればリスクを取りがちで、売れすぎて足らないよりも余りすぎて帰ってくることを取次はいやがる。自然発行部数を抑えようとする。
しかし、こちらは可能性にかけて、少しでも多くの雑誌を店頭に置きたい。
仕入れ(部結)交渉は毎回真剣勝負なのだ。
その勝負をほぼ強引に押し切るための切り札が、この前代未聞の判型の雑誌だった。
販売部も必死の部結交渉の結果、なんとか無事、各取次での部結交渉を突破して無事発売になった時は、皆で喝采を叫んだものだ。
それが先に述べた「コミックHAL」である。
あの行き当たりばったりのコンセプトで企画と雑誌名が通ったあの雑誌である。
当時、まだ新人ながらもこれはと見込まれた作家たちと、主にスタジオシップの現役漫画家がリストアップされていた。ウルトラマンの番組創世記の実話企画など興味深かいものの多かった。
当時すでに少年サンデーの「青春動物園ZOW」や梶原一騎先生との名作「英雄列伝」をものしていたやまさき拓味先生もラインアップされていた。
やまさき先生へ向けた企画として、僕は当時珍しい女性ライダーで、日本一周したり、パリダカール・ラリーに参加したりしながらライターとしても活躍し、ワイルドな美人で片岡義男の小説のグラビアモデルも務めていた三好礼子さんをモデルにした青春オートバイ漫画の企画を提出した。
一人の閉塞した学生生活を送っていた女子高生がある日オートバイと出会い、自由の羽を羽ばたかせていく物語である。
他にも当時カルトなブームであった「マックスヘッドルーム」という海外SFドラマからヒントを経て、各コンピューターに同時混在するキャラクターを助手にした探偵物など企画したが、当時はインターネットの概念がほぼ知られておらずに、こちらは頓挫した。
しかし三好礼子さんを主人公にした「レイコ」の企画のほうは通り、ご本人にも取材して、さてその脚本を誰にしようとなり、数人の漫画原作者が候補にあがった。
しかし、青春お洒落系作品に、劇画色の強いシップ系の原作者がしっくりこず、ある日O編集長が僕にこう言った。「鍋ちゃん、いっそお前やってみないか?」「え?」まさか自分が書くとは思っておらずに僕は驚いたが「この雰囲気、バイクの自由さや楽しさが一番描けるのはバイク乗りであり、三好さんのファンであるお前だよ。お前かけよ」の一言で、僕は一晩で書き上げた。
しかし、やまさき先生はこれまで小池一夫や梶原一騎などの劇的でアクの強い原作者と多く組まれてきたので、「こんなに何も起こらない、アクションも刺激もない原作でいいのだろうか」と当初、ずいぶん戸惑われたそうだ。
ボクはやまさきさんとは作画部の先生方の中でも一番に仲良くて、こんな新人が出たぞ。とかあの作品についてどう思うとか話し合ったり、一緒に鈴鹿サーキットにF1グランプリを見に言っていたりしていた仲だった。
「初めてオートバイに乗った者にとって初めてのツーリングは冒険であり。その道の果てに海が見えたことは勝負に勝つことよりも感動的なんです」と言ってお願いしたのを覚えている。
編集長も「やまさき先生も、劇画以外の新境地を」とくどき切って、絵柄もこれまでの劇画路線よりも爽やかで少しコミカルな物に変えて挑戦していただいた。
これは後に「優駿の門」など、先生の作風を多少変えることになる。
今も、けっこういい作品だと自負している。
これが僕の商業誌デビュー作品となり、実に思い出深い作品となった。
初めて自分の作品が絵になり、しかも大好きな、やまさき先生の手によってデビューできたことは、大変な幸せだったと思う。感動極まりなかった。初刷りが出たときは何度も読み直し、文字通り雑誌を抱いて泣きながら寝たものである。
この「コミックHAL」は売上は悪くなかったのだが、当初より季刊のプロトタイプだったので、これ一号で終わってしまった。残念である。
その後、月刊で判型も通常にもどした「コミック ヤングシュート」という漫画雑誌が発刊されることになるのだけど、この時O編集長は別のH編集長へと交代し、僕もコミック編集部とは離れてしまっていた。
他にも少女コミック雑誌の「コサージュ」文字本の「100Ron」なども発刊したが、どれもふるわなかった。
この中でもしいくつかが火がついていたら、その後のスタジオシップは変わったのかもしれない。
しかし、どうやらこの頃、シップは漫画の会社からゴルフ雑誌を中心とした総合出版社への変革を求めはじめていたのかしれない。
というのは、あのまったく売れなかったゴルフ雑誌「アルバトロスビュー」が、なぜかこの頃急に火がついて爆発的に売れ始めたのだ。
本当は何が原因かはわからないが、当時の他のゴルフ雑誌が活版白黒刷りのザラ紙だったのに比べ、アルバは一貫してほぼ全ページカラーグラビアを押し切り、写真と漫画と図説を多用しており、それは小池社長の揺るぎないビジュアル主義の徹底であった。
これは当然、高コストで撮影のカメラマンのギャラからスタジオ、ロケ代モデルやプロへのギャラ。など一号出すたびに大赤字だったのだが、ある時に出した年始号の何十人ものプロのフォームの一気大図鑑と解説を載せた号から突然黒字に転じた。
逆転の神風が吹いたとしか思えなかった。
増刷に次ぐ増刷、毎号ごとに部数を伸ばした。
一度、逆転の風が吹くと雑誌というのはこれほど儲かるものかとビックリした。
発売元である毎日新聞社の担当者など、当初行ってもお茶も出してくれないほど冷たいあつかいだったのに手のひらを返すように籾手をして迎えるようになってくれて寿司に連れて行ってくれるようになっていた。
「ビジネスは勝ったものが勝ち。雑誌は売れた物勝ち。数字が全て」と思い知ったものだ。
そうして会社の財政は一気に盛り返した。社屋も改装し、社員数も増えた。ついでにゴルフショップの経営も始めた。
こちらはまだまだ、ふるわなかった漫画雑誌「ヤングシュート」が刊行しつづけられたのもこのおかげでもある。
小池一夫・叶精作の「横浜ホメロス」「NEW実験人形ダミーオスカー」などの目玉があり、まだ新人で、後に少年チャンピオンなどで「シグルイ」で火がつく山口貴由は小池一夫の評価がよほどたかかったのか『NOTOUCH』でデビューして以来、何作も挑戦の機会をもらっている。
同じくチャンピオン系で大ヒットメーカー「刃牙」シリーズをものする板垣恵介も「メイキャッパー」という化粧をテーマにした作品でデビューしている。
他にも新田たつお、谷口ジロー、前田俊夫、などの豪華ゲストを迎えたり、先に述べた田中圭一や、しゅりんぷ小林も連載していた非常に贅沢な布陣ではあ
あったが、やはり先に述べたように良い作家が良い作品を連載しているからと言って売れるとは限らないのが漫画雑誌なのである。やがて休刊となったが善戦したと思う。これもどれかが少し早く火がついていたらと思うと惜しい雑誌だった。
先に述べたように、ヤングシュートの時代はコミック編集長はOさんからHさんへと交代しコミック編集部からは経理面以外はボクは、距離を置くことになっていた。
それでもなんだかんだ忙しかった。アルバの主催する読者参加ゴルフトーナメントを運営する仕事など興味深くかつ大変な仕事だった。雑誌での募集から応募者の整理。入金の確認。参加賞の発行、現地のロケハンと宿泊先の斡旋。運行表の作成、スポンサーへの景品集め。数百人参加のイベントは実に大変だった。
そして、そこへ大人の事情が混ざってくる。
読者参加といいながら社長の友人関係、スポンサー、などがそっと入り混じる。その席順を決めるだけでも大変である。色んな力関係や人間関係が加味される。
応募者読者も、実は堅い会社のサラリーマンや医者などが優先され、万が一にも今でいう反社会勢力が混じらないよう万全の配慮がなされた。
しかし社長の交友関係にはグレーな人たちもいてこれはややこしい。もう既に引退しているが映画の主人公にもなった伝説の侠客もいらっしゃった。
トーナメント参加者発表の記事が掲載された時。
僕らは雑誌を見て目を見張った。
「参加者は厳選なる抽選の結果、以下のように決定いたしました」
「…」ん?」
例の鬼のI女編集長の顔が赤くなった「抽選を歌っているのに、厳選はまずいだろう!「厳選」は!ここは「厳正」だろうが!」
担当者が相次ぐハードワークに疲労したのか、つい正直に素直に書いてしまったのか。
僕らは冷や汗を拭いながら笑ったものだった。
業界で大きな誤植の方が見つけにくいと業界で言われる格言は本当なのである。
発行中の雑誌「コミック ヤングシュート」がなかなか売れないため、返品率を減らすために販売部が主導で全社員あげて、近所のコンビニで何冊も買い漁るということもした。ボクも車や愛車のバイクで神奈川から埼玉近辺まで買い漁った。
また、ある日、潤沢になった財政を背景に小池社長が突然「映画『子連れ狼』を作る」と言い出した。
それまでも子連れ狼は何度もテレビドラマ化、シリーズ映画化されており、いずれも大ヒットして主題歌もヒット。
今でさえも海外、国内でカルトな人気を誇って海外の有名人監督からもリスペクトされている名作中の名作である。
この数年前、ジョンブルーノというハリウッドのプロデュサーがわざわざやってきて、イメージボードを見せて小池社長に「子連れ狼」のハリウッドでの「西部劇化」をオファーした。社長も大変に乗り気だったのだが、しかしそれは残念ながら頓挫した。
小池一夫社長はそれをたいそう残念がっていたのだ。
そんな小池一夫にとって「自らのプロデュースで」子連れ狼を映画化するというのは悲願だったに違いない。制作配給は松竹。監督は井上昭、主演は舞台で小池作品「乾いて候」を演じてヒットさせ小池の友人でもある田村正和さん。と決まっていた。
これまでの、萬屋錦之介、若山富三郎と比べるとちょっと線が細くて美しすぎるきらいはあったが、結果、悪くはなかった気がする。
他の出演陣も豪華だった。
しかし、小さな出版社、しかも映画にはまったくの素人の会社が、(当時、一次社員だった山本又一郎映画プロデュサーはすでにシップとは離れていた。彼が関与していたらまた事態は変わっていたかも知れない)全国ロードショーの映画を自ら企画制作するとなると、大事業で、無謀と言われてもしかたなかった。
経理である僕のとこには、毎回ものすごい枚数と額面の請求書や領収書が京都の撮影所や松竹から送られてくるのだが、映画、特に時代劇というのはとんでもない金食い虫なのだ。衣装だ、セットだ、ロケだ、エキストラだ、弁当だ。ものすごい金が滝の落ちるような音を立てて消えていった。
特にクライマックスには多勢の敵に拝一刀が一人敢然と立ち向かい、馬や人が入り乱れドッカンドッカン爆発は起こる度派手なモブシーンが用意されていた。
これが雨で1日、風で1日流れると、そのたびにエキストラと馬と衣装と弁当代がかかる。
会社の金ながら胃が痛くなる思いだった。資金も何度もショートしかけた。
映画はそれでもなんとかクランクアップしたが映画制作発表のキャンペーンのために作中、ほんのワンカット使われただけの巨大な土塀のセットを見て驚いた。
セットなどではなく、竹組から組み、土をもり、豪壮な地獄絵図を描いた本物の土塀だったのである。重さは数トンあって京都から東京に運ぶのも往生したらしい。
「これ、ホンマにいりまっか?素人がいくらでも金を出すというので、制作側が好きなようにやったんじゃないか?」と疑ったボクが聞いたら美術の人が、
「久しぶりに思い切り腕をふるわせてもらいましたわ」と笑っていた。
そして公開後、映画の興行成績は残念ながら小池社長の希望どおりとはいかなかった。
あまりに振るわなかったので、疑心暗鬼になった小池社長は映画会社がどこかでごまかしているのではないかと疑い、これまた社員全員を総動員して各映画館での客の入りを調査させた。が、行ってみると、確かに客は入っていなかった。
この時の小池社長の落胆ぶりは大きく、晩年まで「子連れ狼」のハリウッドでの映画化を何度も試みたのもそのせいかもしれない。
ともかくこのように毎回、社長が何か思いつくたびに社員全員が振り回される。そんな会社だった。
まぁそんな風にとにかくシップ時代は、東奔西走とにかく、バタバタ走り回っていた記憶がある。
色んな経験をさせてもらった。
そんな中、スタジオシップ制作部にいた漫画原作者である田中美奈子先生が僕に声をかけてくださった。田中先生は「哀愁美容室」などで知られる女性誌で活躍する方で、とても上品な女性でそれもそのはず、国語学者として有名な金田一晴彦先生のお嬢様だった。
「鍋ちゃん、私の知り合いの編集者で青年漫画向けの原作者を探している人がいるんだけど、会ってみない?」
「中堅だけど講談社の子会社で光文社というところが、青年誌を出しているのだけど苦戦していて若い才能を欲しがっているらしいの」
「でもうちの会社は…」
「そうね、一応、副業禁止になっているけど、チャンスの女神にはね、前髪しかないの。一度デビューを逃したら次に回ってくるのは何年先か分からなのがこの業界よ。大事なのはとっととデビューすること。そのうちそのうちとか、良い物ができたらとか言っている人は一生デビューできないわ。しがみついてでも実績を残す事。書いてさえいれば仕事が残る。実力もつく。デビューは圧倒的に早い者勝ちなの」
含蓄のある重い言葉に僕は唾を飲み込んだ。
これはボクも、今になって学生や志望者に口をすっぱくして言っている。
「わ、わかりました」
目の前に衣を翻した羽の生えた女神が微笑んで、こちらに向かってくる妄想を見た。
しかし、その女神の微笑みはなぜか僕には、恐ろしいものでもあるような気がした。
かくして、僕は勧められた編集者に会い、サンプル原稿を持ち込み、その企画で一発で月刊連載デビューが決まった。金沢博先生と組んだ「ナイフ」という作品で会社に伏せるために時任ジンのペンネームを使った。
多摩の大学の工学の助教授であり高名なナイフのカスタムメーカーである主人公が、悪人を始末する「必殺シリーズ」の現代物のようなものである。これに当時の世相でやや主人公にサイコパス的な味付けを加えた。
人気アンケートもまぁまぁ良くて単行本も二巻出て、原稿料や印税は、その後二回応募していただいた集英社の賞の賞金とともに後々独立軍資金としてとても役立ったし、兼業とはいえ一応のプロの端くれとして居場所をとれたのは嬉しかったし、自信になった。
と、そんなときに一緒に衝立の裏で劇画村塾を聞いた販売部の同僚であるSちゃんが、突然会社を辞めると言い出した。
このSちゃんは変わっていて、もと横浜の暴走族上がり。
保険屋か何かで働いていたのが、シップを受けにきたのだ。一応、大卒からの応募資格でしかも早稲田や東大など結構な高学歴な社員の多かったシップだったが、彼は、その持ち前のバイタリティーと自信家ぶりが面白がられて入社してきた。
僕とはバイク仲間という事で仲も良く、彼は暴走族仕様のカワサキZFX400。ボクはレーサーレプリカ,YAMAHARZR250のバイク通勤していた。
彼は横浜、ボクは多摩に住んでいたので、この二台で目黒の会社から、夕方のルート246を夕日に向かって競争しながら走って帰ったものだ。腕はまぁ互角だったかな?ボクは学生時代、レースやモトクロスで走り込んでいたのだが、奴はストリート出身という事を考えるとかなりのものだったと思う。でも結果いつも奴が先を行くのだ。
だってこっちは一応法令を守るのだけど、彼は対向車線を超え、信号も無視するのだもの。
「ずるいぞSちゃん」とボクがいうと、「ストリートはな、とにかくアクセル開けてブレーキ踏まないのが勝ちなんだ。命惜しんでたり、法律守ってたらスピードの向こう側にいけねぇじゃねぇか」
と、訳の分からない事を言っていたが、後に彼の作品「特攻の拓」に同じような台詞が出てきて思わず微笑んだことがある。間違いなく作家の生き方は作品そのものなのだ。
とにかく彼は、キャラが立っていた。
彼はボクが応募して当選した集英社の賞に同じく応募していたが、一次選考にも残らなかった。ボクの読むところ、確かに彼は原作が下手だったのだ。読みにくいし、荒っぽい。しかし、例のOさんとボクは高く評価していた。下手で問題はいくらでもあったが、すこぶる面白かったのだ。
賞に落ちた彼に、もう応募しないのか?と尋ねると、「鍋よ、天才はな、自分から出ていくものじゃなくて、いづれ発見されるもんなんだよ」とこれまた意味のわからない事を言ってなぜか自信満々だった。
負け惜しみを言っているのか、単に自信過剰だったのかと当時は思っていたが、それは違った。
彼が会社を去って半年後に少年マガジンにて巻頭カラー増ページで華々しく
「特攻の拓」が始まった。
作画はベテラン所十三先生。原作は佐木飛路斗ことSちゃんだった。
「すごいじゃないかSちゃんおめでとう」「おう、まぁ俺は、いずれこうなる運命だったのよ。鍋も頑張れよ」
そして特攻の拓はこれまでの暴走族漫画、不良漫画にはないリアリティと過激さで瞬くうちに少年マガジンの看板となり大ヒット作品となったのだ。それは族車や旗や特攻服のデザインまで自らやる彼の拘りの賜だった。これまでの暴走族マンガは、不良経験のほぼない作家が売れるジャンルだから書いた物であり、Sちゃんのはモノホンが描いた自らの青春期だったのだ。
どんなものでもそうだが、マニアや本職の読者は、モノホンが書いた物とエセが書いた物を敏感にかぎわける。
Sちゃんは神奈川県の長者番付(今では信じられないが、当時は納めた税金額で所得の額と順位が堂々と新聞に載っていたのだ)の作家部門にノミネートされた。横浜の一当地に豪邸を立てて、なんとかシュタインというピアノとポルシェカレラ911をオープンカーに改造して乗り回し、大きな外国犬を三匹買った。まさにコミックドリームを一夜にして現実の物にして、スターダムにのし上がったのだ。彼の才能でもありそういう時代でもあった。
時に傲慢に見え、自信家の彼を何人かの先輩が「奴ぁ売れてテングになっている。」と憤っていた。
が、そのたびにボクは彼の名誉のために訂正した物だ。
「違います。彼は売れる前、いや書く前からテングだったんです。何の根拠もなく。それが奴のすごい処なんです」
そう、賞をとって連載までしていながら持ち込みもしたことがないボクの彼の大きな違いがそれなのだと思い知っていた。
心から彼の成功を祝うとともに、正直、悔しくてうらやましかった。
とっとと会社を辞めて作家として大成功したSちゃんと違って、ボクはまだそのふん切りがなかなかつかないでいた。
他の社員よりも賞金や原稿料で羽振りも良かったのだ。
そんな僕はダイビングを趣味として海外旅行にも度々に行っていた。
同僚に飲食を奢ることもあり、僕には普通のことでも奢られた同僚たちの中には逆に妬む声もあったらしい。
たかが漫画の原作が書けるくらいで何でアイツだけ特別扱いされるんだ。
簡単に紙クズで金がかせいでるくせに。
今も作家が時々言われる中傷だが、これが同じ会社に同じ給料でいると余計に腹立たしいものらしい。
僕は些細な失敗を糾弾され誹謗密告を受けて上司のN常務からそっと呼び出された。
そして経理部主任兼編集部デスクを解任されて販売部の平社員へと突然降格の人事を告げられた。
今日中に経理と編集部の机を整理して販売部に異動するように。
ボクにとっては晴天の霹靂だった。
「いったい誰がそんな事を言っているんですか?」僕は憤ったが、N常務は静かに言った。
「それは関係ない。すでにK部長が決定した事なんだよ」
そうだ。上がるも下がるも突然に女帝K部長の思うまま。
スタジオシップとはそういう会社であった
N常務は言った。
「鍋島くん、志があるなら、その時まで牙は隠し、爪は忍ばせておくものだよ」
それから僕は経理の部屋を引き払い販売部のデスクに移った。
そして翌日から毎日毎日、酷暑の中、都内中の書店のコミック売り場を回って書店員さんに顔を売り頭を下げて回った。
取次の部結窓口に通って一部でも多く買い取ってもらうように頼み込んだ。
窓口では、担当者に売り上げの悪さをネチネチといびられた。
「お前さんら出版社の奴らはいい大学出ているんだろう?俺みたいな中卒にいびられるのは悔しいだろうなぁ」と笑われた事もある。
当時の取次のたたき上げにはそういうおっさんが多かった。
ひたすらゴマをする僕らの横からボクが賞を取った大手の版元の営業がやってくると、オッサンは手のひら返しに、若い彼に平身低頭し、一部でも売れている作品を自分のところに回してくれるように愛想笑いをして頼み込むのだった。そして「まぁ寿司でも」と彼を接待に連れて行く。
僕らは「お前らはまだ帰ってくるまでまってろと」言われて椅子も出されなかった。
横の窓口では仕入れ担当者たちが「特攻の拓」を奪い合っていた。
会社からは、なかなか販売部名義の名刺が渡されなかった。
どうやら上部はすぐに辞めると思っていた僕が、なかなか辞めないので戸惑っていたらしい。
なぜかボクは意地のようなものがあって販売の仕事も汗水たらして必死でやった。販促のポスターやエプロンなど自ら制作して関東中を配り回った。
「負けるもんか。このまま辞めたくない」
という意地がなぜかあった。
サラリーマンを捨てて作家一本になる勇気が無かったのだけかもしれない。
そして小池一夫という巨大な才能の側をまだ離れたくなかったのかも知れない。
その頃の気持ちは当時、ハードワークの合間に書いていて後に「プレイコミック」で発表する「スキッパー」という作品に現れている。
巨大ホテルで最低の部署「リネン室」に配属された主人公が社内で這い上がる話である。
と、そんな時、第3回目に応募した集英社の原作大賞の発表がなされた。
まぁ本当にあの頃のボクはハードワークに靴をすり減らし、酷暑にあぶられながら都内を歩き回りながらへとへとの体でよく書いていた物である。いや、逆に書くことで自分を支えていたのかも知れない。
応募作は、また10選抜の中に残っていた。三度目は史上初だそうだ。
最初に応募したときと同じように、久しぶりに社長が社長室から降りてきて僕に呼びかけた。
「鍋島、面白かったぞ。今回はお前のがダントツで他のより面白い。これなら今度こそ大賞だ。
俺は当日、出張で審査会にはでられないが、これなら間違いない。」
僕は素直に嬉しかった。
太鼓判を押されたからではない。
会社で不遇の地位に堕ち、悔しかった気持ちを、何くそと込めた渾身の作品を小池社長が認めてくれた事。
なにより諸事情を分かった上で、わざわざ声をかけてくれた事が嬉しかったのである
まったく鬼か仏か分からない人だった。
その日の夜遅くまで僕は会社に残り秘書課に届く発表を待った。
深夜、帰社する予定の社長に一番に報告とお礼を言いたかったからだ。
審査会の結果が秘書課長に電話とファックスでとどいた。
秘書課長が複雑な表情で言った。
「鍋島、今回も準入選だ。残念だったな。」
「そ、そうですか」
「しかも今回は大賞はない。準入選のお前がトップだ。おかしな話だな」
やがて社長が帰ってきた。ゴルフのスコアが良かったのか上機嫌だった。
「社長」
「おお、どうだった鍋島」
僕は秘書課長から聞いたままを報告した。
「そうか」さっきまで上機嫌だった小池社長は嘆息した。
「編集者ってのはバカだなぁ。大学受験のように落とすための試験じゃあないんだ。才能を拾い上げてやるための賞なのに。大賞をなしにするくらいなら、くれりゃあいいじゃねぇかなぁ」
小池社長は、僕の肩に手を置いた。
「だが大賞は百万円の一回こっきりだ。お前は準入選三回の150万円。
ゴルフで言えば賞金王だ。胸を張れ!張って良いぞ」
「はい!賞金王ですね!」
上手いことを言うが、おかしな理屈である。
だが、そんな変な理屈を捻くり出してでも慰めてくれた小池社長の気持ちが嬉しくてボクは泣き笑いをしていた。
もう賞に固執するのはやめよう。
いくら賞をもらっても確かにSちゃんのように一刻も早くデビューしたものの方が勝ちだ。
サラリーマンを辞めてプロになる。
僕はそう決意した。
それから2ヶ月後、諸処の後始末を済ませて僕は辞表を出した。
誰も遺留はしなかった。
でも、皆もが「頑張ってね」「出たら買うからな」と言ってくれた。
先輩は愛用のペンをくれ、社員たちはお金をだしあってMA-1というジャンバーをくれた。どちらもボクの手にまだある。
最後に小池社長に報告とご挨拶に行った。
「お前も辞めるのか」
「お世話になりました。社長に開いていただいた門です。
この道を、行けるところまで行きたいと思います」
小池社長は首を左右に振り、浮かない顔で一言
「もったいないな」とおっしゃった。
どういう意味ですか?と訪ねたが、それ以上答えては下さらなかった。
お願いした色紙には墨痕鮮やかに
「座って半畳寝て一畳、天下取っても二合半」と書かれていた。
なぜこの言葉をお選びになったのか。
「もったいない」という言葉の意味。
ともに小池一夫社長亡き今となっては謎である。
何度かお会いした機会に聞こうかと思ったが辞めておいた。
これからも、ただ、永久に謎として心にとどめおく。
深く頭を下げ「ありがとうございました」と告げて、
ボクは贈られた品と花束を抱えて会社を出た。
胸がつまったが、振り向くような事はしなかった。泣きもしなかった。
オートバイのエンジンをかけ、思い切り開けると、
ルート246を夕陽を追いかけて走り出した。
大きな夕日の中に、先を走るアイツ(ライバル)の後ろ姿が見える。
さらにその先には、巨大な壁のようなあの人の背中が見える。
この道はどこまで続くものか。俺はどこで果てるものか。
ボクはシフトップして夕日に向かってオートバイのアクセルをさらに開けた。
おしまい。