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#音の世界と音のない世界の狭間で にこだわる理由
わたしは、ことにお耳に関して、周りに恵まれすぎている。
その昔、聴力が落ち始めた時期には聴覚障害のある友達がそばにいてくれて、手話コミュニティに入れてくれて、講義には情報保障がついて、周りの友達が音声情報を文字や手話で見せてくれて、相性の良い認定補聴器技師さんに出会うことができた。
だから「耳が聴こえにくいんです」と言うだけで、周りの人たちがなんとか守ってくれるだろうと過信しているところが、あった。実際、どこに行っても周りがちゃんと守ってくれている。
そんな温室でぬくぬくと育ったわたしは、出会った人にきこえにくいことを伝え、簡単な手話を覚えてもらい、分からないことは教えてて尋ねて、それら全てに応えてもらえる環境を当たり前だと思っていた。
だから
ねぇでもさ、わたしたちの共通言語って日本語なんだし、さんまりちゃんがわたしの口を読み取ってくれれば全てが解決だよね。わたしたちだって、イチイチ話したいことを手話に直すのは疲れるんだよ。
とはっきり言われた日は、とにかく衝撃だった。その人は曲がりなりにも簡単な手話を覚えてくれていたし、聴き取れなかったことは復唱してくれていたし、わたしのお耳にとても理解のある人だったから。
今思うとこのときのわたしは、ひとりでいれば指を刺したり声を使って自力でやるような注文や店員さんとのやりとりも全て、その人に丸投げしていたと思う。だって、この人はわたしのことを理解してくれているもん。必要なときに必要なアシストをしてくれているもん……と。
その傲慢な態度を、その人はちゃんと見抜いていたんだと思う。でも、それを言われたときはきこえないわたしの全てを否定されたような衝撃を受けて、何も言えなかった。
あれから数年、あの日言われた一言はささくれのようにわたしの心に住み着いて、時々胸をチクっとさせた。
そして、ドラマを見ながら
「俺だって疲れるよ! 耳聞こえんのに、わざわざ手話で話すの」
という台詞を口切りに、あの日々がバーっと走馬灯のように駆け巡った。そう。あの人は、わたしのきこえにくい世界に「おもしろいね」と興味を示しては手話をスルスルと覚えては、「さんまりちゃんは、今どんなこと考えながらこれを見ているの?」と誰よりも寄り添ってくれる人だった。
それだから。なにも言わなくても、わたしの世界に歩みを寄せてくれる人だろうとわたしはいつからか自分の世界に立ち止まって、音の世界に歩み寄ろうとしなくなっていたのかもしれないと。
そりゃ、全てを頼り切られたらしんどいよなぁって。今考えれば、思う。わたしにできることはわたしの中で完結させて、それでもってお互いの世界を知り合うからこそおもしろくて楽しい、という単純なことをすっかり忘れてしまっていた。
だから、あの日のわたしへの戒めのように #音の世界と音のない世界の狭間で というハッシュタグを付けて、歩み寄ってもらったことの記録と歩み寄ろうとした記録をこのnoteに綴っている。
そして、言葉にしては「頼る」じゃなくて「おもしろがる」ができていたかな、とあの日のわたしたちに問い続ける。
そんな思い出話をしたら、その子がクスッと笑って「そんなことあったっけね」と言いながら照れくさそうに「さんまりちゃん、自分の機嫌を自分で取れるようになったよね。あなたのタフさに、救われてるよ」と言ってくれた。
わたしの顔をしっかり見つめて、綺麗な口形で。話し始めるときには目線が合っているかちゃんと確認してくれるし、あのとき教えた手話を交えながら。
わたしは、ことにお耳に関して、周りに恵まれすぎている。
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