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ほんとにわかっているのは、わからないということだけかもしれない。
先日、深夜特急や旅のつばくろで有名な沢木耕太郎さんのインタビュー記事を見つけた。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59489
勧められて「深夜特急」を読み始めたらまんまとはまってしまい、全巻集めて「旅の窓」と「246」にも手を出した沢木耕太郎さん。
・日本人なんだから日本語さえできればいい(わたしはその日本語も怪しいけど)
・異文化なんて国内でも感じられる
と海外をなんとなく避けていたわたしに「ほんとにわかっているのはわからないということだけかもしれない」そう教えてくれて「10日くらい中米を見てこよう」と思わせた人のうちの一人。
ただ海外の情景が浮かぶ文
ではない。
そこで彼がどのようなものと出会い、どんなことを感じたのか。それに想いを馳せることができる文。
読みやすくすること、すっと読めるようにすることが大事だと思っている
そんな彼がインタビューでこんなことを言っていた。
文章の原則は、センテンスを短くすることにある。なるべくセンテンスを短くする。でも、センテンスを短くしても長くなってしまうとき。そこには何かがあるんだよね。
原則は短く、それでも長くなってしまうセンテンスにこそ情感がこもる。長いなと思われて、読まれないとそこで終わり。長いセンテンスを短いセンテンスと同じように読みやすくすること、すっと読めるようにすることが大事だと思っている。
確か、中学生のときに初めて書いたわたしの読書感想文。先生から
「一文が長くてよくわからない」
とひたすら言われ続けたっけ。
今でも、頑張れば頑張るほど私の文では主語が迷子。
文を書くことは好きだけど、相手に伝わる正しい文を書こうとすると一気に書くことが嫌になる。
シューロンを書くときに、誰かさんも似たようなことを言ってたっけ。
「正しい文」って一概にこれとは言えないけれど。でも、ブログを書くような文体ではないのは確か。
GW、実家に帰省したらわたしの部屋にポンとダンボールが一箱置いてあった。開けてみると、わたしが小学生の頃の日記が大量に出てきた。
4年生くらいまでのわたしの日記は、カタカナ語は大抵間違えているし、濁点のつけ忘れがたくさんあるし、助詞も漢字も合っていない。
それでも、毎日毎日書き続けて担任の先生に提出していた。
先生は毎日必ず丸をして、ほぼ全ての日記にコメントを残してくれていた。
間違えた日本語への訂正はほんの僅か。ほぼ全教科を1人で教える小学校の先生が、その貴重な時間を割いてしてくれたのは、間違えている日本語の訂正ではなく、先生との交換日記かのようにも見えるコメント。
もちろん、公に出す作文には、これでもかってくらい修正が入っていた記憶がある。でも、日々の日記を楽しいと思えたのは、毎日書くことで必ず毎日先生からコメントをもらえたから。
できないところばかりを指摘するのではなく、毎日書いてきたこと、その内容に評価をしてもらっていたこと。だから、今も自分の気持ちを日本語で表すのは苦手だけれど、書いて書いて考えることは好きなんだと思う。
読み手にとって伝わりやすい文章だからこそ、沢木耕太郎は職人(プロ)なんだろう。
好きを仕事に
ではないけれど、自己満足で完結しない好きになれたらしあわせだろうなぁ。。。
なんて思っているのでした。
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