待っていて、わたしがわたしをもっと好きになれるかもしれないから@益子陶器市
と口にして気付く。あぁ、今日のわたしはたった一瞬も「お耳が疲れた」と感じずに、今、この夕陽を眺めているということに。
聴覚障害があるわたしは、きこえやすい左耳に、白い補聴器をつけて生活している。この補聴器、昔と比べるとぐんと性能が上がったんだけれども、つけていれば眼鏡やコンタクトをつけてはっきり見えるようにいろんな音を聴き取れるのかというと、そうではなくて。
例えるなら、撮影した動画を再生したときのような感じで、周りの人の声だったり雑音だったりそんなものがブワァっと耳に入ってくる。安い補聴器は昔のホームビデオみたいな、値段が高くなるにつれて動画専用のカメラみたいな雑音カット機能がつく、というと少しは伝わるでしょうか。
ちなみにわたしの補聴器は、補助とかなにもなければ30万円くらいするまぁまぁ上位クラスのものなんだけれども(この上のモデルも試したけれど、今のものと利得があまり変わらなかったので最上位はあえて選んでません)、騒音下では2mも離れてマスクなんてしてたら、何も聴こえない。
そんなわけで、一日中ずうっと補聴器をつけて(色んな音に囲まれながら神経を尖らせて)生活していると、どこかで「お耳が疲れちゃった……」というタイミングがやってくる。
家族とかパートナーとかと一緒にいるときは正直に「疲れちゃったから、ちょっと耳切るね」と言って補聴器の電源を落としたり、お友達と一緒にいるときはさりげなくスマホをいじったりと、一日のどこかで「もう無理ー!」となるのが日常で。(無理しすぎると、夜補聴器を外したときにものすごい耳鳴りに悩まされます)
夕暮れどきというのはまさにそんな時間で、そういえば、カメラを構えてぼうっとしていることも多かったかもしれない。
だけれども。この日のわたしが歩いていたのは、賑やかなトーキョーでもなく、慣れ親しんだ仙台でもなく、益子の陶器市。
一歩進んではかわいい焼き物に目を奪われ、窯元の方々とたくさんお話をさせてもらった益子でのこの日のわたしは、夕暮れどきになっても全然くたびれていなくて。
「わたし、こっちに行ってくるね」みたいなタイミングで、補聴器の電池カバーに手をかけることなく(補聴器は、時計みたいに電池を入れてカバーを閉めると音が出始めるので、耳に掛けながら電源を落としたいときは、電池カバーを車の半ドアのようにちょっと開けるのです)、帰りのバスの時間を迎えてしまった。
これには、わたし自身が一番びっくり。
それなりに人出はあったけれども、やっぱり焼き物たちを「視る」という方に神経をたくさん注いでいたからなのかな。それでも「無理はいけないぞ」と左耳に手をかざしながらもう一人のわたしが囁く。
結局、伸ばした指で迎えたのは、補聴器ではなく胸元にかかっているいつものカメラ。顔の前に構えて、パシャリと夕焼けを撮った帰り道。
別に聴覚障害のあるわたしのことが、補聴器を通した音の世界が、嫌いだとは思っていないけれど。でも、たぶん、疲れるというのとは「好きではない」のかもしれない。分からない。
だからいつか、「暮らす」ということに本気で向き合うときには、「わたしのお耳が無理しないで暮らせるところ」という視点をもってその地を探したい。そしたら、もうちょぴっとだけ、わたしがわたしのことを好きになれるのかもしれない。
なんて思いながら、帰りのバスで夕陽がバアっと赤くなって、それからツーっと陽が落ちていく様子を、じいっと眺めた。
益子、良いまちだったなぁ。