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わたしの言語がそこにあることを、まじまじと感じた。
音の世界と音のない世界の狭間。きこえる友達、きこえる家族に囲まれて、日本語でnoteを書く。補聴器を外しても、言葉にならないにしても音は入る。わたしは、狭間といっても圧倒的に音の世界側の住人だと信じて疑っていなかった。
10月に入って、どうも調子が悪い。
ちょっと、おしゃべりをしたいな。
そう思って、ろうの友人を誘ってご飯に行った。
彼を一目見た瞬間に、わたしの心に溜まっていた想いが溢れてきた。声は出していなかったから、音としては静か。でも、あんまりにも洪水のようにとめどなく流れてくるわたしの想いが、手話となって溢れてきた。
好きなこと。嫌なこと。困っていること。わくわくすること。
手を動かして話しながら、ふと気付いたこと。それは、わたしは自分が思っている以上にきこえていないということ。思っていた以上に、音のない世界側にも居場所を感じているということ。
わたしが声で話せば話すほど、周りはわたしが話を了解していると思いがち。でも、実際のところ受信できている情報は不完全で。それなのに、声で話せているからその不完全さが伝わらない。
いざ動こうとして、周りと自分のもっている情報の量に差があることに気付いて慌てる。このサイクルが、自分の感じている以上のストレスになっているのかもしれない。
昨日、こんなツイートがあった。
そうなんですね。最近仲良くなったお友達がいるのですが、そうゆうの話してくれやすいように、しようって思いました。大切にしたいのはなにかをその子と共有する、楽しむことだから。 https://t.co/BIeavTFxph
— kotoe@宮崎移住起業したいする! (@koootokot0) October 17, 2019
確かに今のわたしの周りには、技術的に手話ができる人がそれなりにいる。でも、技術があっても伝わらなければ意味がなくて。もちろん、わたしが「この人に伝えたい」と思ってもらえるような人であろうと努力することは必要だと思っている。それができているのか、不安で不安で仕方がないのもまた事実で。
そんなときに友達がくれたこのメッセージがとても嬉しかった。
大切にしたいのはなにかをその子と共有する、楽しむことだから。
こう思ってくれる人が、1人でもいる。
心が苦しくなったときに、手話で話を聞いてくれる人がいる。
わたしの世界は、まだまだあったかい。
大事にしたい人が、まだまだたくさんいる。
せっかく狭間の世界にいるんだし、音のある側にスライドしたり音の内側にスライドしたりしても良いんじゃないかな。なんて思ったり。どちらもわたしにとって必要な世界。「ここ」って決めつけないで、柔軟に、わたしの世界を愛していきたい。
今日も、そして今週も、お疲れ様でした☺︎
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