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人生会議を身近に。小藪さんの果たした役割はとってもかっこいいなぁ、と思いながらあの日々を振り返る。
「今日で世界が終わっても、これで後悔しないで終わらせられると思う」
ちょっと夜更かししちゃう夜。ちょっと奮発してお買い物をする瞬間。そんなときのわたしの言い訳。何度かの言葉に甘えてきただろう。でも、願わくば毎日布団に入る瞬間にこう思いたいものだ。
11月30日は、(いい看取り、看取られ)の日。今、ポスターで話題のACP「人生会議」の日だ。
このポスターに対して、がん患者の団体が厚生労働省に抗議をしたことからこの抗議への賛同の声が集まり、ポスター配布中止になった。がん患者団体の意としては「治療に苦慮している患者さんや残された遺族、自分は長くないと感じている患者さんの気持ちを考えたことはあるのか?」とのこと。
確かに、ポスターにうつる小藪さんを「がん患者」と捉えることはできなくもない。でも、実際に祖母を癌で、曽祖母を不慮の事故による病気で亡くした身としてはなんだかしっくりこない。
というのも。
わたしの祖母の癌は、見つかったときには既にStageⅣの末期で、手術はできなかった。そのため、抗がん剤治療や新薬を試すしか術がなかった。癌が見つかってから亡くなるまで約8ヶ月。亡くなる間際まで意識があった。
わたしと祖母は、毎晩語り合った。というか、祖母が毎日わたしに語り続けた。
・通帳の場所
・延命措置をどうして欲しいか
・親戚の昔のエピソード
・どんなお葬式にして欲しいのか
・入りたいお墓
・元気になったらやりたいこと
とにかくよく話した。話を聞いていた祖父と意見が違えば、それはもうものすごい剣幕で喧嘩をしながら。
明日死ぬかもしれない。
そう思うと、彼女にはやらなきゃいけないことがたくさんあったんだと思う。
「そんな大袈裟な」なんて心の何処かでは思っていたけれど、祖母を看取る瞬間、延命措置を断る瞬間、お葬式のスタイルを決める話し合い、お墓をどこにするのかの話し合い。一貫して
「おばあちゃんは、こう言っていた」
そう確信できる選択肢があることは、わたしたちの支えだった。iPhoneのパスコードや暗証番号もATMの暗証番号や銀行印も全て知っていた。だからこそ、比較的スムーズに事が進んだ。し、後から振り返っても「あの時なりの精一杯を尽くせた」と言える事が多い。
一方、曽祖母は介護施設で転倒してから一気に体が弱ってしまい、その日を機にほぼ意識の薄い中この世を去った。
年齢のこともあったけれど、転倒した翌日から曽祖母は自宅での生活を再スタートさせるタイミングだった。家族みんなが、彼女と一緒にまた暮らせる日に心躍らせていた。一緒に暮らしたら、その中で人生会議をしていこう。そう思っていたのだ。
なのに、結局それは叶わず。
「最後に、飲み物を口に少し含ませる事ができます。」
そうお医者さんに言われてわたしが買ってきたのは、祖母が好きだったものの中から「わたしがあげたい」と思ったタリーズのコーヒー。お葬式やお墓については、熱心な檀家さんだったのでいつもの菩提寺に。すべてが「きっと」で動いていた。幸いというのかなんなのか、曽祖母の金銭面の管理はその5ヶ月前に亡くなった祖母が仕切っていたので特に滞りはなく。どちらかといえば、あのときの曽祖母の状態があのポスターの小藪さんに近いと思う。
ポスターに出演した小藪さんも、何も考えずに出演したわけではない。ネットのニュースで「自身が母を亡くした際にちゃんと想いを伝えられなかった後悔の念から、同じ思いをする人が減ることを願っていた」という。
そうなんだよな。
宣告を受けて、苦しんた祖母はちゃんと「あとが短い」ことをわかっていて積極的に人生会議をしていた。対して「そんなはずない」と思っていた曽祖母は、話し足りないまま亡くなってしまった。
なんていうか、「今はまだ余裕」そう考えている一般の市民に対して啓蒙する必要のあるトピックスだと思う。
だから、病院や緩和ケアのセンター、リハビリ施設にあったら、そりゃちょっと恐怖心を煽ると思う。「人生会議」が必要だって自覚できる人たちだから。
じゃあ、一般の市民に伝えるには?
お笑い芸人が出てきて、親しみやすくでも危機感をもって啓蒙する。現にこの騒動で「人生会議」は、より多くの市民の目にするものになったのではないだろうか。一時的なものかもしれないけれど。そう考えると、あのポスターにもちゃんと意義があったんじゃないかな。
もちろんあのポスターを見て嫌な思いをした人も一定数いるわけで。そこには真摯に対応していく事が必要になると思うけど。
でも、病院に「笑い」がタブーになっていくのは恐ろしいなぁと思う。少なくともわたしの祖母は、わたしや妹たちのほんの些細なできごとに「笑う」ことで元気になれる時間があったように見えたから。
笑いながら、でも真剣に、誰でも、人生会議は必要だと思うんだ。ちなみに、わたしと母と祖父は、会うたびに人生会議で。
「今日で世界が終わっても、これで後悔しないで終わらせられると思う」
は、半ば冗談半ば本気な考えなのです。
少なくとも祖父と母は、今のわたしが求めているものを知っている。その中で思いの食い違いがあることも知っているし(例えば、延命措置。わたしは、祖母の一瞬の延命措置を見て絶対に断って欲しいと思っている。でも、母は僅かなのぞみがあったら延命措置を続けてもらう。例え植物状態になっても、と言っている)、もしそうなったらわたしは表出できない意識の中で「しょうがないなぁ」と笑うことにしている。
明日、いやあと1秒後。何が起こるかなんて、予想することはできても、本当は何もわからない。だからこそ
「今日で世界が終わっても、これで後悔しないで終わらせられると思う」
そう言えるような日々を送れたら、それが本望だなぁと考える11月29日の夜なのでした。
今日もお疲れ様でした☺︎
おやすみなさい。
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