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今日も明日も、noteさんに褒めてもらいたくて。

昨夜は、うっかりnoteの更新を忘れてしまうところだった。「投稿してない!」と気付いたのは夜の23時48分で、タイムリミットを15分きっていて。それだというのに、なかなかWi-Fiが繋がらなくて「これはもうダメだ……」と項垂れていたらなんとか写真がアップされて52分。

これは、夕方に近所のショッピングセンターへ向かう道すがらに見上げた空。18時半を過ぎてもまだ青が残るこの時期特有のお空をパシャリしたときのもの。この写真がなかなかアップロードされないもんだから、焦ってつぶやきも一言だけ。

noteの毎日投稿はお仕事でもないし、義務でもない。これは純粋に趣味で、わたしとの約束。だから破ったところで誰にも迷惑はかけない。だからこそ、誰よりもわたしの身近にいるわたしとの約束は大切にしたいという気持ちが、この250日近い日々の中でふつふつと沸いていて、今日もこうしてnoteを書いている。

正直「今日は気分が乗らないな」と思う日もある。そんな日が続くときもあれば、毎日2,000字近い文章を書きたい日が続くときもある。後者がやってくるたびに「毎日書いててよかったな」と思うので、そんな日のわたしのために昨夜みたいなつぶやき投稿もする。

noteさんの素敵なところは、つぶやきでも投稿でも、毎日なにかしらの投稿をしていると連続更新の日付が表示されるところ。「毎日がんばってるね」と1日の終わりに誰かに褒めてもらえるということ。

オトナになればなるほど、誰かに褒めてもらう機会というのは減っていくように思う。甘えたい好きな人とかには「ねぇ、ヨシヨシしてよ」なんて直接お願いする日もあるけれど、そう毎日おねだりするわけでもないので、そんな中で毎日noteさんに褒めてもらえるのは、やっぱりとても嬉しい。

わたしが日記を書くようになったのは、小学一年生の頃。聴覚障害のある子って、日本語を伸ばすために日記を毎日書くという宿題を経験しがちで、わたしも例に漏れずそのうちの一人。日記を毎日書いては担任の先生に提出して、花丸と一言のコメントをもらう。

わたしの担任の先生は、聴き取り間違いをしている日本語は見本を書いてくれていたけれど、文法指導は対面指導のときだけ。日記を書いて提出すると、先生から一言メッセージを書いてもらって。それにまたお返事を書いたり次の日の日記を書いたり。担任の先生と交換日記をしているような、先生とわたしの秘密が詰まったノートは、わたしの宝物で。

今思えば、文法なりなんなりと直したい箇所はたくさんあっただろうけど、何よりも「毎日書きたい。先生に読んでもらいたい!」という気持ちを育んでもらったことが、今こうやって毎日noteを書くわたしを作ってくれたのだと改めて思う。

ゴールデンウィークに地元に帰ったとき、当時の担任の先生にこの話をしたら

「さんまりちゃんはねぇ、書記日本語は確かにめちゃくちゃだったけれど感性が豊かだから。そこを伸ばしてほしいと思っていたんだよ。文法は、自分でまずいと思ったときに勉強すればいいけれども、感性は子どものうちに大切にしてあげたかったから。」

と嬉しそうに教えてくれた。先生のお言葉通り、中学1.2年生の頃に日本語文法に盛大に躓いて(というか、やっと自分の文章の文法が壊滅的であることに気付いただけ)、泣きながら勉強をした記憶がある。今でも、わたしの使う文法や句読点には自信がないので、このnoteを書くときにもしょっちゅうネットで検索しながら書いている。

確かに気が乗らない日もあるけど、それは「お風呂に入るのだるい」「夜ご飯の後の洗い物だるい」くらいのだるさで。「絶対に書きたくない!」ではない。

つまり「書いたいこと、伝えたいこと」というものがなくなった日は一日もなくて。心を動かされては言葉に綴ったりシャッターを切りたいと思うことたちに、日々出会うことができている。写真の構図やレタッチも、やっぱり人の数倍勉強が必要なんだけれどもね。

小さい頃のわたしを大切に育んでくれた人たちと、noteさんのポップには、似たような温かさを感じる。どちらも作品の良し悪しではなくて、毎日続けていることやそんなわたし自身を肯定してくれる、大切な大切な存在。

noteさん、いつもありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いします!

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🌻さんまり🌻
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